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「あ、」
思わず足が止まる。
二歩遅れて青年も止まった。少女の視線を追っていくと、窓辺を彩る淡い紫紅色が目に入る。見覚えのあるその色に記憶を探れば、すぐに思い当たる光景が浮かんできた。
「あれって、あの子が集めていた花じゃない?」
「そうですね、珍しい……」
二人は同じ花畑を思い描いた。
紫紅以外にも色にあふれた場所ではあったが、女の子があの花を集める場所に選ぶくらいには纏まった数が生えていた。
加えて、あそこはかつて男爵家の庭園があった場所である。
二人は顔を見合わせた。
「……尋ねてみましょうか」
青年の言葉に少女は静かに頷く。
考えることは同じだった。
玄関へ続く数段の階段に青年が足をかける。少女はその背中を日傘の柄を握りながら見送った。
タウンハウスは連続建ての住居であり、階の上下によって住む世帯が変わることはない。地上三階、地下一階という設計になっているこの建物には、縦に区切られた各階の一部屋ではなく、四つ全ての階に同じ人物が住んでいるのだ。加えて、一つの住居は縦に長い短冊状の敷地に建っている。間口こそ狭いが奥行きは深く、面積はかなり広い。
つまるところ、大きいのである。
無論郊外の屋敷に比べれば小規模だが、集合住宅としては庶民が暮らすそれとは桁違いだ。どんな人間が住んでいるにしろ、ここに住むだけの金を持った人物であることに間違いはない。
青年が鳴らす叩き金の音がやけに大きく響いた。
「すみません。わたくし新聞社の者ですが、どなたかご在宅でしょうか」
よく通る低い声が空気中に伸びては溶ける。
余韻が消えて、五秒経って、十秒経って、小さくない緊張感に強張っていた身体から若干力が抜けるほどの間が空いて、しかし玄関の向こうからは何も返ってこない。
「……出かけているのかしら」
「或いは本邸に帰っているのかもしれませんね。シーズン外ですし不思議じゃありません」
少女の声に答えつつ、「使用人の一人くらいなら残っているかと思ったんですが」と零す青年。奥行きが広い故に音が届かなかった可能性を考慮しもう一度叩き金を鳴らして待ってみるが、やはり音沙汰がない。
「本当に誰もいないみたいですね……」
「となるとどうするの?留守なのは仕方無いけど、仕方がないじゃあ終われないんでしょ?」
「そうですね……うーん他の手掛かりは」
「おや、お客さんかい?」
少女へ振り返った青年が腕を組んで悩みだした時、突如として第三者の声がかかった。
驚いた勢いのまま声のする方へ顔を向ける二人。地下室への採光などの為に設けられた空堀りから伸びる階段に佇んでいたのは、使い古された給仕服を身に纏った老婆だった。
「誰かが尋ねてくるなんて久しぶりだねえ。お坊ちゃんに用があるなら、もっと力を込めて呼ばないとダメだよ」
どうやらこのタウンハウスに住む人物の使用人であるらしい。驚愕からいち早く立ち直った青年は前のめりにならぬよう注意しながら老婆に問いかける。
「お騒がせしてすみません。あの、こちらにお住まいなのはどのような方でしょうか」
「あれまあ、知らないで来たのかい?」
「ええ。住人ではなくこの建物についてお話を伺いたいと思っていまして」
笑顔を湛えて言葉を交わす。『お坊ちゃん』とやらのことを尋ねれば、老婆は非常にあっけらかんと住人について話しをした。
「うちのは宮廷に仕えてるお役人だよ。ここに住み始めたのは三年前からさ。わたしがお坊ちゃんに雇われたのもその頃からで、それ以前のことは分からないがね」
「何か聞きたいことがあるなら直接言うといいよ」と老婆は玄関を指差す。試してはみたが反応がないのだと青年が答えると、老婆はその弱々しい外見に見合わず大胆なことを言い出した。
「いっそ思いっきり蹴っ飛ばしてみな。大丈夫よこの扉もう壊れてるから」
「……は、蹴っ飛ばす?」
「そうさ、蹴っ飛ばす」
聞き間違いではなかったらしい。その真っ直ぐな目に青年は思わずたじろぐ。滅茶苦茶なその提案に頷くことはさしもの青年にも出来なかった。
「い、いえ、流石に他人様の玄関を足蹴にするわけには」
「そうかい?んー仕方がないねえ」
そう言うと老婆は徐に玄関へ手を伸ばす。皺だらけの指が取っ手を掴んだかと思うと、老婆とは思えぬ力で激しく揺さぶり始めた。ぎょ、と二人は目を丸める。
施錠されている扉は当然開かない。ガチャガチャ、という抵抗音だけが大きく響き渡る。老婆は突然の奇行に目を白黒させている青年を気にかけることなく、「ほら、早く用件言いな」とニッコリ笑った。
