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 瞳が乾くことも厭わず見ていた。

 目を閉じる筋肉も、顔を逸らす神経も、何もかもが言うことを聞かなかった。

 少女の意思に反し、頭が勝手にいつぞやの記憶を弾き出す。


 そうだ、あれは、たった数日前の出来事だった。




 頻度は高くないものの、ストレスが一定限度を超えると酒が飲みたくなるらしい王太子の晩酌に、いつものように付き合っていた時だ。

 顔を赤らめ頭をぐらつかせる王太子に水を差し出し、愚図りを適当にあやしながらベッドまで誘導して。


「まだ寝たくない……」

「明日も早いのですから。殿下のお身体も休みたがっていますでしょう?」

「眠く、ない……」

「あくびを噛み殺している方が何を仰っているのです」


 文句を言いつつも横になった身体に布団をかけようとした、その瞬間。


「ならお前が枕になれ、そうすれば眠れる」


 白い指が少女の袖口を引いた。

 アルコールによって色付いた頬の上を、睡魔によって生じた涙が一筋滑り落ちる。


 少女は前のめりの体勢で固まった。

 潤む紺碧から目が離せなかった。


 駄々はもう星の数ほど聞いている。酔いが回った姿だって両の手では足りないほど見ている。

 けれど、そんな馴染みのある様子ではなかったから。



 少女は感じ取ってしまったのだ。

 本心を。深憂を。零れる声から切願を。

 そして自身の奥で響いた、確かな鼓動の高鳴りを。



 しかし、少女は彼の胸中を断定できなかった。

 自由な判断を許したら、どこまでも都合良く解釈してしまうという確信があった。


 言い訳さえ浮かんだ。

 だって、主人が言ったから。王太子たる相手からの命だから。


 次々と浮かぶ言葉が脳みそを占拠しようとする中、同時に少女はそれを見ていた。

 視界の端にちらつく髪の毛。

 今日まで伸ばすことをしなかった、短いままのそれ。

 その理由を思い出して少女は瞳を揺らす。

 気付けば、肌を滑った雫はシーツに吸い込まれて消えていた。


「……ふふ、冗談だよ」


 力が抜けたように王太子が微笑む。それを見て、少女は喉奥から何かがせり上がってくるのを感じた。

 それが音になるよりも早く王太子が目を閉じる。


 衝動のまま声を出したら、一体何を口走っていたのだろう。

 少女は答えを見つけられなかった。


 その時は。




 しかし今、その光景を目にして、理性を無視して飛び出そうとする言葉を寸でのところで呑み込む最中に、理解した。

 慌てて閉じた口が震える。


 言ってしまいたい。

 叫んでしまいたい。

 それは許されないとすまし顔でぬかす理性を殴ってしまいたい。


 なんで彼女があそこにいるの。どうして彼女は良くて私はダメなの。


 答えなんて分かり切っている問いばかりが頭を巡る。

 殿下の側に寄り添うのは私だ。

 その頭を膝に乗せるのは。優しく髪を撫でるのは。微笑みを返して、他愛のない会話に花を咲かせるのは。

 それを強請られたのは私だったのに。 

 本当は、本当は私だって。

 私だって…………




 女神のような微笑みを湛えて膝を貸す彼女に王太子が手を伸ばす。

 陶器のように美しい頬に彼の指が触れる瞬間を、彼の口元が弧を描く様を、見た。


 見てしまった。

 見なければ良いものを。


 喉元で暴れ回っていた衝動が腹の底へ沈んでいく。

 沈んで、沈んで、それを消化しようとしたものを取り込んで質量を増していく。


 これを放っておいたらどこまで大きくなるのだろう。

 他人事のように思いながら、少女は楽し気に笑い合う未来の国王夫妻を見ていた。







「見て、殿下と公爵家のご令嬢よ」



 忙しなく動き回りながら仕事をこなす傍ら、少女の耳はその言葉を拾い上げた。

