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「良かったんですか?」
「まあ、もう随分襤褸だったし。別に良いわよ」
溌剌と駆けていった女の子の背を見送ってからも、少女の足は花畑に留まっていた。羽織を無くし顕になった白い顔に、降り注ぐ日差しが容赦なく突き刺さる。
「そのこともですけど……あんな、守れるか分からない約束をしてしまって良かったんですか」
青年は急かさなかった。二人の女が言葉を交わす様を見ているうち、時間を気にする気持ちが何故だが削がれてしまっていた。
「私がどうするかじゃないわ。反故にするのはあの子自身だもの」
「え?」
「あんた、お姉さんがどうして会いに来ないのか分かる?」
風が少女の長い髪を攫った。花びらと共に舞い上がったそれが少女の顔を覆い、青年から表情を隠してしまう。
「割り切っているからよ。楽しかった過去として。全てを思い出の瓶に詰めて蓋をして、外見の美しさを眺めて懐かしむのが大人のやり方だから」
眼球を撫でていく風に目を閉じることなく、青年は花々の中に佇む少女を見ていた。その姿は一枚の絵画のようで、風と共にどこかへ吹かれていってしまいそうな儚さを携えていた。
「あの子も成長すれば、そんなお姉さんのようになるわ。無理な約束をせがんでしまったって笑って、あの頃は子供だったて頬を掻くの。過去は過去として前に進んで、いずれは、長い人生のたった数十分を共に過ごしただけの人間なんて、思い出さなくなるわ」
やがて落ち着いた風に従い、宙を泳いだ髪が落ちる。
漸く見えた顔は笑っていた。笑っていたのに、不思議と悲しそうな表情に見えた。
「……大丈夫、ですか?」
「何がよ」
「いえ、やけに心を傾けているような気がして」
思わず青年は声をかけた。きょと、と目を丸めて青年へ向けた顔には悲哀の色など少しも無い。気の所為かとも思ったが、青年の言葉にに少女は悲しみとも呆れともつかない顔で笑う。
言い知れない何かが青年の胸中に渦巻いた。
「性分なだけよ、私は昔から何かを聞く側の人間だったから」
顔にかかった髪を耳に掛け、咲き誇る花々を見渡すように少女は足を動かす。
「あんたもあの子も私からしたら大差ないわ。個人的には深刻で、世間的にはありふれた心の澱み。そういうものに人一倍触れてきたから……そうね、人よりも過敏になっているのかもしれないわね」
端から端まで、花を一本一本眺めるようにゆっくりと視線を滑らせ、やがて遠くを見るように眼差しを奥へと向ける。数歩先を進んでこちらに背を向ける佇まいに、青年は目を細めた。
「どうして私の頼みを聞き入れてくれたのか不思議だったんですが、何となく分かりました」
思い出すのは、酒場で泣き言に耳を傾ける少女の姿。
そのこなれた様子から、普段からそうしているのであろうことは容易に察せられた。
「優しいですね。貴女は」
少女は拒まない。
それは青年が特別だからではなく、彼女がそういう人間だから。
それを優しさと評した青年は、同時にとても悲しいと思った。
「違う」
しかし、少女はその言葉を受け取らない。子息に同じことを言われた時もそうだったように、少女は自分のそれを優しさと形容されることが嫌いだった。
皆が優しさだというモノの正体を、誰よりも理解していたから。
「違うわ。優しさなんかじゃない。私があんたと正反対の人間だからよ。通したい信念も人生の目的も特にない、何を判断基準にすれば良いのか分からなくて、拒めないだけ」
少女はまたも笑った。悲しみとも呆れともつかないその顔が秘めた感情を、青年は漸く見つけた気がした。
「性分って都合のいい言葉ね」
それは、心の底から吐き出された自嘲。
少女の自己評価と周囲の認識が食い違うのは必然だった。聞き役に徹するうちに身についてしまった悲しき性に、青年は憂いを感じたのだ。
伏せられた少女の目元に影が落ちる。日は遮られることなく燦々と降り注ぎ、少女の柔い肌をじりじりと焼く。
それを甘んじて受け入れるように一人で佇む姿が、ひどく寂しい。
青年はゆっくりと少女の隣に並んだ。痛いほどの光が遮られ、そのことに気付いた少女が顔を上げると、白い日傘を広げた青年が少女に寄り添うようにして立っていた。
「信念だって都合のいい言葉です。そう言えば、何だかとても立派なもののように思える。だけど実際はそんな大層なものじゃない」
年配の店員から話を聞いた店。そこで目についたものだった。
純白の布地は丁寧に縫い合わさり、随所に繊細な刺繡があしらわれている。縁は可愛らしいレースで装飾されいて、一目で安物ではないと分かるほど職人技が光る傘。どうしてそれを購入しようと思ったかと問われれば言葉に詰まってしまうほどに、青年の動機は自分勝手なものだった。
「私が今ここにいる理由は突き詰めてしまえばただのエゴです。エゴは他人の気持ちを考えない。ひょっとしたら誰かを深く傷つけてしまうかもしれないのに、それでも自分の都合で突き進む」
少女が持っていない信念や目的、指針に目標。
青年の行動理念はいつもそれだ。
だからこそ時に躓き、時に挫折する。目指す先があるから成功を願い、成功の道すがらに失敗がある。可否の緩急に振り回される人生だ。
そこに、そういうものとは無縁の場所にいる少女が巻き込まれたらどうなるか。
「判断がつかないのなら全て拒んでもいいのに、相手を悲しませない選択をするそれは、間違いなく優しさです。……でも、そのせいで貴女自身が傷付かないか、それが少し気がかりでもあります」
「何よそれ、私が嫌な気分になるから協力しないって言ったら、あんたは大人しく諦めるの?」
「う、それは……多分、食い下がりますけど……」
痛いところを突かれ、青年はぐっと顔に皺を刻む。
それでも思わずにはいられないのだ、エゴに優しさで対応するのは悪手だと。
その身勝手さに振り回されて、良いように利用されて。いずれ疲れて歩けなくなっても誰も振り返ってはくれない。エゴイストは他人を慮らずに進むものだ。
故に、青年は危うい優しさを振りまく少女に願った。
その願いもまた、自分勝手なものであると自覚しながら。
「でも、私のエゴに優しさではなく、貴女自身のエゴで付き合ってくれたら、私は嬉しい」
「……それがあんたを傷つけるものだったらどうするのよ」
「私よりも、貴女が傷付かないことの方が重要ですから。それに傷付くのがエゴを通した結果なら、後悔しません」
そう言って、青年は少女へとを差し出した。
影の中にあっても、青年の笑みはあたたかく眩しい。
少女は日傘を持つ男の手に視線をやる。
逡巡し、幾度かの瞬きをした。何度目かのそれが終わると、おずおずと柄に手を伸ばす。
「まあ、考えておくわ」
日傘が青年の手を離れた。
風が周囲の木々を揺らし、色鮮やかな花弁を舞い上げる。
自分の贈り物をくるりと回す少女の姿を、青年は脳裏に焼き付けるように見ていた。