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 そこから更に二年後。

 下級メイドから王子付きの上級メイドまで昇りつめた少女は、自身を認めてくれた恩人である王子を相手に、それはもう手を焼いていた。




「だ、か、ら!仕事が片付いたら用意するって言ってるじゃないですか!もう皆様集まってるんですよあと五分ですよいい加減にして下さい!!」

「だーかーら、仕事後じゃなくて仕事前の今欲しいんだって言っているじゃないか。耄碌爺共との不毛な会議なんて事前にご褒美がないと行く気にならないんだよ」

「昨日公務の後にご褒美が欲しいと仰っていたのはどなたですか!」

「僕だな。だが人間心変わりくらいするだろう?」


 血管が切れる音を聞いた気がした。


 最近の少女の仕事は、朝一にこの我儘王子の駄々に付き合うことから始まる。王子たる彼の朝は早く、身支度を済ませた後には陽が沈むまで分刻みの公務が詰まっているのだが、この王子は毎日と言っていいほど何かしらに文句をつけていた。

 やれ紅茶が渋いだの、パンが冷めきっていて固いだの。

 今日は朝食の後にデザートが出てこなかったことが不満らしい。昨日の内にリクエストを頼んでおいたのだから出てこないのは納得いかない、それがないと会議に出席する気が起きないというのが王子の主張だが、少女は公務の後のご褒美と聞いていたので、シェフにもそう伝えていた。つまり、いくら枕にしがみついたってシーツに包まったって朝の内には出てこないのである。心変わりなど少女の知ったことではない。


「殿下。そろそろお時間になりますが、ご支度の程は如何でしょうか」


 この不毛な論争に終止符を打ったのは、王子の私室に響いた一つのノック音だった。それを聞くや否やぴたりと駄々を止めた王子は、扉の外から聞こえてくるメイドの言葉に朗らかに返事をする。少女が懸命に王子をベッドから引き剥がそうとしていたのが馬鹿馬鹿しく思えるほどすんなりと起き上がると、今の攻防でよれた服や髪を手早く直して何事もなかったかのように退出していった。


 一人ぽつんと取り残された少女は息を整えて言う。

 何度目になるか分からない言葉だった。


「何なのあの人……!」







 王子ともなれば、専属の使用人は一人二人に納まらない。少女以外にも当然王子付きのメイドは存在し、当番制で少女と同じような仕事をこなしている。

 その筈なのだが、不思議なことに、少女は他のメイドから王子の我儘に関する話を一度も聞いたことがなかった。

 あれだけ手を煩わされていれば、多少なりとも噂になるだろうに。そう思い、それとなく話を振ってみたこともあるが、皆王子の素晴らしさを語るばかりで「王子は我儘だ」といった話はついぞ聞いたことがない。

 最近の少女はその理由に手を伸ばしつつあった。


 まさか、あの駄々こねは私が当番の日にしかやっていないのでは?


 脳内で他のメイドがかけた声には笑って従う今朝の様子が再生される。あんなに素直にものを聞く王子の姿はかなり前の記憶にしか存在しない。

 しかし、あのみっともない姿を見せるのは少女の前でだけだとして、何故そんなことをするのか。その理由まではいくら考えようと見当もつかなかった。


 短い溜息を一つ吐いて、考え事の前に目の前の仕事に集中しようと王子の私室の掃除を再開させる。

 雑巾がけのために下を向いて作業に耽っていると、ふと髪の毛が一房垂れてきた。視界を遮るそれを耳にかけるも、またすぐに垂れてきてしまう。作業するには邪魔になるが、結ぶほどの長さがあるわけではない。中途半端に伸びてきた髪を尻目に、そろそろ切らないとな、と少女は思った。







「はああぁぁぁぁぁ~~…………」


 月が高く上った頃、漸く部屋の主が戻ってきた。

 地の底を這うような溜息を漏らしながらベッドに倒れ込んだ王子は、服装もそのままに寝入ってしまいそうなほど疲れている様子だった。

 無理に起こすことはせず、少女は労るように優しく声をかける。


「殿下。ご所望されていたご褒美、用意が出来ていますよ」

「……ああ、…………そうだったな…………」


 朝にあれだけ求めていたものが漸く食べられるのだ、喜ぶに違いないと思っていたが、その反応は意外にも薄い。不思議に思いながらも少女が椅子を勧めると、のそりと起き上がった王子は重たそうな動作で席に着いた。


 すっかり慣れた手つきでお茶の支度を進める少女に視線を送りながら、王子は頬杖をついて準備が整うのを静かに待つ。少女がティーポットを傾けると、その拍子に髪が一房はらりと垂れた。ティーカップに注ぐ前に耳にかけ直すも、再び垂れてきてしまう。少女は煩わしさに眉を顰めつつ、紅茶を注ぐことを優先した。

