男爵の手記
それは、短い一文から始まった。
『私の罪の全てを、ここに記す』
一ページ目から日記のように日付と文章が書かれている。表紙をめくって最初に書かれているそれは二十数年前と古く、冒頭の一文は紙の上部に僅かに空いた余白に書かれており、恐らく後から書き足したのだろうことが伺えた。
『明日、遂に妻を娶る。
婚約者として常に側にいた彼女だが、同じ屋敷に住むとなると妙に緊張してくる。これから家長としてこの家を守っていかなくてはという決意を新たに、記念というわけでもないが日記をつけてみようと思う。書けない日もあるかもしれないが、後からこれを見返した時、こんなこともあったなと思い出に浸って懐かしむことができるような、そんな日記にしていきたい』
『妻を娶った。それも二人。
昨日の時点では考えられないことだが、式の直前になって彼女から一人の少女を紹介された。
なんでも幼い頃に彼女が助けた孤児らしく、今までずっと家に住まわせていたのだそう。病弱な為使用人として肉体労働をさせるわけにもいかないようで、少女を扱いあぐねている実家に一人置いて嫁ぐことはできないと言われた。だからこの男爵家に妾として迎え入れてやってほしいと。
何が何だか分からなかったが、それが呑めないならこの結婚は受け入れられないと言われてしまえば、私に選択肢はなかった。今更式を無かったことになど出来るはずもないし、恐らく彼女もそれが分かったうえでこのタイミングで告げたように思う。彼女はやると言ったら本当にやる女だ。今更だが、とんでもない相手を妻に迎えてしまった』
『最初はどうなることかと思ったが、意外にも結婚生活は円滑に回っている。
妾というと幼少期の嫌な記憶が思い起こされるが、あの時と違うのは、本妻と妾という本来いがみ合う立場にある二人が長年の友であることだろう。私を巡って衝突を起こすこともなく、むしを私を除け者にして二人の世界を楽しんでいる節すらある。正直言って面白くない。
だが、顔に出したつもりは無くても見抜かれてしまうその不機嫌を前にしても、二人は笑う。顔を見合わせてひとしきり笑って、おいでおいでと私を手招きする。二人の花が綻ぶような顔を前にしてしまうと不思議とと逆らえず、子供のような嫉妬も霧散してしまう。
もしや、私は二人の尻に敷かれているのだろうか……』
『妻二人は、よく庭先でお茶を楽しんでいる。
本妻である彼女はこの家の女主人としてよく働いてくれているし、妾である少女も人付き合いが上手いようで屋敷の使用人とも打ち解けている。あまりに突然と降って湧いた妾の存在に一時は動揺に包まれた屋敷だったが、蓋を開けてみれば大きな問題もなく日々が過ごされている。
かなりの頻度で開かれる庭先のお茶会も、使用人たちは穏やかな目で見ているようだった。
少なからず安堵した。先代の頃は使用人までもが二つ三つと派閥を作って、本妻と妾、そして跡継ぎをめぐり対立していたせいか、どうにも彼等の様子には敏感にならざるを得ない。
願わくば、このまま穏やかな日々が続いていってほしい』
『今日も今日とてお茶会が開かれた。
最近では手が空き次第私も参加するようになったが、如何せん頻度が高いように思う。二人共自分の役割を放棄して遊び惚けているわけではないので文句という文句は無いのだが、執務室に籠っている際に窓から二人の姿が見えると、目の前の仕事を放り出して二人の元へ行きたくなってしまうのが些か困りものだ。
しかし、あの時間が無くなってしまうのも本意ではない。私が参加するようになってからというもの、二人の好物の他に私好みのティーフーズが用意されるようになったのだ。加えて二人の美しい女性が「お疲れ様」と微笑んでくれる。あの空間が私の安らぎとなっていることは、否定しようのない事実だ』
『仕事が手につかない一日だった。
楽しみの一つとなっていたお茶会が開かれなかったから、だけではない。
妾である少女が体調を崩してお茶会が流れた。ただそれだけであれば、季節の変わり目である最近の寒暖差を話題に、軽い会話の一つや二つ交わす余裕もあっただろうに。
妻から聞かされた話は、他愛のないこの時期特有の風邪だと思っていた私に大きな衝撃を与えるものだった。
少女が孤児だという話は知っていた。
それ故に病弱であることも。
