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扉が閉まってしばらく経っても、老婆は呆然とそこに立っていた。
――まさかあのお坊ちゃんが、毛嫌いしていた記者を家に招くとは。
「あの、お婆さん」
背後からかけられた若い声に急いで振り向く。
今の今まで意識から外れていた少女が、少し離れたところに佇んでいた。
「ああごめんなさいねいつまでも立たせてしまって。全くあのボンクラは視野が狭いんだから、お客はもう一人いるっていうのに」
「いえ、お構いなく。あの様子を見るに、彼が許されたのは特例のようですから。私が家に上がろうとすれば先程のように拒絶されると思います」
「否定できないわあ……ごめんなさいね、お坊ちゃんはどうにも記者っていう生き物と相容れないのよ。それが酷い態度の理由になるはずもないのだけど」
老婆は頬に手を当て、悩まし気な息を吐いた。日頃の苦労が窺える様子に少女は苦笑を一つ零し、「大丈夫ですよ」と口にする。
「事情は人それぞれですから。あそこまで嫌厭している姿を見れば分かります。きっと、過去によほどのことがあったのでしょう」
過去。
その言葉に、老婆の声色が一段と沈む。
「そう、ね。正直、お坊ちゃんの言い分自体は私も共感してしまうのよ。あれを見ちゃったんじゃあね、憤るのも仕方がないわ」
玄関へ架かる階段を挟んだその向こう。少女は敷居を跨ごうとせず、歩道に影を落とし続ける。二人は微妙な距離を空けたまま、互いに視線を交わした。
「ねえあなた。三年前、宮廷で起きた事件のことを覚えてる?」
唐突な話題に少女は内心で目を見張った。しかしそれを悟られぬよう顔に力を入れ、何も知らぬ純朴を装い小首を傾げる。
「王太子殿下の婚約者様が襲われた件ですか?」
「そう。あの時、あの子は事件の調査を一任されていたの。そのせいで当時はこの家に取材したい記者が押しかけてきたんだけど、様子が、ねえ」
一度言葉を切ると、老婆は少しばかり口籠った。目線を足元に落とし、当時を思い返すように緩慢な瞬きを繰り返す。
「そりゃあ、それがお仕事なんだから仕方のない部分はあると思うわ。けれど彼等の生き生きとした様子とか、話を聞いて喜ぶ顔とか……よく言ってたわ、まだ二十にも満たない女の子が死刑になるのに、なんであんな顔で笑えるんだって」
老婆の眉間に深い皺が刻まれる。
今度は表情を繕わなかった。少女は驚いたように目を丸めて、意外だとはっきり声色に乗せる。
「随分と、悪女に同情的なんですね」
「そうねえ、世間的には珍しい人間よねえ。でもあの子は誰よりも近くで悪女と接した人間だから、あの子にしか分からない何かがあるのかもしれないわねえ。けれど、記者にとってはそんなの関係ない。誰が悪いわけではないけど、納得するのは難しかったんだろうさ」
三年前、国民は世紀の悪女の死を拍手喝采でもって受け入れた。
次期国王夫妻の仲を引き裂かんとする悪辣を、ひいてはこの国の未来を歪ませようという暴虐を疎み、その消滅に万歳三唱を叫んだ。
世間は歓喜と安堵、そして祝福に満ちていた。
無論,市井に情報を齎す記者とて例外ではない。
どの紙面も悪女を極悪非道として報じ、命を狙われた令嬢を労り、極刑の沙汰を下した王太子を賞賛した。それは事実と感情が融合した国民にとって絶対不変の真実であり、それを歪めかねない話など聞く耳を持たれない。
もし、老婆の言うとり、世間的な悪女の印象から外れた『男にしか分からない何か』があったとしても、それを記者がまともに取り合ったとは考え難い。
「それなのに、どうしてあの人は受け入れてくれたんでしょうか」
男が記者を嫌う理由の一端を察して、少女は更に疑問を深めた。
「そうねえ、わたしも驚いたんだけど……多分、似てたのね。旦那様に」
「旦那様?」
「あの子にここを譲った前の住人だよ。元々わたしは旦那様に雇われてここの管理を任されていたんだけどね、あの子の手に渡ると同時にわたしの主人もすげ替わったのさ」
旦那様。
その言葉に俯いていた少女の顔が上がる。
思わず一歩足を踏みだそうと前のめりになって、しかし寸での所で留まった。何かの衝動を押し殺すように柄を強く握り込み、敷居を踏まぬようにと足に力を入れ、努めてゆっくりと口を開く。
「その話、詳しく聞かせていただけませんか」
青年は玄関からほど近くの部屋に通された。男は着席を促すことなく一旦部屋を出ると、程なくして芳ばしい香りを漂わせたカップを片手に戻ってくる。その僅かな間に青年は部屋を見渡し、読みかけの本や脱ぎ捨てられた衣服などが散乱している様子に眉をひそめた。
