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「三年、いや、それよりも前から、宮廷は水面下である火種を抱えていた。言っちまえば派閥争いだ、そう珍しい話じゃねえ。ただタイミングが悪くてな、その頃は丁度王子の婚約者の選定が始まろうって時期だった」
男は雑に足を組みながら静かに語りだす。
その際に足がテーブルに触れたのか、静かに液面を震わせるコーヒーの波紋を追いかけるように、男は目を伏せていた。
「婚約者の選定というと、一定期間をかけて妃としての素養を判断するという?」
青年は脳から聞きかじった知識を引っ張り出す。
国内から次代の妃を迎える場合、リストアップされた候補者の中から優先度の高い順に宮廷に招き、一月の間妃教育を施しその適性を測るのだという。候補者はそこで王家へ迎えるに相応しい教養や振る舞いを身に着け、未来の国母に必要な器を示すことを求められるのだ。
「ああ、その前段階である妃教育を施す人間の選別だな。そこに自派閥の家から自分達の息がかかった令嬢をねじ込もうっつう動きが加熱したわけだ。まあ最終的には周囲の思惑なんざぶっ飛ばして、王子と想いを通わせた公爵家の令嬢が選ばれたわけだが」
「特定の令嬢を妃にすることで影響力を獲得し、将来的に自分達の主義主張を通そうと……?」
青年は顎に手を当て考える。
宮廷内の派閥争いという話に驚かなかったのは、男の言う通りよくある話だからだ。新米とはいえ記者を名乗る青年も小耳に挟んだことがある。しかし殆どは上流階級の内輪揉めの範疇に収まっている出来事であり、市井の感心は低く取り扱うことも無かった。
それが次期王妃の選定という国民の関心を引く出来事と重なると、途端に内輪だけの問題ではなくなる。宮廷内に留まらず国中に轟く影響力を得る好機を逃すまいと、派閥争いが激化するのは火を見るよりも明らかだ。恐らく、どこの息もかかっていない者を探す方が至難の業だろう。
そこまで考えて口を開く。
「今の話だと、選ばれた婚約者もまたどこかの派閥の息がかかっている、ということになるのでしょうか?」
「そうだ。元々王侯貴族の結婚なんて利害の一致が前提だからな、確実に何か思惑がある。両思いってのがポーズなのか、恋愛と策略を両立させてんのかは知らねえが」
青年の推測を男は躊躇なく肯定する。
思惑。
それが、王家が隠している『なにか』に繋がるのだろうか。
仮にその思惑が、婚約者である公爵令嬢の背後にいる派閥の企みだったら。
「お二人の睦まじさは国民の知るところとなっていますし、あの婚約に裏があるというだけでも驚きなのに、想いを通わせたこと自体が虚構なんてあるんでしょうか……」
眉根を寄せて唸るように零すと、男は呆れたように溜息交じりで言葉を吐く。
「テメェよお、腐っても記者なんだろ?なら王族の結婚がどんなもんかも知ってんだろ?
なんで婚約に裏があることに驚くんだよ」
「え……」
思考に耽り下に傾いていた顔を上げた。
そう、青年は知っている。
王侯貴族の結婚はその殆どが政略によるものであると。
男爵領に赴いた際もその辺りを考慮して聞き込みを行っていた。なのに何故、あの二人の話になった途端、その前提を忘れてしまうのか。
「それは……お二人は本当に仲がよろしいので、あの慈しみに裏があったとしたら、その睦まじささえ打算的なものに思えてしまいますし、それは違うのではと」
「どうして違うと思う?お前が知っているのは記事や本で語られている二人だろうが。記者は真実より面白さを優先するってテメェが言ったんだぜ?」
男の言葉に、どこからか汗が流れた。
確かに、青年は実際の二人に会ったことがない。そして記事が事実よりも読者の需要を優先して作られていることも知っている。例の本にだって偽りが含まれていたのだ、二人が想いを寄せ合う描写が真実だとどうして言い切れるだろう。
それは、つまり。
「世間に認識されているお二人と、実際の姿は、違う……ということですか?」
男のように宮廷での勤務を許されている役人なら、二人の実際を知っていても不思議ではない。青年が恐る恐る訪ねると、男は真っ直ぐな視線を携えはっきりと言った。