 オーケストラが奏でる音に貴族達の歓談が溶けるダンスホール。普段であれば気に留めることのない雑音であるのに、それが執拗に脳を揺らした。


「まあ、あれが噂の……」

「ええ、時間を見つけてはお二人で逢瀬を楽しんでいらっしゃるらしいわ」


 貴婦人の楽し気な声に、空いたグラスを回収していた少女は足を止める。思わずそちらを振り返れば、フロアの中心で手を取り合いダンスに興じる二人の姿があった。


「この間は庭園の東屋で殿下に膝枕をして差し上げたとか」

「殿下の方からせがんだとも聞いたわよ」


 その話を耳にした瞬間、少女は意識を逸らすように再び足を動かす。速足で人々の間を縫い、仕事に集中しろと自身に言い聞かせた。


 社交シーズンとあって、ダンスホールには東西南北から大小様々な貴族が集まっている。喋る人間が変われば話題も様々に変わっていくものだというのに、ここ最近はどの貴族からも同じような話しか聞こえてこない。


「本当に仲がよろしいですな」


 バックヤードの近くも。


「お二人とも秀麗で教養高くて……実にお似合いだわ」


 入口付近も。


「このまま順当に進めば、この国の将来は安泰ね」


 バルコニーの手前も。


「これはもう、婚約者は彼女で決まりだろう」


 演奏者の側も。


「正に運命的な二人だわ」


 人が少ないホールの隅にいても。


 どこにいても、誰であっても、耳に入ってくるのは決まって二人の話だった。聞くつもりも聞きたいと望む心も無いのに、少女の鼓膜は勝手に音を捉えてしまう。


 気付けば視線が床を這っていた。

 周囲の言葉を餌にしてまた一層大きくなったそれに気付かないように、必死に仕事のことを考える。

 そうして一刻も早くこの空間から抜け出そうと歩を速めた瞬間、少女は目の前に立っていた男性に衝突した。


「っ申し訳ございません!」


 ちゃんと顔を上げて前を見ていれば起こり得なかったこと。普段であれば有り得ない失態に顔を青くした少女は慌てて頭を下げたが、返ってきたのは予想外の声だった。


「いや、私こそすまない。不注意だったな」


 あまりに久しい響きだった。

 驚きから弾かれるように頭を上げる。視界に映った顔に目を見張った。


「しかし、この姿でここには居られないな……君、悪いが着替えを用意してもらえるか」


 グラスから跳ねたワインが白いシャツに染みを作っている。それを見た少女は男性を別室へ案内すべく動き出したが、一瞬だけ言葉に詰まったように顔を強張らせた。


「申し訳ございません、直ぐにご用意させていただきます」


 今は社交シーズンだ。貴族であれば誰が参加していたとしてもおかしくない。

 けれど、とうしてこのタイミングで会ってしまったのだろう。


「ああ、助かるよ」


 少女は儀礼的に頭を下げた。苦虫を嚙み潰したような顔を見られるわけにはいかなかった。







「久しぶりだな。元気だったか?」


 別室の扉を閉めるや否や、男性は口を開いた。


「お気遣いありがとうございます。お陰様で、日々王家の為に働かせていただいております」

「ここには私達しかいない。もっと砕けた口調で喋っていいんだぞ」

「ありがとうございます。しかし私は一介の使用人に過ぎませんので、貴族の方々に対しては常に敬意を持って対応させていただきたいと思っております」


 眉を下げる男性に対し、少女はどこまでも機械的に返答する。


「……私は使用人ではなく、娘だと思っているよ」


 ジャケットから腕を抜く男性の顔には悲し気な微笑が浮かんでいた。しかしそれを目にしても、少女の心が揺れることは無い。


「お言葉ですが、私の家族は既に亡くなっておりますので」


 目の前の男を父親だとは思えなかった。


「そうか…………そうだよな」


 使用人として淡々と着替えの補助をする少女は、脱いだ流れのままジャケットを回収する。気落ちした声など歯牙にもかけない様子を見ていた男は目を伏せたが、一度大きく深呼吸をすると、前を向いた瞳に強い意思を宿らせた。