どう見ても男の生活スペースである。上階には来客用の部屋があるはずなのにわざわざ手近な場所に通すあたり、もてなすつもりも長居をさせるつもりもないのだろう。脅迫紛いのことをしてまで押し入ったのは青年なので文句は言えないのだが、背もたれにシャツがかかったソファにどかりと座った男の手が握るカップの数を確認して、胸中で息を吐く。
男は自分だけに用意したコーヒーをローテーブルに置いた。
「昔、お前によく似た眼を見たことがある」
独り言のように語りだした男に、家主から着席の許可を得ていない青年はどうするべきか少し迷った。男の向かいに置かれたソファに座ってもいいものか、しかし本や眼鏡などの私物が散乱しており赤の他人が入ってはいけない領域なのではとも思う。
「そいつとは旧知の中でな、仕事上での付き合いもあって……まあ、ダチみてえなもんだった」
男はそんな青年の様子など知ったことではないと言うように口を止めない。青年はしばし迷った挙句、向かいのソファの後ろに立ち、背もたれにそっと手を添えるに留めた。
「もしかしてそれは、ここを譲ってくれたという前の住人ですか?」
「ああ。加えて、テメェの言う花を植えた人物だ」
ローテーブルとソファを挟んで向かい合う。
ようやく情報を得られる興奮に、青年は思わずソファの背から身を乗り出した。
「その人は一体……」
「テメェの思ってる通りの奴だと思うぜ?」
男は黒い液面を眺めながら口端だけを歪に持ち上げる。そのままぐいっと中身を呷ると、小さく嘆息して眉間に皺を刻んだ。
「薔薇冠の白鳥飼ってる男爵だよ」
――やっぱりか。
青年は納得と共に自分の推測が当たっていたことに歓喜した。やはりここは三年前まで男爵家のタウンハウスだったのだ。しかもそれを譲り受けたということは、男爵とかなり親密な間柄だったということ。きっと彼からしか得られないものがあると記者としての嗅覚で察知した青年の手元から、ソファの革と擦れたような音が鳴る。
「あの、その方は」
「なんで今更あの事件を嗅ぎまわってんのかは知らねえが、聞きたいのはそのことなんだろ。ったく回りくどい言い方しやがって、洒落臭え」
男爵のことについて問おうとした声がかき消える。
続きを言わせまいとするように被せられた言葉は青年に若干の違和感を抱かせた。しかし、それ以上に本来の目的に気付かれた驚きが、何より例の事件について何かを知っているような口ぶりが、その違和感を呑み込ませた。
「すみません、あまり知られたくなかったもので」
「まあ、ありゃあ既に終わった話だ、今になって調べ直してんのがバレりゃあ多少なりとも不審がられる。テメェら記者がどう思われようと俺はどうでもいいがな」
こちらが食いつけば男も乗ってくると踏んで、青年は下手に否定しなかった。どのみち虚言は見破られてしまうだろうし、男の声色が話をすることに否定的ではないように感じられたからだ。
「にしても、戴冠式目前のこのタイミングで再調査、しかも内密に、ねえ」
男は静かにカップをローテーブルに戻す。
その中身は然程減っていなかった。
「テメェ、何が引っかかった?」
「その言い方ですと、何かご存じなんですね?」
「質問に質問で返すたあ礼儀のなってねえガキだな」
男は青年の真剣な眼差しを鼻で笑う。正直彼に礼儀について文句を言われる筋合いはないと思ったが、青年はぐっと堪えて曖昧な微笑を浮かべた。
「役人である貴方を前に滅多なことは言えないので」
「ほぼ自白だろうがそれ。脅迫までしといて今頃ビビってんのかよ」
「せっかくの手掛かりをみすみす逃すわけにはいかないと、その一心でした」
流石に王家に抱いている疑念までは話せない。何とか話題を終わらせようとする青年の米神にじわりと汗が滲んだ時、どこか面白がるように青年を見ていた瞳が瞼の裏に隠れる。
「……そういう妙な猛進さも似てやがらぁ」
そして、懐古するように眦が下がった。
「俺は上からの命に従って動く一介の手足だ、全容は知らねえ。守秘義務がある範囲は死んでも喋らねえ。それでもいいなら教えてやる」
「十分です。お願いします」
一も二もなく頼み込む。
足を開き前のめりで耳を傾ける様子を男は小さく笑った。それは決して小馬鹿にする類のものではないように、青年には思えた。
「ま、ひとまず座れ。長い話はしてやれないがな」
ここにきてようやく家主から着席の許可が降りる。若干戸惑いながらも本や眼鏡を避けておずおず腰を下ろす青年を、男は急かすことなく見守った。
それはまるで、何かを許されたような感覚だった。