「いや、世間の認識は間違ってねえし、事実あの二人はラブラブだな」
「何なんですか貴方!?」
緊張から強張っていた肩ががくりと落ちる。脱力と共に声を吐き出した青年は目の前の男を恨めし気に見やった。
男は嘲るように笑いながら足を組みなおす。完全に揶揄われたと理解し怒りが湧いた青年だったが、実際に見たことがあるような口ぶりに、二人の仲はやはり睦まじいのだと確信する。
そのことに、知らず安堵の息を吐いた。
「まあ一つ確かなのは、最大派閥の筆頭である公爵家からの圧力は凄まじかっただろうってことだ。ご令嬢はよくプレッシャーに堪えたと思うぜ」
「そうですか……」
確かにかの公爵家は国内でも指折りの歴史と権力を持つ名家だ。それだけでも当然のように婚約者候補として名前が挙がるだろうに、そこに派閥闘争の急先鋒としての役割が加われば、妃の座を望まれる令嬢にかかる期待と責任は莫大なものになるだろう。
「あの、その派閥争いというのは具体的に何を巡った対立だったんですか?」
考えを纏める中で、青年の脳裏に少女が語ったある仮説が浮かぶ。それを元に、得た情報からブラッシュアップを図ろうと問いを口にした。
男は静かにカップを持ち上げ、浅く傾ける。
「さあな」
「えっ」
「言っただろ、話せる範囲でしか教えねえって。更に言えば、話せる範囲っつうのはこれで全部だ」
「ええ!?」
義務は果たしたと言わんばかりに、言葉の合間にコーヒーを飲みだす男。もう少し話が聞けるものだと思っていた青年は予想よりも早い幕引きに悲嘆の声を上げる。
「こうして記者に情報を流してる時点で出血大サービスだろうが。これ以上はお前の脅し関係なく首が飛ぶっつーの」
責めるような色が滲む青年の声を男が一刀両断する。ぐ、と言葉を詰まらせると、話が聞けただけ良しとしようと青年も前傾していた背筋を戻した。
「うう……そうですね、仰る通りです……」
素直に青年が応じると、本当にこれ以上は一言も喋らないつもりなのか、男は瞑目してコーヒーをちびちびと飲み始める。青年は一つ感謝を零して席を立った。
そのまま背を向ける。男がカップを置く素振りは無い。今までの言動から見送りなんてする柄にはとても思えず、青年は努めて気にしないように扉の方へ足を向けた。
一歩踏み出そうとして、ふと止まる。
男がこれ以上答えるつもりがないのは分かっていた。それでもこれだけは聞いておかなければと、青年は振り返った。
「一つだけ、お聞きしてもいいですか。答えられないのならそれでも構いませんので」
男はこちらを向かない。カップから口を離す様子もない。しかし青年は続ける。
「例の悪女は最期、どのようにして亡くなったかご存じですか」
声が室内に響く。
それはどの言葉よりも男の鼓膜を揺らした。
カップから口を離し青年を見やる。男の目は驚愕に見開かれており、その様子に青年のほうが驚いてしまいそうだった。
「……ああ、そういうことか。どうやったかは知らねえし興味もねえが、テメェはそれを知ったから今更再調査なんざしてるわけだ」
しばしの沈黙を経て、男は何かを理解したように呟く。今まで互いの声以外音が響かなかった室内に、カップと天板が激しくぶつかるような音が生まれた。
乱雑にコーヒーを置いた男は、行動とは裏腹に平坦な声で答える。
「自殺した。それは揺るがねえ事実だよ」
声も表情も凪いでいた。それだけに、男の胸中に渦巻く激情を表すように荒ぶる液面が、青年に現実を理解させる。
ああ、これは『言えない』のだ。
「……分かりました。ありがとうございます」
こればかりは仕方がない。青年は落胆したような声色にならないように意識して礼を述べた。そのまま今度こそ退出しようとして、そうして浮かせた足が止まる。
「――ただし、それは悪女じゃねえ」
「……………………は?」
前に出そうとした足を引いて、もう一度男へ向き直った。
しかし男は言うだけ言うと再びコーヒーに口をつける。これ以上は本当に何も喋らないつもりなのだろう。言い募りたい衝動を抑えるのに苦労した青年は、男の事情に理解を示しつつもそこから足を剥がす気になれなかった。
そんな青年の姿に男は嘆息する。
少しばかり口を離して、真っ直ぐな眼差しで青年を射貫いた。
「後はテメェで考えろ」