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少女と令嬢

 視界を覆っていた目隠しが外される。

 冷たい床に膝をつきながら呆然と顔を上げれば、遥かに高い天井まで続くステンドグラスが目に入った。


「ごきげんよう」


 鼓膜を揺らした可憐な声に視線を向ける。神話をかたどった色鮮やかなそれを背にして、少女を見下ろすようにその人物は立っていた。


「3年ぶりですわね」


 差し込む月光に銀の髪を輝かせ、ステンドグラスを通った美しい光を纏って、彼女は微笑みを零す。

 その風貌は正に、背後の窓に描かれる女神のようだった。


「ふふ、美しいでしょう?我が家の礼拝堂は特に装飾に力を入れていますのよ。いくら罪人といえど悔い改める機会も無いまま殺してしまうのは可哀想だと話したら、お兄様がここを使っていいと仰ってくださったの」


 一人楽しそうに喋りながら、後ろの祭壇に寄りかかるように手をついて姿勢を崩す。宮廷に居た時には決して見せることのなかった姿に少女は目を細めた。


「こんな美しい場所で懺悔できるなんて、悪女には過ぎた最期かしら」


 国内有数の名家に生まれ、輝かしい美貌を持ち、華々しい将来を約束された女。

 次に日が昇った頃にはこの国の王妃となる人間が、眼差しを嘲笑に歪めて少女を見ていた。


「…………」


 それから逃れるように俯く。石造りの床も、夜の空気も、注がれる視線も、何もかもが刺すように冷たい。


 少女は石の継ぎ目を追いながら口を噤んだ。

 身じろぎの衣擦れが響くほどの沈黙が降りる。令嬢が気だるげに首を傾げると同時にはらりと肩口から髪が垂れる音すら聞こえる中、少女は瞬き一つしない。


「ああ、ごめんなさい。その状態では手も合わせられませんわね」


 純粋な気付きか、痺れを切らしたか、大仰に手を叩いた令嬢がつかつかと歩み寄る。どこか覚えのあるような薔薇の香りが鼻先を掠めるほど接近すると、白魚のような指先が少女を縛る麻縄に触れた。


「ほら、これで出来ますわよ。懺悔も謝罪も命乞いも」


 拘束から解放され、背中で縛られていた腕が重力に従って垂れる。それでも微動だにしない少女の様子に、令嬢は眉間に皺を刻んだ。


「どうしましたの?平身低頭して許しを乞うのはお得意でしょう?」


 明らかな不機嫌を孕んだ声が冷たい空間に響く。

 それを耳にして、漸く少女は微かに喉を震わせた。


「…………ふ」


 最初に出てきたのは笑いだった。項垂れたまま小刻みに肩を震わせる姿はどこか不気味で、令嬢が怪訝そうに眼差しを歪める。


「やっぱり貴女、殿下に相応しくありませんね」


 少女が顔を上げた。

 笑わずにはいられなかった。


 決して歓喜でも、まして諦めでもない。それでも笑みがこみ上げてくるのは、令嬢が『それ』を知っていることがあまりに可笑しかったからだ。


「私の過去まで調べたようで。そんなに羨ましかったんですか?」


 本にも描かれた断罪の場で王太子本人から全否定された、少女の自負。あの時、勝者の風格で笑んでいた姿からは想像もできない行為。


 少なからずあったのだ。

 常に柔和な笑みを浮かべていた、底が見えない女の心に刺さる何かが。


 持って生まれたものから育った環境、望まれる未来まで何もかも違うのに、庶子であり罪人である少女の存在がこの貴人の胸中を踏んだのだと思うと、笑いを堪える方が難しい。

 見れば、令嬢は目を見張っていた。口元をギュッと引き結び、何かを堪えるような表情を湛えて少女を凝視していた。

 それを鼻で笑えば、少女の無防備な肩に痛みが走る。

 令嬢の細い脚から繰り出された蹴りは勢いを伴うものではなかったが、突然の衝撃に少女は固い床に背中を打ち付けた。


「……つまらない遺言ね」


 起き上がろうと手をつく少女の眼前に立ち塞がった令嬢が顔を顰める。声と視線が宿す剣呑さは、少女の言葉を否定しない。


「羨んでいたのは貴女の方でしょう?怪物と成り果てた悪女さん」

「怪物?」

「あら、流石は庶子。慣用句も碌に知らないのね」


 少女に跨るような形で身を屈めた令嬢が顔を近づける。彼女の持つ菖蒲色の瞳が見開かれ、少女の姿が反射した。


「Green eyed Monster ――――嫉妬という名の怪物」


 その菖蒲が映し出したのは、何処までも深い翡翠の色。


「貴女のことよ」


 少女の瞳に宿る翡翠が凪いだ。


「わたくしが殿下に相応しくないとか何とか、まるで殿下の為を思って実行したとでも言いたげですけれど、結局貴女はわたくしに対する妬み嫉みから凶行に走った。自制心よりも感情を優先した愚かな罪人に過ぎないわ」


