三話
「——高橋さん!」
鋭い声が、耳の奥を突き刺した。
「はいっ!?」
反射的に背筋を伸ばし、目を見開く。視界は一瞬、ぼやけていた。焦点が合う。
黒板には、白チョークで書かれた複雑な数式が延々と続いている。講壇の横には、数学教師の藤村先生が腕組みをして立っている。眉をひそめ、分厚い眼鏡の奥から鋭い視線をこちらに向けていた。
「居眠りは、そろそろいい加減にしてもらおうか? それとも、この積分の問題、解けるとでも?」
教室のあちこちから、クスクスと笑い声が漏れる。隣の席の由美が、こっそり机の下で親指を立てて「大丈夫?」と口形で問いかけてくる。
私は慌てて首を振り、顔を俯けた。頬が火照る。
「す、すみません…」
声は蚊の鳴くほど小さかった。藤村先生は鼻で笑うと、再び黒板の説明を始めた。チョークがカリカリと軋む音。そのリズムに合わせて、心臓の鼓動が高鳴る。
現実だ。確かな、ありふれた、少し息苦しい現実。
机の表面。無数の落書きや消しカスの跡が刻まれた木目。指でなぞると、わずかな凹凸を感じる。鉛筆立てには、使い込まれたシャープペンシルと、インクが切れかけの赤ペン。開かれた数学のノートには、さっきまで書いていた途中の計算式——最後の行は、眠気に抗いきれずに筆圧が弱まり、文字がよだれのようにだらりと伸びている。
(…夢?)
心の奥で呟く。くるぶしを包んだあの水の冷たさ。足元に広がった、世界を飲み込むような夕焼けの鏡像。そして、靄の中から問いかけてきた、あの存在。全てが、あまりにも鮮烈すぎる。
脳裏に焼き付いた光景は、今この瞬間も、現実の景色の上に薄く重なって見えるような気がした。
廊下の窓ガラスに目をやる。午後の日差しが斜めに差し込み、床を明るく照らしている。外には、校舎のコンクリートと、向かいの体育館の屋根。そして、遠くに広がる住宅街の屋根の海。空は…薄い水色に、所々に綿のような白い雲が浮かんでいる。夕焼けではない。当たり前だ。まだ午後二時だ。
「…自らが引いたその一線の向こうに、何があるかを信じ、歩みを続けること」
あの「声」が、思考の中に再びこだました。水平線。あの揺らめく、絶対ではない境界線。
(信じる、か…)
ため息が漏れそうになるのを堪える。信じるものなど、今の私に何がある? 明日の小テスト? 来週のクラブの試合? それとも、もっと漠然とした、大学受験という名の巨大な壁?
「——というわけで、ここが今日のポイントだ。しっかりノートに取っておくように」
藤村先生の声が、現実へと引き戻す。黒板には、赤チョークで大きく「重要!」と囲まれた式。周囲のクラスメイトが一斉にペンを走らせる音。ガサガサとページをめくる音。私は慌ててシャープペンシルを握り、ノートに書き写し始めた。手の動きは自動的だ。頭の中は、まだ水鏡の上を漂っている。
放課後の廊下は、活気と雑音に満ちていた。下駄箱の前で、サッカー部の男の子たちが大きな声で明日の練習試合の作戦を話している。吹奏楽部のトランペットの音が、どこかの教室から漏れてくる。帰り支度をしながら、由美が私の肘を軽くつついた。
「ねえ、さっきの数学、やばかったよね? あの積分、全然意味わかんなかったよ。放課後、図書室で一緒に復習しない?」
由美の顔は、いつも通り明るい。少し日焼けした頬に、小さなそばかすが散っている。彼女の現実は、確固としてここにある。悩みは、数学のテストと、片思い中のサッカー部のキャプテン、そして週末に買いたいという新発売のアイシャドウのことだけだ。
「…うん、いいよ」
私は笑顔を作って答えた。しかし、口元は硬い。自分の声が、どこか遠くから聞こえてくるように感じる。
下駄箱で靴を履き替える。コンクリートの冷たさが、靴底を通して伝わる。外に出ると、初夏の風が頬を撫でた。自転車置き場へ向かう足取りは重い。夕焼けの鏡像が、アスファルトの路面に重なって見える。一瞬、足を止めてしまう。
「どうしたの? ほら、早く行こうよ! 図書室、混むかもしれないし」
由美が振り返って声をかける。彼女の背後には、現実の夕陽が沈みかけている。オレンジ色の光が、校舎の壁を染めていた。それは美しいが、足元を覆い尽くすほどのものではない。ただの、一つの風景だ。
(あれは…何だったんだろう?)
図書室の窓際の席。分厚い数学の問題集を開き、由美が必死に説明してくれる声が耳に入ってこない。ノートの余白に、無意識のうちにペンが走る。
一本の線。水平線。
そして、その線の下に、ぐるぐると渦巻く、炎のようなオレンジと紫の波紋。
「…ねえ、聞いてる? 高橋?」
「あっ! ごめん、今、ちょっと…」
慌てて顔を上げる。由美は怪訝そうな表情で、私のノートの落書きを見つめている。
「それ、何? アート? 新しい趣味?」
「…ううん、なんでもない」
素早く手で隠す。頬がまた熱くなる。由美は一瞬、訝しげな視線を向けたが、すぐにまた問題集を指さした。
「じゃあ、ここ、もう一回説明するね? 部分積分のところ…」
彼女の声に合わせて、私はうなずく。現実に戻らなければ。ここが、私の世界だ。灰色の空蓋も、水鏡の夕焼けもない、確かな日常が。
でも、心の奥底では、あの靄のような人物の問いが、静かに燻り続けていた。
『見えるものは、信じるに足る唯一の現実か?』
図書室の窓ガラスに、自分が映っている。制服を着た、ごく普通の女子高校生の姿。その背後には、現実の夕暮れの校庭が広がっている。しかし、そのガラス面の向こう——自分の影の足元に、ほのかなオレンジ色の光が揺らめいているように、錯覚しそうになる。
私はそっと息を吸い込み、ペンを握り直した。由美の説明に耳を傾ける。一つ一つ。積分の式を追いかける。現実の、確かな数字と記号の上を。
歩みを続ける。たとえ、その足元の大地が、時に鏡のように揺らいで見えたとしても。
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(続く)