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 モゴモゴと口を動かして、やがて喉仏が大きく上下する。嚥下の余韻を落ち着かせるように一呼吸すると、青年は驚愕に丸まった眼を少女に向けた。


「なんですかこれ!?魚?っぽいけど妙に苦いし若干酸味もあるし、あとなんかしょっぱいです!素材の味がよく分かりません!」


 正直すぎる感想に、少女は思わず吹き出しそうになるのを堪えた。しかし完全には殺しきれず、口の端から変な音を立てて空気が漏れる。

 苦味は過度な火入れによるもので、酸味や塩味は魚を保存するためのものだ。どちらも食べ物を安全に食するには必要だが、それが味に及ぼす影響については考慮されていない。

 それが庶民の食事というものだ。

 といっても一概には言い切れず、階級が庶民でも財を築き裕福な暮らしを送る者には縁がないものではあるが。しかしこの場においては、コレこそがスタンダードだった。

 同じくパイを食しながら、少女は何十回と食べた味に改めて集中する。


「確かにちょっと苦いけど、以外とこの味がクセになるのよ」


 口端を釣り上げた少女にぱちぱちと瞼を動かした青年は、再びパイを口に含む。ゆっくり咀嚼して舌の上で転がしてみると、普段の食事とは比べ物にならない味であるのに不思議と何の忌避感もなかった。


「そうですね、慣れないけど全然嫌じゃないです。子供の頃に食べたら泣く気がしますけど、むしろ今だからこそ分かる味というか」

「庶民食も案外、悪くないでしょう」


 目を輝かせて感想を語る青年の姿に、少女は何度目かの微笑を零した。それに釣られるように青年の顔も綻び、道端に小さな笑い声が響く。


「ふふ、面白い」


 笑いを零す傍ら、ふと青年から漏れたその言葉が、何故か少女の胸にストンと落ちた。

 それと同時にある感覚が広がっていく。


 ――何だか、不思議な感じだ。


 良家の子息と庶民の娘。

 住む世界も常識も正反対な二人は、本来であれば交わることのなかったであろう縁を繋いで、互いの『未知』に一歩踏み込んだ。

 青年は庶民の生活を覗き見て。

 少女は貴人の反応を垣間見て。

 互いが互いの常識から外れた異物であり、その全てが新鮮で不思議だった。自分にとっての当たり前に、当たり前ではないような反応を示す彼の姿が。あらゆるものが異なる二人が、今この瞬間に同じものを共有していることが。

 青年の無茶ぶりが無ければ存在しなかったこの時間。本来の職務から外れた面倒事であることに違いないのに、何故だがそう悪くない。

 少女はそんな想いを自覚して、少しばかり口を閉ざす。

 自分の中に芽生えたそれを最後に感じたのはいつだっただろうかと、ふと思った。


「私、こういう食事をするの憧れだったんです」


 思考に被さった声に考えを中断する。隣を見れば、少女より頭一つ分高い位置にある黒髪がさらさと揺れていた。食べ慣れていないせいか、その口元にはパイのフィリングが付いている。


「生まれてからずっと、私にとって食事は楽しむものではなかったから。冷めていて味気ない、ただの栄養補給。作法ばかり求められて、正直好きな時間じゃなかった」

「……コレだって冷めてるじゃない」

「ええ。不思議ですね、冷めているのは一緒なのに、今はこんなにも面白い。栄養面は遥かに劣っているのに、それだけが食事ではないのだと思えてくる。私が今まで食事だと思っていたものを、根底から覆された気分です」


 手元に目を向けながら、その瞳はどこか別の場所を見つめているように遠い。過去を思い返すような声色に少女は一瞬返答に詰まって、結局無難な言葉を返した。青年の事情を知らない身で言えることなど無いに等しい。しかしそんな愛想のない返事でも、彼は楽し気に笑う。


「一人で食べるふかふかのパンよりも、貴女と食べる固いパンのほうが、遥かに美味しい」



 一瞬、呆けた。


 それは本当に瞬きの間で、少女の心中に波紋が立ったことは少女本人しか知覚し得ない。それでも取り繕うように少女は青年から視線を逸らす。


「それは、流石に言い過ぎよ」

「ええ?そんなことないですよ。本当に美味しいですもん」

「そんなことあるわよ。世の中にはもっと美味しいと思えるものがあるでしょう」


 言って、手元のパンを齧る。慣れ親しんだ味過ぎて少女には分からないが、青年にとってはこれが驚愕に値するのだ。普段は固くも苦くもしょっぱくもないものを食べているのだろうし、世界にはそういう『美食』と呼ばれる料理があることも知識としては知っている。

