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「そろそろお戻りになりませんと、次のご予定に間に合いませんよ」


 黄昏時に差し掛かった王都。

 いつかと同じ高台の上でじっと城下を見つめる背中に少女は声をかけた。


「殿下」


 反応がない後姿を優しく呼ぶ。今晩もパーティーが催されるのだから早く準備を進めなければいけないのに、と思いながらも、王太子の態度の理由を察していた少女は口角を緩めずにはいられなかった。


「お前の意思は変わらないのか」


 振り向かずに王太子が言う。そのぶっきらぼうな声音が可笑しくて、まるで拗ねているようだと感じた。少女はつい先日王太子に告げた言葉を思い返し、「はい」と短く肯定する。


「私は今月一杯で、メイドを辞させていただきます」


 二度目となる言葉を告げると、一拍おいた王太子から盛大な溜息が零れた。身体から空気が抜けると共に身体を萎め、遂には地面に寝転がる。


「殿下、お召し物が汚れてしまいますよ」


 少女は傍らに膝を折った。仰向けになったことで漸く伺えた王太子の顔にはありありと不機嫌が浮かんでいて、少女はいっそう眦を下げる。


「そんなにあの男の元へ行きたいのか?僕の側を離れてまで?結婚が幸せだと思っているのなら言っておくぞ、あの男は」

「殿下」


 王族の言葉を遮るという不敬も、この方の駄々の前では嗜めの言葉になる。

 それが許される関係性を築けたことが、人生最大の幸運であると疑いようもなく思った。


「私は、殿下に幸せになって頂きたいのです」


 自分の為ではない、誰よりも大切なこの方の為に縁談を受けるのだと、自身の胸で固めた決意を再確認する。自分の幸せと王太子の幸せ、どちらを優先するかなど天秤に乗せるまでもない。少女にとっては愚問極まりない二択だ。


「……お前は、考えたことがあるのか?僕にとっての幸せが何であるのか」


 茜色に染まる夕空を見上げなら王太子が言った。先程までの幼子のような声色が失せた、小さく冷たい声だった。


「ご令嬢と出会われてから、日々実感していらっしゃるのでは?」


 少女は思わず首をひねる。王太子は吸い込んだ息を一瞬止めて、言葉と共に吐き出した。


「そうか…………そうだったな」


 紺碧が瞼の裏に隠れる。

 再び瞳が覗く数秒の間に、一陣の風が二人の間を通り抜けた。

 大して冷たいものでもないというのに、何故だか酷く体温を奪うような風だった。


「想い合う二人が過ごす『当たり前の日常』を、世間では幸福と呼ぶらしい」


 やがて王太子が口を開く。

 青い瞳がガラスのように焼けた雲を反射していた。




「泣き言を零して呆れられ、おどけては叱られて、馬鹿な話で笑って……そんな『当たり前』のことが出来ない僕に、随分と酷なことを言う」




 告げられた言葉を噛み砕くのに、少女は甚大な労力を要した。

 今、この方は何と言ったのだろう。

 何が言いたいのだろう。

 二人で『当たり前』を経験することが幸せだとするなら。それが出来ないと言うのなら。



 幸せになってほしいという願いを、酷だと感じるならば。



 そんな筈はない、と少女は思った。

 確かに王太子は立場上迂闊な発言は出来ない。幾ら想いを通じ合わせていても政略が絡んだ縁であることに違いはないのだから、それに反するような言葉も口に出来ない。

 けれど、少女の目に映る二人はいつだって幸せそうに笑い合っていた。

 王太子の思う『当たり前』が幸福の全てではない。好いた人に物を贈る、好いた人と食卓を囲む、好いた人と連れ立って歩く……それらもまた一般的に広く行われている『当たり前』の付き合いだ。身分に妨げられる行いではないのだから、王太子と令嬢にも可能ではないか。


 だからそんな筈はない。

 そんな筈はないのに、少女は零される言葉を逐一読み取り、考えてしまう。

 


「周囲の言葉が耳に入る度、思うんだ」



 最近、貴族の話題は王太子の婚約話一色だ。二人がいかに似合いで、素晴らしく、尊いか。少なくとも少女は二人に対する悪評など聞いたことがない。



「もし、運命を変えることが出来るなら」



 運命的な二人だと囁かれていたことを思い出す。

 乾いた瞳に視線が突き刺さるのを感じて、その紺碧と目を合わせて、少女は息を呑んだ。


 気のせいかもしれない。

 勘違いかもしれない。

 誤解かもしれない。


 そうでなくてはならないと、頭では分かっている。

 それでも。



「そうしたら僕は、きっと――――…………」



 こちらを向いた眼差しから、掠れた声から、空に溶けた吐息から、感じ取ってしまった。

 決して向けられることなど無いと思っていた温度を。

 火傷しそうなほどの熱を。


「なにを、仰っているのですか。だって、殿下は、お二人はあんなにも、仲、睦まじく」


 喉が焼かれたように声が詰まる。

 言ってはならないのか、言いたくないのか。どうして言葉が続かないのだという自問に少女の思考は二つに割れた。


 視界が揺れる。

 最早自分でも自分の気持ちが分からない。







「…………ふ」



 沈黙が降りた二人の間に、小さな笑声が落ちた。



「何だ、本気にしたのか?凄い顔だぞ」


 王太子は声に笑いを含ませる。気付けば、その態度からは子供のようないじけも嫌な静けさも無くなっていた。


「は、」

「お前があまりに清々しい顔で辞意を口にするものだから、少し揶揄っただけだ」


 あまりの衝撃に開いた口が塞がらなかった。王太子の言葉を理解するのに数秒を必要とし、漸く全て呑み込んだ時には、自覚してもどうにもならない程顔が真っ赤に染まっていた。