 一連の様子を見ていた王子が何となしに問う。


「髪が邪魔なのか?」


 紅茶に気泡ができないように慎重に注ぎ終えた少女は、予想外の質問に少し驚きつつも配膳の準備を進めながら答える。


「ええ、伸びてきてしまったので、そろそろ切ろうかと」

「そういえば、お前が髪を伸ばしている姿は見たことがないな」

「そう、ですね。昔から、髪を伸ばすことは禁じられていたので」


 肩にもつかないそれは、母を失い髪を切られてから一度も伸ばしたことが無い。下民に華麗さは不要だという幼い頃の教えから、髪を伸ばすという発想自体が少女の中には存在しなかった。

 テーブルの上に紅茶とパイがセットされる。

 会話が一旦の収束を見せたが、王子は一向に手を付けようとしない。変わらず注がれ続ける視線に、流石に居心地の悪さを感じた少女が胸中で首を傾げる。


「勿体無いな。せっかく美しいのに」


 零された言葉に耳を疑った。

 およそ自分に向けられたとは考えられないものだった。


 美しい。美しいとはどんな意味の言葉だっただろうか。どのような時に使われるものだっただろうか。記憶にある答えと現在の状況を照合する。自分が美しいと感じた時に抱いた気持ちを反芻する。それと同じ気持ちを、王子が自分に向けていると仮定する。


 時間をかけてそれらをこなし、回転数が上がるごとに熱を帯びる思考を経て、少女は口を開き、


「……伸ばした方が、いいでしょうか」


 出てきた言葉を自分で聞いた瞬間、思った。

 何を言っているのだろう。


 何故そんな台詞を吐いたのか自分でも分からないまま、しかし一度出した言葉を撤回することもできず、混乱に頭を支配された少女に、王子はパイを掬おうとしたフォークを止めた。


「ん?まあ、それはお前が自由に決めれば良いと思うが……そうだな」


 再びじっと少女の姿を見つめる王子。かち合った目線を逸らせずに硬直する少女は、輝く紺碧が緩む瞬間を目撃した。


 優しく、穏やかに、ふ、と表情が解ける。

 淡く色付いた唇が言葉の形を紡ぐ時間が、やけにゆっくりに感じられた。


「髪を伸ばした姿も、きっと素敵だと思う」







 気付けば使用人部屋にいた。

 引きづるように足を動かし、やっとの思いで辿り着いたベッドに倒れ込む。

 あれからどうやって仕事をこなし、ここまで帰ってきたのか。既に記憶は曖昧だった。


「何なのあの人……!」


 冷たいシーツを心地良く感じ、同時に頬が熱を持っていることを知る。

 出てきた言葉は疲労感に満ちていた今朝と同じもの。

 だというのに、その時とは帯びる温度が明らかに違った。

 シーツを被るようにして頭を抱えれば、外界の音が遮られると同時に体内の音が反響し、異様に速い心音が聞こえてくる。


 全く未知の感覚だった。


 激しい運動をしたわけでもないのに、特別暑い室温でもないというのに、まるで炎天下の中全力疾走でもしたかのような。

 思い出すだに恥ずかしく、むず痒く、何故あんなことを聞いたのかと後悔し、けれどあの言葉を贈られたことに喜ぶ心も確かにあって。

 シーツにぐりぐりと頭を押し付け、喉を絞ったような呻き声を漏らしながら悶える。


「静かにしなさい。何時だと思っているのです」


 背後から響いた鋭い声に、少女は急いで身を起こした。


「申し訳ございませんメイド長、直ぐに就寝の支度を致します」


 振り返った先に顔を顰める老齢の女性を確認し、少女はすぐさま頭を下げる。上級、下級を問わず宮廷内全てのメイドを統括する彼女は、規律や所作に大変厳しく、メイド達の間で恐れられている存在だった。