しかし、生まれながらに上流階級の環境に守られてきた私は、孤児の生活というものを正しく理解していなかった。
幼い頃から劣悪な環境に身を置いてきた彼女の身体は常人よりも遥かに脆くなっており、長くは生きられないだろうと、医者に告げられたいるのだという。
今回彼女が患ったのは、私が思った通りただの風邪だ。
しかし、私にとってはただの風邪でも、身体が弱い彼女にとってはそうではない。
“そう遠くないうちに「その時」は来る。それを覚悟しておいてほしい”
そう言われた私は、覚悟という言葉の意味を改めて問い直した。
迷わないこと。用意しておくこと。心の準備をしておくこと……
それらを考える度に脳裏をよぎるのは、私達二人と談笑している際の、彼女の笑顔だった』
『少女がめでたく回復した。
快気祝いと称した今日のお茶会は、常よりも遥かに豪勢な品々に囲まれて始まった。
どうなることかと思ったが、元気になってくれて本当によかった。少女が倒れてから妻の顔色はずっと青いままで、女主人がそんな有様だからか、屋敷全体がどこか暗い雰囲気を漂わせていた。かくいう私も例外ではない。
再び三人でテーブルを囲めるようになって、妻の顔色も戻って、二人が心底嬉しそうに笑い合っている。その光景を見ていると私の口角も上がってしまって、この穏やかな時間を出来る限り守っていきたいと、自然と思った』
『今日は妻の誕生日だった。
パーティーを開いて盛大にお祝いをした夜、妻が珍しく私に願い事を零した。
強い女性である彼女は大抵のことは自力で解決してしまう。少女を妾にしてほしいと言った時のように人に頼ることもあるが、それはあくまで彼女の計画の内に存在する手段に過ぎない。今回のように計画も手段も実行も全てを私に委ね懇願するなど、初めてのことだった。
曰く、少女を愛してあげてほしいと。
どういう意味かはすぐに分かった。しかし、即答できるものではない。私の一存で決められるものではないし、少女自身がどう思っているのか、私は何も知らないのだ。
君はいいのかと尋ねた。私達は政略の元結ばれた夫婦ではあるが、私は私なりに彼女を慈しみ、想っていた。愛する人の口からそういう話題が出たことに対する、小さくない動揺があったのだ。
残り少ない少女の人生を可能な限り彩りたい。
この世に生まれた喜びを出来るだけ多く感じてほしい。
そう妻は言った。私は何の反論も出来なかった。
愛とは唯一のものではない。私が妻を愛しているように、妻も私を愛してくれている。しかしそれと同様に、少女のこともまた愛しているのだ。
人に想われる喜びを、私も妻も知っている。
故に、何の反論も出来なかった。してはならないと思ったのだ』
『あれから一晩考えた。お陰で寝不足だが、情以外にも妻の願いを呑む利点が見つかった。
私は今、お茶会以外の場で少女と関わることは少ない。しかし妾という体裁で屋敷にいる以上、私からの愛情を示さなければ、少女が冷遇される未来が訪れるとも分からない。
考えたくはないが、例えば、少女よりも先に妻が亡くなったら。
誰よりも少女を気にかけていた妻がいなくなってしまったら、私から関心を示されない少女は屋敷内での立場を失うだろう。それは妻の望むところではない。
しかし、何よりも優先すべきは少女の気持ちだ。彼女は妻が半ば強引に屋敷へ連れてきたのだ、本当は私の妾になどなりたくなかったかもしれない。
話をしなくては。
もし少女が拒否を示すようであれば、どこか外に住まわせることも考えなくてはならない。無理強いは何があろうと許されない行為だ。
しかし、もし少女がこの屋敷を出ていくようなことになったら。
それは少し、寂しくなるだろうな』
……………………
『まさか、まさかこんなことになるとは。
思えば、何故私は睡眠を削ってまで利点とやらを探したのだろう。
まるで言い訳ではないか。真に妻だけを想っているのなら、あの場できっぱりと断れば良かったのだ。妻より少女が先に亡くなる可能性のほうが高いのだから、少女が屋敷で孤立する未来など深く考慮する必要はない。仮にそんな事態になったとしても、屋敷の外に住まわせればいいだけだ。
私が考えた利点など、真に利点足り得るものではない。
それどころか、少女がいなくなっては寂しい、など。
少女と話をして、否応なしに自覚させられた。
私はなんて不誠実な男なのだろう。