「~~っお戯れが過ぎます!!」

「肩で息をする程か?」

「心臓に悪いんですよ!!」

「ふふ、安心しろ。本気じゃない」


 首まで朱に染めて叫ぶ少女の姿を笑って、王太子が立ち上がった。


「ちゃんと冗談だよ」


 王太子は視線を遠くへ投げながら静かに言葉を落とす。人を思うさま揶揄った後には似つかわしくない声音だった。


 まるで、自身に言い聞かせるような。


 そう思った瞬間に否応なく意識が引っ張られる。

 冗談。戯言。本気ではない軽口。

 今まで王太子がそれを口にした場面が鮮やかに蘇った。


「……殿下」


 戯言だからと零された愚痴。

 冗談だと言って隠した甘え。

 そして、本気じゃないと笑った幸福に対する嘆き。

 もし、もし仮に、それらが戯言でも冗談でも軽口でもないとしたら。


「殿下にとって、冗談が言えることは幸せですか?」


 夕日によって影が落ちる横顔に少女は声をかける。

 その言葉が抱く真意を見透かしたように王太子は目を細めた。


「ああ。それを言えるのも、分かってくれるのも、唯一お前だけだからな」


 未だ地面に膝をついたままの少女に大きな手が伸ばされる。


「僕はこういう時間が好きだ。それが失われるのは惜しいよ」


 それを取ることに躊躇を見せる少女など気に留めず、半ば強引に小さな手を握った。勢いのままに、しかし腕を痛めぬようにと気遣いながら引っ張り上げ、先程よりも近くに来た少女の顔をじっと見つめて眉を下げる。


 寂しそうな笑みだった。


「殿下、」


 繋がった手から熱が伝わる。腕へ、肩へ、やがては胸まで至ったそれは、少女が強い意思で固めた決意をじわりと焼いていく。

 紺碧から目を離せないまま、ゆっくりと溶け落ちていく感覚に身を委ねた。

 そして、落ちた雫が腹の底で澱んでいた塊に着地し、熱が伝播する。


「とても惜しい」


 宿った温度を感じ取って、初めて少女は澱みの名前を知った。










「……幸せそうなことだな」


 人の不幸も知らずに、と思わず零れ出る。無意識だったそれにハッし顔を伏せるが、蚊の鳴くような声は人々の歓談にあっという間にかき消えて、男は密かに胸を撫で下ろした。

 しかし男は顔を上げない。あの光景を視界に入れていてはまたいつ失言が飛び出すか分からなかった。

 楽しそうに語らう二人の男女。今夜のパーティー用にと特別に用意された美しい菓子に目を輝かせる令嬢に、それを愛おしそうに見つめる王太子。

 思わず深い溜息が口をつく。


「それが人の性ですよ、閣下」


 突然背後からかけられた声に心臓が跳ねた。

 聞かれていた、という焦りに加え、あまりに予想だにしない声だった故に。


「幸福に身を浸している間は、目前に転がる不幸に気付けないものです」

「君、」


 驚愕と共に振り返れば、声の主が持っていたグラスに腕が当たる。跳ねたワインがシャツに染みを作ることを予期していたように芝居がかった声が響いた。


「ああ、大変申し訳ございません。直ぐに着替えをご用意いたしますので、別室でお待ちいただけますでしょうか」


 男が目を見開く。

 少女はそれを真正面から受け止めた。


「……何故」


 周囲の人々を警戒するように男が声量を落とした。しかし少女は芯の通った声で言う。何も恥ずべきことはないと、堂々とした風格すら漂わせて。



「私は殿下に幸せになって頂きたいのです」



 少女は思い出す。


『だからこそ、ありのままのご自身を曝け出すことができるのでしょう』


 それを受け止められるのは自分だけだと。


『僕はこういう時間が好きだ。それが失われるのは惜しいよ』


 それを理解できるのは自分だけだと。


『君はもう知っている筈だろう、運命は変えられると!』


 それが可能なのは、この世で自分だけなのだと。




 ――――なら。私が取るべき行動は、成すべき目標は?




 ぐつぐつと熱いものが身体の底から湧き上がってくる。

 いつしか少女の全身を覆うほどに肥大化していたそれが血が通ったように動き出した。足を動かせば少女の足も動き、瞬きをすれば少女の瞳も瞬いた。



 何でもできると錯覚してしまうほどの全能感が少女を包んでいた。

 手を取ろうと思えば取れる。言おうと思えば言える。触れようとすれば触れられる。そう思うことが、思えることがひたすらに心地良い。




「それを妨げる不幸が転がっているのなら、排してでも」




 そうして少女は怪物になった。

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