「だが、君が私と血のつながりがあることは確かだ。だからこうして接触した」


 先程とは異なる芯のある声が少女の動きを止める。

 呼び出されたのだと分かっていた。何か言われるのだろうと予期していた。

 少女が運んでいたグラスは空だった。にも拘らず染みができたのは不自然だ。少女はその時、男が持っていたグラスはワインで満たされていたのを見ている。


 この状況は男が意図的に仕組んだものだった。


「君が何と言おうと私は父親として言うべきことを言う。だから君も娘として聞け」


 使用人であることを咎めるように男は少女からジャケットを取り上げる。少女は目の前に立つ男から注がれる強い眼差しをつまらなさそうに見上げた。


「殿下の側から離れなさい」


 発された言葉に目を細める。


「今のままでは、君が報われることは絶対に無い。叶わない夢に固執するより、もっと違う道に目を向けなさい」


 …………。

 声が途切れた後、数秒待っても他の言葉は出てこない。もう記憶もあやふやなほど昔に聞いた以来の「父親」の言葉に耳を傾け、少女から出てきたのは呆れが色濃く滲んだ溜息だった。


「父親として言うべきこと、というのはそれだけですか」


 実に下らない、聞く価値もない戯言だと思った。

 報われないだの、叶わない夢だの。少女は一度たりとてそんな分不相応な願いを口にしたことなど無いというのに。


「でしたらご心配には及びません。身の程を弁えた振る舞いを違えるつもりはございませんし、今後も殿下をお支えしていくことが出来れば、それだけで十分に幸福ですので」

「それが出来なくなると言っているんだ」


 男の訴えを一蹴してジャケットに手を伸ばす。が、それを見越していた男は数歩下がって少女から距離を取った。


「君に縁談が来ている。例の公爵家からの紹介だ」


 言葉の意味を上手く咀嚼できなかった。

 その響きと自分を繋ぎ合わせることが困難で、思わず目を瞬かせる。


「は、縁談……?」

「相手は西の辺境伯、男爵家の庶子にとっては破格の申し出と言っていい。一生何不自由なく暮らすことが出来るのは一つの幸福だろう」


 少女はゆっくりと言葉を呑み込む。

 自分に縁談が舞い込むなど信じられない話だった。

 貴族の中でも末端に近い男爵家、それも庶子にそんな上手い話が回ってくるなど考え難い。少女は疑心を思考回路に流して、そんな話が持ち上がった理由を探した。

 そして、パーティーやお茶会の場で何度か耳にしたことを思い出す。


 侮辱としか受け取れないそれに口角を歪めた。


「六十も近い、好色家で有名な既婚者の妾になることが、貴方が考える娘の幸せですか?」

「ああ。君にとって、これ以上無いほど良い話だと思っている」


 こんな言葉を吐く男が、自分の父親を名乗っている。

 その事実に反吐が出る思いだった。


「私の幸せは殿下なくして成立しません」

「ああ、それも分かっているつもりだ。しかしな……」

「貴方がその話を勧めるのは娘の幸福を願っているからではなく、単に断れないからでしょう?なにせ仲介役がかの公爵家ですから。娘を政治の道具にするのは結構ですが、私は貴方の娘ではありませんので、そのような話をされてもお答えできません」


 吐き捨てるように言った。

 気圧されたのか身を固くさせた男から今度こそジャケットを奪い取る。最早使用人としての態度とはかけ離れてしまっているが、体裁だけでも取り繕っていなければ自分はこの男の娘なのだと認めることになってしまう気がした。