 だからありえないのだ。コレがそれよりも美味しいなんて。

 青年は少女の言葉を正面から受け止め、パイを食んでは考えるように目を閉じる。暫くそうしたかと思うと、突如何かを思い出したように「ああ!」と声を上げた。


「確かにありますね、これ以上」


 一体どんな料理が出てくるのかと、少女はその顔をチラリと横目て見やった。青年はその視線にしっかり自分のそれを合わせて燦然と笑ってみせる。

 最後の一かけらを咀嚼する少女の口が止まった。



「貴女の手料理は、もっともーっと美味しかった」



「……………………はあぁぁぁ……」

「あれ、どうかしました?」


 口のものを呑み込んで、代わりに出てきたのは深い深い溜息。青年の声も遠く、少女は吐き出す息に引っ張られるように背中を丸めた。


 呆れ、ではない。

 嫌悪、でもない。

 失望でも、落胆でも、まして安堵でもない。


 思わず口を衝いた溜息の意味を思って、それを最後に感じたのはいつだったかと考えて、今度は思考を遮られることなく答えに行き着く。

 それは酷く懐かしい記憶。少女が瓶に詰めて蓋をした過去だった。

 最近では外見を眺めて思い出に浸ることも無かったもの。もう一度それを感じられる時が来るなんて、思ってもみないことだった。

 そんなことを少女が考えている間、沈黙をどう解釈したのか、青年は何かに気付くと慌てたようにパイから口を離す。


「あっお金!すみませんすっかり忘れてて!幾らでした!?ちゃんと払います」


 支払いを少女に任せたきりになっていたことに思い至ったらしい。肩掛けの鞄から財布を取り出そうとして、しかし両手が塞がっていることを思い出し狼狽える青年の姿を前に、少女はゆっくりと丸まった姿勢を戻す。


「いい、いらない」

「え、でも……」

「本当にいいのよ」


 少女はポケットからハンカチを取り出した。断っても尚言い募る青年の口元にそれを寄せて、白い肌の上で存在を主張する茶色いフィリングを拭う。


「庶民の先輩が屋台初心者に奢ってあげる」


 荒い布地がごわついていて、しかしどこか優しい感触が離れていく。青年はそこで初めて口元に食べかすをつけるなんて子供のような姿を晒していたことに気付いたが、流れるように行われたその行為に恥じる暇もなくされるがままになる。

 今度は青年の方が呆ける番だった。


「ありがとう、ございます……」

「感謝されるようなことじゃないわ。それはこの一件が落ち着いてから言って頂戴」


 呆然とした声に対するように明瞭な声が答える。フィリングが付いた面を内側に包んだハンカチをしまって、少女は柔らかく微笑んだ。


「探すんでしょ、何があったのか」



 青年は、少女が自分の申し出を受け入れた際の諦めたような顔を覚えている。

 自嘲のあまり零れてしまった刺々しい笑みも鮮明に思い出せる。

 慣れない日差しを受けて下がった口角も、自分勝手に押し付けた日傘を前に逡巡する様子も、貴人の住居を前に気後れする姿も、全て。

 その根底にあるのは彼女の性分であり、頼まれごとを断れず流されるままエゴに巻き込まれてしまう、青年からすれば悪癖とも言える行為の結果だ。

 故に彼は驚いた。

 自分が故意に背負わせた厄介事を前に笑って見せたその姿に。

 エゴを笑う。

 それができるのは渦に呑まれて振り回される者ではない、渦中に立ち他者を振り回す……自分と同じエゴイストであると、青年は知っている。

 ――私のエゴに優しさではなく、貴女自身のエゴで付き合ってくれたら。

 彼女のそれは予兆だ。

 それらしき言動を見せたわけではない。しかし、酒場で青年の話に耳を傾けていた受け身の姿勢とは異なる姿に、青年は上がる口角を抑えることができなかった。


「ふふ、はい!」


 力強い肯定。

 その返事に少女は満足したように頷き、先程の続きを口にする。


「私がお婆さんから何を聞いたのかについてだけど、男爵家の娘夫婦が相続を拒否したっていう話は覚えてる?」

「ええ。子供が娘しかいなかったので、婿を取って家を継がせる心算だったんですよね。しかし二人は相続権を放棄し、結果男爵家は後継を失い途絶えた」

「そうね。若い男女の出奔による不慮の断絶

 ……だと思っていたけれど、それは違うかもしれないわ」


 残ったパイに視線を落としながら静かに語る少女。その姿を横目に、青年は最後の一口となったパイを口内へ放り込む。


「と、言いますと?」

「あの男性に家を明け渡すまでの一ヶ月間、男爵は自室に籠って『あること』をしていたそうよ。あのお婆さんが知る限りで、少なくとも三つ」


 まず、資産の譲渡。

 次に、権利の譲渡。

 そして、転職の斡旋。

 少女が三本の指を立て、それを一つずつ折っていく。


「全財産を娘夫婦へ。領地の運営権などの男爵が持つ全権は娘の夫の生家である伯爵家へ。男爵家で働いていた者達は伝手を使って他の職へ。それぞれの手続きを行っていたらしいわ」

「それは……」


 青年は少女の言葉を噛み砕こうと思考を回す。

 役人の男性があのタウンハウスに住みだしたのが三年前。つまり男爵が住んでいたのも三年前まで。

 そして、娘夫婦が結婚したのも同じく三年前だ。


「……それは別に、おかしいことではないのでは?」


 時系列を整理しても矛盾しない。青年は少女が言わんとすることを汲み取り切れずに首を傾げた。


「男爵には他に後継を探す意思はなかったみたいですし、娘夫婦が相続を拒否した時点で家が途絶えることは決定事項です。終わりを見据えて身辺整理をするのは自然な行動だと思いますが」

「そうね。行為自体はさほど不自然じゃないわ」


 むしろ使用人の未来まで考えて世話を焼いてくれる領主などそういない。しいて言うならそこが世間一般と異なる部分だが、旧男爵領でのあの慕われようを鑑みれば男爵の人柄を推し量ることができる。恐らく、そんな手間も惜しまないほどに人が良かったのだろう。

 しかし、少女は肯定の後にも言葉を続ける。


「考えるべきはそこじゃないのよ」



 ――何故、男爵はこれら全てを一ヶ月の間にこなしたの?


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