これでは、まるで……』
『涙を流すほど爆笑する妻の姿を初めて見た。
懺悔するように告げた私の言葉に対する反応として正しいものかと問いたい気持ちを我慢したが、妻は何の我慢もする様子はなくひたすらに笑い転げていた。
今更?と言われた時は流石に自分の耳を疑った。つい昨晩自覚したばかりだというのに、妻はもっと以前から悟っていたらしい。我が妻ながら恐ろしい女だ。
「両手に花」という言葉がある。
“こんなに綺麗な花を二輪捕まえたんだから、どうだ美しかろうって自慢すればいいのよ。花は愛でられた分だけ綺麗に咲くんだから”
妻が心底可笑しそうに笑いながら言ったその言葉が忘れられない。
いい、のだろうか。
二人の女性を愛するなんて不義を、こうも呆気なく許されていいのだろうか。
妻はいいと言った。不安ならあの子にも聞いて来いと私の背を押した。
少女は妻と同じように笑い転げた』
……………………
『妻が出産した。
待望の第一子だ。生まれたのは可愛らしい女の子で、感極まるあまり零れてしまった涙を妻が微笑みながら拭ってくれた。
その日は一日中歓喜に湧いた。私の次に少女が赤ん坊を抱きかかえて、おめでとうおめでとうと涙を流して笑っていた。妻はそんな少女の姿に目を細めて、仕方がない子、と優しく頭をなでていた。
抱きかかえた赤ん坊の温もりが伝播したように、心があたたかい何かで満たされていく感覚をよく覚えている。
ああ、私はこの先、何があろうとこの家族を守るために生きていこう』
……………………
『第二子が生まれた。
長女が生まれてから一年弱。あどけなさの残る少女からすっかり母親の顔になった彼女は、初めての我が子を宝物のように抱えていた。
難産だったせいか顔色が戻らない彼女を何とか説得して休ませ、その間に次女となる赤ん坊を抱っこした。あまりの可愛さに緩み切っていた表情を妻に笑われたが、私の腕の中で穏やかな寝息を立てる赤ん坊を覗き込んで「可愛いね」と言った声は、長女に向けるのと同じだけの愛情が籠っているように感じられた。
その後。ベッドに寝かせ、長女が赤ん坊を見られるようにと抱っこしてベッドを覗かせてみた。「お前の妹だぞ」と言ってもまだ理解はできないだろうが、何か感じるものがあるのか、あうあうと喃語を喋りながら小さな手を伸ばす様子が非常に愛らしかった。
人生における幸せの絶頂を問うなら、今こそがそれだ。間違いない』
……………………
『以前、今こそが人生の絶頂期だと書いたが、それは間違いだった。
……と書きたかったが、最近はそうもいかない毎日だ。
幸せであることに関しては何の迷いもなく頷けるのだが、絶頂というほどではない。妾の彼女は元々病弱だったが、どうにも産後の肥立ちが悪いらしく、一日の大半をベッドで過ごす日々が続いている。
加えて、長女も身体が丈夫とは言えない状態だ。まだ幼い故のことかもしれないが、毎日元気な次女と比較すると体調を崩す頻度が高い。部屋に籠る日が多く心配が募るが、医者曰く命に関わるようなものではないらしい。あまり心配ばかりしていても気が滅入ってしまう。娘たちの成長は何にも勝る喜びであるし、二人の妻を労りながら、私自身も前を向いていかなければ。
ひとまず、妾の彼女は部屋を移すことにしよう。最も体調が優れないのは彼女だ。可能な限り心を落ち着かせ安らぐことのできる、静かで風通しがよく、庭が美しく見える奥の部屋がいいだろうか』
『最近、使用人たちの様子が気にかかる。
どうにも、長女と次女で対応に差があるように感じるのだ。
私にとってはどちらも替えの利かない愛する娘であるが、彼等にとっては嫡子と庶子。どちらにも等しく対応しろというのは些か難しいかもしれないとは思っていた。
加えて、体調を崩しがちで部屋に籠ることが多い嫡子と、元気に屋敷内で遊ぶ庶子という現状だ。おそらくいい気分はしないだろう。
次女も彼女と一緒の部屋で過ごさせるようにしようか。
愛する娘と一緒にいる方が体調にいい影響を及ぼすかもしれないし、次女も母親と一緒にいたいだろう。使用人の視界に映る頻度が減れば、彼等の心も落ち着くかもしれない。
先代と同じ轍など絶対に踏まない。
この家族は私が守るのだ』
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