「…………そうだな。断れないんだよ、今のままでは」


 どこまでも使用人であろうとする娘に、男がぼそりと零す。

 そうであるべきなのだと自身に言い聞かせるような姿が、父親にとっては痛々しかった。


「君は、水面下で起きている派閥争いを知っているか?」


 新しいシャツを用意する少女は耳を貸す様子もない。それでも構わず男は続ける。


「細かく存在する派閥は、その思想を大別すれば二つに分けることができる。現在の在り方を守らんとする体制派と、現状に変革を求める反体制派だ。今回妃候補として第一に宮廷へ上がったのは、体制派の実質的頂点である公爵家の令嬢。仮に彼女が失墜し候補から脱落した場合は、第二候補である伯爵家の令嬢に席がまわってくる。そしてその家は、反体制派の実質的な頂点だ」


 男の声色に陰りが生じる。言い辛そうに顔を伏せた。

 しかし、その手は強く握られている。


「今のままでは断れない、今のままでは報われない。なら、今を変えるしかない」


 少女が冷たい眼差しを向けた。


「安全な道の先にある幸福は好色家の妾だ、それ以上は無い。だが、安全じゃない道を選ぶのなら、君が望む通りの、いや、それ以上の幸福を得ることができる」


 何かを決意するように男が顔を上げる。出迎えたのは男の言葉を理解すると共に徐々に驚愕に染まっていく少女の顔だった。



「つまり、何ですか?」



 極限まで見開かれた瞳が男を捉える。

 かくり、と首を傾げる様が不気味だった。




「殿下の想い人を排すると?」


「そうだ」




 肯定の言葉に少女の手から力が抜ける。

 真っ白なシャツが床に落ちた。

 それに気付くこともなく少女は足を動かす。純白が足跡と皺に汚れた。



「幸い君は殿下にも気に入られているし、反体制派に大きな貸しを作ることができれば、妃とまではいかずとも愛妾には」



 乾いた音が室内に響き渡る。



 限界だった。

 もう一秒たりともその声を聞きたくなかった。



「私が」



 打たれた頬を呆然と抑える姿に憎しみが湧く。

 自分でもどこから出ているのか分からないほど低い声だった。



「私が今まで、どんな思いで生きてきて、何を思って働いていたのか、何も知らない人間が、よく分かったような口を利けるわね」



 もう使用人などやっていられなかった。

 不敬でも無礼でもなんでもいい、この男を黙らせることができれば。


 あろうことか、王家への背信を口にした。

 次期王妃を害する可能性まで示唆した。

 殿下が当主となる王家を。殿下が想いを寄せる令嬢を。



 許容など出来る筈がない。



「私は自分の都合を最優先に動いたりしない。周囲に認められるまで努力したのは、殿下が背中を押してくれたから。今日まで生きてきたのは、殿下がそれを望んでくれたから。惨めな人生から抜け出したのは、殿下が私を認めてくれたから!」



 想いの丈を口にしながら、脳裏をよぎるのはあの夜のことだった。

 あの時王太子が見せた脱力するような微笑が頭から離れない。

 あの、失望のような、諦めのような、或いは自嘲のような。



「だから私は、あの方に幸せになってほしい。誰かの側で、生まれてきてよかったって思えるような幸福を知ってほしい。そこに私の感情なんて邪魔でしかない」



 次に思い出すのはあの東屋での一幕だ。

 膝を貸す令嬢に向けた眼差し。確かに上がっていた口角。上気した頬。

 薔薇が開花するように綻んだ表情。



 少女には決して向けない顔。



 あれを引き出せるのはきっと彼女だけなのだと、直感的に理解した。


 楽しそうだった。

 嬉しそうだった。



 とても、幸せそうだったのだ。



「……それでも、私は君の父親として、娘には幸せになってほしいと」

「二度と私の父親なんて名乗らないで頂戴」


 最後にその言葉を投げつけ、少女はジャケットもシャツもそのままに背を向けた。



 幸せになりたいなんて望まない。

 だって、もう十分に幸せだから。



 その先を望んだところで、今以上の幸せなど存在しないと分かっているから。



「君はもう知っている筈だろう、運命は変えられると!」



 背後から響いた煩わしい声を遮ろうと扉を閉める。

 少女は振り切るように歩き出した。




 一つの決意を胸に抱いて。

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