二話
意識が、深い水底からゆっくりと浮上するように戻ってきた。最初に感じたのは、くるぶしを包む、ひんやりとした液体の感触だった。水。しかし、それは海とも湖とも異なる。重さも流れもない。ただ、足首を静かに浸す、均質な湿り気。
瞼を開けた。
視界いっぱいに広がるのは、天をも地をも飲み込んだ、果てしない「色」だった。
夕焼け。
しかし、それは頭上にあるのではない。足元にあるのだ。
くるぶしに届くか届かないかという、かすかな水深。その水面下に、一面、圧倒的な夕焼けの空が、完璧な鏡像として広がっている。燃えるようなオレンジ、深い茜、憂いを帯びた紫、そして金色の断片が散りばめられた紺碧。雲一つない、浄化された空のキャンバスが、この薄い水の膜の下に、無限に、歪み一つなく広がっている。私は、文字通り、夕焼けの上に立っていた。
足をわずかに動かす。かすかな水紋が、完璧な鏡像を一瞬で歪め、揺らぐ。巨大な色の塊が波打ち、溶け、再構成される。まるで、自分が世界の皮膚を踏み、その下に流れる巨大な血管のような色の奔流を乱しているかのようだ。水は驚くほど透明で、水深は見たところどこまでも深いが、底は見えない。見えるのは、ただ、無限に続くはずの、水底に沈んだ夕焼けの空だけ。それは、世界が上下逆さまになったような、根源的な眩暈を誘う。
目を上げる。水平線。それは、この水鏡の果てに、くっきりと、しかし何の変哲もない一本の線として浮かんでいる。水の表面と、空の境界。しかし、その空は――奇妙なことに――無色だった。あるいは、鈍い鉛色と言うべきか。雲も太陽も星もない。ただ、均一な、光を失った灰色のドームが、足元の輝かしい夕焼けの鏡像を、静かに、冷たく覆っている。この対比が、さらに非現実感を増幅させる。下は生命の焔のように鮮烈で、上は死んだ灰のように無気味。
風はない。音はない。水紋を立てる自分の足の動き以外、一切の動きはない。完全な静寂が、この広大な空間を支配している。その静けさは、耳鳴りのように頭蓋骨の内側で響く。
そして、彼がいた。
水平線の、すぐこちら側。私から十数メートルほどの距離に、水に立つ人影。しかし、「影」という表現がふさわしいかもしれない。彼の輪郭は、夕焼けの光を反射する水面のきらめきと、上から降り注ぐ灰色の光の加減で、常に霞み、ぼやけ、揺らいでいるのだ。まるで、熱気によって歪んだ遠景の人物のように。距離感さえ定まらない。
身長も体型も、おぼろげに人間の形をなぞっているが、詳細は掴めない。着ているものも判然としない――それは濃淡のある灰色の靄のように、あるいは水そのものが形を模したように、彼の周囲を流動的にまとっている。顔立ちはなおさらだ。目鼻立ちは、そこに存在するという確信があるにもかかわらず、焦点を合わせようとするたびに、背景の燃える色か灰色の空に溶け込み、消えてしまいそうになる。ただ、その存在感だけが、圧倒的な静寂と広がりの中で、異様な重みをもって迫ってくる。
彼は、私の方を向いている。少なくとも、そのように感じられた。顔の詳細はわからなくても、視線だけは確かにこちらへ注がれている、という確かな圧力を皮膚が感じ取る。
そして、彼が口を開いた。あるいは、開いたように思えた。しかし、声は、空気を震わせて聞こえてきたわけではなかった。
それは、直接、思考の中に、澄んだ水滴が落ちるように、静かに響いた。
「…見える色は、何色か?」
問いかけだった。声というより、概念が形をとったもの。低く、深く、揺るぎのないトーン。水紋一つ立たぬ水面のように平然としている。
私は一瞬、言葉を失った。足元の燃えるようなオレンジと茜を見下ろす。その色は、肌に温もりすら感じさせるほど鮮烈だ。
「…夕焼け。オレンジに、赤に…金色も混じって」 自分の声が、この広大な静寂の中で、ひどく小さく、儚く聞こえた。
人影は微動だにしない。だが、思考の中の「声」が、再び響く。
「そうか。君には、そう見える」
一瞬の間。水面の夕焼けが、ほんの一瞬、色調を変えた気がした。紫がより深く沈んだか。
「では、そのオレンジは、水の中にあるのか? 空にあるのか? それとも…」
声はさらに深みを増した。
「…君の視覚の奥、脳の電気信号の奔流の中にだけ、あるのか?」
問いは、鋭いナイフのように、認識の根幹を揺さぶった。私は咄嗟に足元を見る。水は確かに冷たい。しかし、その下に広がる色…それは、本当に「そこにある」のか? 物理的な実体として? それとも、光の反射と、私の網膜と脳が作り出した幻影に過ぎないのか? この灰色の空の下、なぜここだけが輝いているのか?