 押さえつけられた手首に力が籠っていく。菖蒲を揺らす令嬢とは対照的に、少女の胸中は穏やかだった。

 翡翠が上を向く。

 それは令嬢を捉えているようで捉えておらず、その先にある高い天井を見ているように遠い視線だった。


「そうですね」


 言葉にされるまでもなく分かっていた。

 自分の都合を最優先に動いたりしない、などと宣っておきながら、実に利己的で我欲に塗れた動機を抱いて行動したこと。

 それが可能なのは自分しかいないという身勝手な使命感で覆い隠したこと。

 それら全てを正しく認識しておきながら、罪の意識を上回る高揚感に唆されて、見て見ぬふりをし続けたこと。


「でも私、後悔は無いんです」


 少女の言葉に、令嬢が意外そうに眉を持ち上げる。


「無いというか、無くなったというか、したくないというか。自分のエゴを押し通した結果行き着く先が断頭台だったとしても、本音を殺して内心嫉妬にまみれながら笑顔を強要される人生より、よっぽど自分を誇れる」


 今日一日、青年と歩いた景色が脳裏を流れる。

 見たもの、聞いたもの、感じたこと。

 例え全てが少女をこの状況に追い込むための策だったとしても、あの青年が少女の心に再び灯を宿したことは確かで。

 少女はそれを偽りだとは思えなかった。

 下手を打ったな、と今は居ない令嬢の兄を嗤う。

 きっと、罪の清算をさせたかったのだろう。戴冠式を迎える前に過去の蟠りを解消し、清々しい気持ちで王太子の隣に並び立ちたかったのだろう。そんな妹の姿を見たかったのだろう。

 なら、青年の姿であんな言動をするべきではなかった。


「あの人と出会って、それに改めて気付かされました」

「……それ、記者に扮したお兄様のことでしょう?全部ただの詭弁よ」

「ええ、分かってますよ。でも、お陰でもう一度抱けたんです」


 下策だと思う。

 けれど動かずにはいられない。

 今じゃないのだ。

 終わるのはまだ、今じゃない。



「惨めじゃない人生を生きたいって」



 令嬢が何か反応を返すよりも早く少女は行動する。

 唯一自由になる脚を思い切り引くと、馬乗りになった際、床に広がった少女のスカートに膝を置いていた令嬢のバランスが崩れた。


「ひゃっ!?」


 慌てて体制を直そうとするその隙を縫って令嬢の下から脱出する。力も体幹も日々身体を使って働く少女が上回り、令嬢が勢いを殺せず床の上を一回転して漸く息をついた頃には、少女は出口に向かって走り出していた。


 その小さな背中に何者かが迫る。

 襟首を髪ごと引かれ、呻き声が漏れた次の瞬間には左右から繰り出された腕が少女を羽交い絞めにした。

 今までの人生で体感したことのない力強さに顔を顰める。気付けば少女を取り囲むように公爵家の私兵らしき人間が並んでおり、怖気が走るほどの殺意が一身に注がれた。


「馬鹿ね、わたくし一人なわけないでしょう」


 後ろから衝撃の余韻を残した息遣いが聞こえてくる。やがて少女の真正面までやってくると、令嬢は無駄な抵抗をする少女に対して盛大に口元を歪めた。


「死んでも胸を張れるというなら大人しく死んでおきなさいよ。3年前といい今といい、逃げては無様に捕まっているじゃない」

「……足掻かないとは言ってませんから」

「結果は変わらないのに?」


 汚物を見るような視線を前に自然と少女は口角を上げる。女神の御前で取り押さえられた咎人という状況を払拭するような、強い意志に彩られた笑みだった。


「死という結果は絶対に変わりません。だから人間は人生という過程を大切にするんです」


 じっと翡翠を見つめた令嬢はやがてふん、と鼻を鳴らす。そしてスカートのポケットに手を入れると、その中からハンカチに包まれた短剣を取り出した。


「もういいわ」


 温度のない声が鼓膜を揺らす。

 身体の自由は完全に効かず、四方八方を囲まれ、眼前には凶器が輝いている。


 もはや一分の隙もない。

 目前に迫った死に対して、それでも少女は思考を止めなかった。迫りくる足音に冷や汗が落ちても、肌に触れた刃の冷たさを感じても、少女の翡翠は光を無くさなかった。




「幾分かは面白くなったから」




 月光を纏った刃が鈍く光ったのを最後に、少女の視界は暗転した。

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