「しっかりと休息を取り、明日からも励みなさい。でなければ、貴女を殿下の側付きに推薦した意味がありません」


 その言葉に思わず顔を上げる。自分が異例の昇進を遂げた理由を知らずに今まで過ごしてきた少女は、それを決定したメイド長の心内を知る機会を初めて得た。


「あの方が何を仰っても、全力で向き合って差し上げなさい。殿下があのようなお姿をお見せになるのは貴女の前だけなのですから」


 独り言のつもりだったが、しっかりと聞かれていたらしい。

 下手をすれば不敬と捉えられかねない発言だったことに今更背筋が冷たくなるが、メイド長の声音は意外にも穏やかなものだった。


「ご存じだったのですか?殿下のだ、ご様子を」


 駄々と言いかけ慌てて修正する。少女の不敬一歩手前の発言に目を伏せたメイド長は、叱責することなく過去を思い返すような声音で言った。


「上手に隠しておいででしたから、私以外は知らないでしょうね」


 懐かしむような声に若干の憐憫を感じ取る。少女はそこから自分が推薦された理由を察した。


「貴女は貴族の血を引きながらも身内から隔離され、何の権限も思惑も持ちません。言うなれば警戒する必要のない小物です」

「は、はい」

「だからこそ、ありのままのご自身を曝け出すことができるのでしょう」


 その言葉がじんわりと少女の中に染み渡っていく。



「ありのままの、殿下……?」

「ええ、そうです」



 この瞬間、少女は初めて思った。思えたことが嬉しかった。



「それを、私にだけ……?」

「唯一可能なのが、貴女なのです」



 故にしっかりと励みなさい。

 それは激励だった。


 確かな首肯と共に言葉を返す。それに満足げに頷いたメイド長が部屋を後にするや否や、少女は足の力が抜けたように背中からベットに倒れた。

 抑えていなければ何かが零れてしまいそうな感覚に、腕を押し付けるようにして目元を覆う。どうしようもなく口角が歪んだ。こみ上げてくるそれは涙ではないと分かっていた。

 吐き出した息が熱い。

 少女はその温度を噛み締める。



 ああ、生まれてきてよかった。



 散々辛苦を味わうことになったこの出自に感謝する日が来るなど、予想だにしないことだった。







 日々仕事に勤しみながら、少女は体当たりで王子と向き合った。


「殿下、もう本来の起床時刻を大幅に過ぎています!お願いですから起きてください!」

「嫌だ……あと五時間……」

「いつまでお休みになるおつもりですか!?」


 少女の声を厭うように布団を被る王子を必死に起こし。


「薔薇、か」

「はい。こちらは『白き貴婦人』とも形容されるアルバ・ローズという花でして、普段目にする赤薔薇とはまた違った美しさがあると、庭師の方が勧めて下さいました」

「違う種類とはいえ、こうも薔薇ばかりでは退屈が先立つな」

「…………申し訳ございません」


 切り花への不評にも笑顔を崩さず対応し。


「殿下、殿下、明日もご予定が詰まっているではありませんか。それ以上はお身体に障ります、どうかご自愛ください」

「んん……どうした?おまえ、いつのまに、二人に……」

「飲み過ぎです、もう寝ましょう殿下」


 アルコールに強いわけでもない王子が珍しく深酒をした夜は介抱に努め。


「今起きてくだされば、特別にホットワインをご用意しますが」

「……この時期に?朝から?」

「ええ。他の方々には内密で」

「起きる」


 好物を餌にすることで愚図る王子をベッドから引っ張り出す術を獲得し。


「次はお前の好きな花を挿してくれないか」

「私の、ですか?殿下ご自身ではなく?」

「今まで薔薇以外の花に触れた機会があまり無くてな、好みを聞かれても正直分からないんだ。だからまず、お前の好みを教えてくれると嬉しい」

「……私の好きな花は毒が含まれていますので、殿下のお部屋には相応しくないかと」

「幼子のように無闇に口に含むわけでもないし、食さない限り無害であれば良いよ。流石に気化する類は許容できないが」

「……お言葉、ありがたく頂戴します。では一日だけご用意いたしますが、念の為触れないようにして下さいね」


 会話の中で互いを知り、同じものを愛でる喜びを知り。


「あした……明日もまた、あの面倒で煩わしい連中の相手か……」

「殿下、お酒はこれまでにいたしましょう。話なら私が聞きますから」

「はなし……?」

「はい。お酒に頼らなければならないほどの思いがあるのなら、私に吐き出してください。墓場まで持っていきますので」

「……墓……」

「……殿下?」

「いっそ墓に送ってやりたい……」

「えっ」

「現状を正しく認識できず、それが齎す結果の想像すらできず……国が傾く想定などしたこともない癖に……あんな目障りな人間など、いっそ……」

「………………」

「……本気にしたか?」

「……いいえ、全く。全部酔っ払いの譫言です」

「ふふ、ああ、そうだ。全部本気じゃないさ。本気じゃないから……もう少し、聞いてくれ」

「ええ。幾らでも」


 零される愚痴に相槌を打ち、苦難を抱えるその身に静かに寄り添って。




 そうして三年の月日が流れる頃には、二人は主従の関係でありながら長年の友人のように打ち解けていた。







 十五歳になった少女は変わらず殿下の側付きとして職務をこなし、つい先日立太子を果たした王子……王太子の周囲は婚約者の最終選定を行っていた。複数存在する派閥の間で議論が白熱し、本来想定されていた選定期日を大幅に過ぎたそれがようやく収束を見せたのだった。


 その年は、少女に生涯残る傷を齎した。

「彼女」が宮廷に来てからの日々を、少女は昨日のことのように覚えている。

 忘れたくても、消し去りたくても、心臓にへばりついて剥がれてくれない、その光景を。

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