「見えるものは、信じるに足る唯一の現実か?」
「声」は続く。それは、問いかけるというより、深淵から湧き上がる真理の断片を、静かに提示しているようだった。
「この足元の水。触覚は冷たさを伝える。視覚はそれを透明だと告げる。しかし…」
ほんのわずかに、彼の輪郭が揺らめいた。あるいは、私の視界が揺らいだのか。
「…その水が、君の存在を支える大地であると、どうして断言できる? あるいは、それは巨大な鏡、あるいは…深淵への扉かもしれぬ」
私は思わず、立っている足に力を込めた。確かに、柔らかな抵抗がある。沈み込むことはない。しかし、彼の言葉は、その確かな感触さえも、疑いの蜃気楼で包み込む。この水鏡が突然割れ、その下に広がる夕焼けの虚無へと落ちてしまうのではないか、という恐怖が、ほんの一瞬、背筋を走った。
「『私』とは何か?」
突然、問いの核が変わった。人影の輪郭が、夕焼けの強い反射を浴びて、一瞬、くっきりと浮かび上がった気がした。しかし、それは蜃気楼のようにすぐに霞んだ。
「この肉体か? 思考の連なりか? 記憶の束か? それとも…」
声が、この広大な空間の静寂そのものになった。
「…今、ここに立つ、この『気づき』そのものか?」
その言葉とともに、奇妙な感覚が襲った。自分の身体の輪郭が、周囲の水や光や空気と、境界が曖昧になるような感覚。自分が、この夕焼けの鏡と灰色の空の狭間に浮かぶ、一つの「気づき」の点に過ぎないような、広がりと同時に消滅への畏れ。
人影は、ゆっくりと、ほとんど気づかれないほどに、手らしきものを挙げた。その指先――あるいは、指の形をした光の束――が、水平線の彼方、灰色と水鏡が接する一点を指し示した。
「見よ」
「声」は囁くように響いた。
「あの水平線。それは、現実と虚構の境目か? 知覚の限界か? それとも…」
指先が、かすかに揺らめく。
「…君自身が、世界に引いた一線に過ぎぬのか?」
指し示された水平線は、確かに一本の線だ。しかし、凝視すればするほど、それは決して静止していないことがわかる。大気のゆらぎなのか、水鏡の微細な動きなのか、あるいは私自身の眼球の震えなのか。線は常にかすかに波打ち、色の境界は滲んでいる。絶対的な境目など、どこにもないのかもしれない。
沈黙が戻った。しかし、それは空虚なものではなかった。彼の投げかけた問いの数々が、水鏡に映る夕焼けの色のように、私の内面で混ざり合い、深く沈殿していく。重く、熱く、そしてどこか悲しげな輝きを放ちながら。
彼は、その靄のような姿を、ほんのわずかに傾けた。それが、何かの合図だった。
「この光景は、比喩に過ぎぬ」
「声」が再び響く。しかし、今度は、これまでとは異なる、ほのかな温もりを帯びている気がした。
「苦しみの海に沈みながらも、その底に輝く希望の光を見出すこと。現実の灰色の空に覆われても、なお足元に世界の美しき反映を見いだすこと。」
彼の存在が、夕焼けのオレンジを反射して、一瞬、微かに輝いた。
「そして…」
声は、水紋が広がるように、優しくも確かな力で押し寄せた。
「…自らが引いたその一線(水平線)の向こうに、何があるかを信じ、歩みを続けること。」
それが、最後の言葉だった。
次の瞬間、彼の輪郭は、急速に薄れていった。夕焼けの光を背景に、灰色の靄が風に散るように、あるいは水面に映った影が波紋で消えるように。輪郭は崩れ、色は周囲の光景に溶け込み、数秒後には、そこに確かに存在したという痕跡さえ、不確かな記憶のように感じられた。ただ、彼が立っていた水面に、かすかな同心円の波紋が、ゆっくりと広がっているだけだった。
私は、ただ一人、果てしない水鏡の上に立っていた。足元には、なおも燃える夕焼けの空が沈み、頭上には、変わらぬ無気味な灰色の空蓋が広がる。水平線は、かすかに揺らめきながら、遠くに横たわっている。
彼の問いは、私の内奥に深く刻まれ、静かに燻り続けている。鏡像と実体。知覚と現実。境界と自己。信じるということ。
くるぶしを包む水の冷たさが、今はむしろ清冽に感じられた。私は、彼が消えた水平線の方向へ、ゆっくりと一歩を踏み出した。水面に、新たな波紋が、揺らめく夕焼けの色を歪めながら、遠くへと広がっていく。