青年は面食らったが、ご老人一人に無理を強いるわけにもいかないと共に取っ手を掴む。何故かご機嫌な様子で玄関をガチャガチャし続ける老婆を横目に、青年は半ばやけくそで叫んだ。
「すみません!どなたかいらっしゃいませんか!お話を伺いたいのですが!」
言葉を吐き終え手を放す。何故だが酷く気疲れした青年だったが、老婆は相も変わらずニコニコと「そうそう、それで良いんだよ」なんて笑っている。
「あの、本当に大丈夫なんですか?こんな乱暴な手段で……」
「平気平気。何せ相手があのボンクラだからね、これくらい騒ぎ立てないと気付かないのさ」
主であるはずの人間に向かって随分な言い草だ。青年は口端が引きつるのを感じた。乾いた笑いが漏れる音をどこか他人事のように聞いていると、扉の向こうがにわかに騒がしくなる。
「ほら、お目当てが来たよ」
「え」
青年の疑問符が最後まで声になることはなかった。
それよりも早く、目の前の扉が破裂音にも似た音を立てて開かれたからだ。
本来内側にしか開かないはずの扉が何故か外側に開き、至近に立っていた青年の眼前に迫った。咄嗟に手で庇って負傷は免れたが、凄まじい勢いを受け止めたせいでじんじんと掌が痛む。冷や汗が流れるも、そんな青年の様子など意に介さず扉を開け放った人物は声を上げた。
「うるっせえんだよ!人の快眠を邪魔しやがって何様だア”ァ!?」
「こんな時間に寝てる方が悪いと思うねえわたしは。まともな人間はとっくに起きてキビキビ働いてるんだよ」
「またテメェかクソババア!いい加減にしやがれテメェの主人が誰か分かってんのか!」
「ほお?こんな礼儀もなってない乱暴な主人に行儀よく接しろってかい?寝言は玄関を壊さず開けられるようになってから言ってもらいたいねえ」
「壊れた要因はテメェにもあんだろ!ガチャガチャすんなって何度言やあ分かんだ、世迷言はあの世で言え!」
とても主従関係にあるとは思えない罵倒の応酬が響く。
扉の先から現れたのは、まさに今起きましたと言わんばかりに乱れた髪に縁の厚い眼鏡をかけた、赤銅色の髪が印象的な男だった。明らかに室内着であろう軽装を纏い、無精髭を携え、乱雑な口調で老婆と口論する様子はとても宮廷に仕える役人には見えない。
「だいだい休日に何していようが俺の勝手だろうが!」
「嫌だよおボンクラはこれだから。休日こそ家にお客が訪ねてくることを考えて起きとくってもんだろうに」
「耄碌したならそう言えババア、解雇してやっから。俺に客なんざこの一年一人も来てねえって忘れたのか?」
「あれまあ、その歳で目にガタが来ちまったのかい?わたしの隣をよ~く見てみな」
交わされる悪態の狭間、素直に目線を滑らせた男は漸く青年の存在を認めた。あ?と粗雑な疑問符を零しながら鋭くこちらを見やる姿に、青年は若干気後れつつも口を開く。
「えっと、お休み中にすみません。少しお話を聞かせていただけないでしょうか」
「誰だテメェ」
「新聞社の者です。現在このタウンハウスについて調べていまして」
品定めするかのような眼差しを向ける男は、青年の頭からつま先までをじろりと見回す。その形容しがたい威圧感に何とか笑顔を繕いつつ、青年は目的を悟られぬよう本筋を伏せて用件を話した。相手は宮廷に仕える人間、王家を疑っていることを悟られるのは不味いと判断してのことだ。
「新聞記者、ねえ」
しかし、男は尚も鋭い視線を浴びせ続ける。
「俺はここに住みだしたのは三年前だが、それ以前からここの住人とは交流があってな。今のトコも前の住人から譲ってもらったんだ。そのくらいこの場所とは付き合いがある。だからこそ言うが、この建物にテメェら記者が飛びつくようなネタなんてねえぞ」
……流石に無理があったか。
話の糸口さえ作ってしまえば後は話術次第でどうにでもなると踏んでいた青年は内心で嘆息した。これ以上建物を理由に話を引き出すのは得策ではないと判断し、他に何か都合のいい口実はないかと思考を巡らせる。
時間にしてそれは、三秒にも満たない僅かな沈黙だった。
しかしその間から何かを推察したのか、男は青年の考えを塗りつぶすように言葉を続ける。
「それになあ、ここに住んでる時点で分かると思うが、俺はそこそこの高給取りでな?宮廷に勤めてると、腹芸の一つや二つ嫌でも覚えんだよ。やり方も、見抜き方も」
その言葉に青年の顔から笑みが剥がれる。
反比例するように男の口元が弧を描いた。
「テメェ、本当は何を調べてんだ?」