ep.3 津々木 清太
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結論から言えば、津々木清太という二十二歳の男性はこの世に存在していない。戸籍も名前も揃っているにも拘わらず、筆者はそう断言したい。
彼の名は『堤岡 清太郎』だ。
ネットで検索をすれば、ヒットする名前である。
彼は彼女の同級生であり、恋人だった。
失踪したのが二十三年前。十八歳の頃だった。
彼は自分の家族を皆殺しにし、そのまま姿をくらましたのだ。
母と父、そして、姉。その現場に自分の腹を刺した妹。
その凄惨な現場に居合わせたのが、虫の息であった妹の出血を止めようとしている津々木 操だった。
死人に口なし。操が語ったのは、清太郎が常日頃から虐待を受けていたということだった。現場周辺に住む住人から聴取された彼の人物像は『大人しい性格』『挨拶をしても愛想笑いもしない』『常に肌を隠すような衣服を着ていて、健康だとは思えない顔色』の持ち主。
母は学校の教師で厳しくしつけを行うタイプ。
父は証券会社に勤め、帰りは遅く、酒に溺れるくらいに酔っていることもあった。
血の海の真ん中でその妹を抱きしめていた操が「清ちゃんがやったの」と、窓から射し込むパトカーの赤い光の中で証言した。
この事件は被疑者失踪のままとりあえずの幕引きとされたのだ。
ここまでは情報番組でも取り立たされていた誰でも知りうる事件である。
そして、閉鎖的な町での出来事は、そのままなかったことのように、人々の腹の中に沈められた。
しかし、筆者が津々木 操からの電話を取ったことで、その真相が明らかとなったのだ。
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そこまで打って、キーボードの上にある手を止めた。
オカルト記事として、弱い。
暗闇のデスクの上でブルーライトを放つPC画面に手元を照らされ、伸びをした。作業チェアの曲がった背もたれが、ぎゅいぃと悲鳴を上げるのはいつものことだ。
普通に考えれば、単に操の妄想である。
高校生であり、恋人同士の彼らの間に子どもが出来ることは、あるのだ。
生み直しの儀式。
操が言ったその儀式は、あの三道寺の大杉にまつわる裏のようなものだった。
確かに、『清太』は『清太郎』が失踪してちょうど一年後に出来た子である。
その後会っていないのであれば、おかしな話だ。妊娠期間は十二ヶ月ではない。
もちろん、単なる高校生が、殺人鬼を隠しておくことなどできないだろう。まして、彼女はその殺人鬼の共犯まで疑われたのだから、彼女の周りには警察官だって目を光らせて存在しただろう。
そして、意識を現在へ向ける。
失踪した清太へ。
妄想癖のある母親から逃げた息子。もしそうだとすれば、おそらく連絡はつかない。聴き込んだ彼の友人達から得た『清太』像は清太郎とは全く違っていたのだから。
優しく朗らか。怒ったところを見たことがない。
これは本来の清太郎の姿なのだろうか?
もちろん誰に訊いても、操から見えていた『清太郎』。本来の清太郎を見つけることは出来なかった。
だから私が出した答えは、津々木 清太はいない、だ。
近過ぎて見えなかったものを俯瞰するようにして、腕を伸ばし、その手に持つ紙束を見つめる。
拾い集めた『大杉』のネタだ。
三道は『産道』と解釈される。確かに大杉の根っこは人が股を広げて座っているようにも見えた。
根と幹の隙間にある雨露に頭を突っ込み、「もう一度戻りたい」と心から三度願う。
生まれるべき『腹』を用意する。
残った者は、その存在を広める行為をしてはいけない。
生まれ変わることを知られてはならない。
広めたらどうなるのだろう。
例えば、この場合『清太郎』を広めることを意味するのだろうか、それとも『清太』なのだろうか。
眉唾物の、オカルトネットからの記事だ。
憶測は様々書かれてあった。共通するのは、広めれば祟られるということだけ。
もちろん、個人を特定しようと思えば調べられるだろうが、年代も十九某年とし、県名も名前も全て伏せ字にしてある。その方が、現実味と創作が入り交じり、読者の妄想を掻き立てられるから。
しかし、それでも行き詰まっていた。現実的に考える方が、所謂オカルト的リアリティよりも納得できるのだ。
方向性を変えるべきなのだろうか。そして、再び一年前を振り返る。
一年前、再び『三道寺』へと向かうことになった。
津々木 操から『大杉』へ呼び出されたのだ。
大杉のネタと、消えた成人男性。そこに粘着する妄想癖のある女性の話は、まったく面白く感じられなかったのだ。そろそろ破棄しようかと思っていた頃だった。だから、それを持って最終報告としようと思っていたのだ。
同じく三道寺に立った私の顔を見たタクシーの運転手が、「以前も来られてましたよね」と確かめられた。無口なままで良かったのに、と心底残念に思った。
「大杉ですか……パワースポットらしいですね。縁結びの」
目的地を伝えると、冷ややかに笑われた気がした。
「そうらしいですね」
だから、私もそっけなく答えたのだと思う。
三道寺は山の奥、緑の濃い杉林の中にあった。
石造りの鳥居もあるが、鳥居を潜った先には、如来像もある。神仏習合なのかもしれない。
その寺の奥に大杉が聳えている。
ご神木だと言われる、しめ縄が為された大杉。
仏教ではないのだ。
ここは、神様が住まわれる場所。
津々木 操はそこに立っていた。あの黒いキャスケットは被っていなかった。肩で切りそろえられた黒い髪が、彼女の白い顔を強調するように流れ、吹っ切れたように笑った彼女の「ありがとうございます」と言う小さな声が、なぜか大きく耳に響いて聞こえてきた。
その時、反射的に私は彼女を訝しんだ。
「いいえ。仕事として受けましたから」
津々木 操は微笑んだが、その微笑みはまったく綺麗ではなく、安心感もない。元々生気がない女だ。きっと、そんな幽霊のような存在に微笑まれたことによる嫌悪感もあったのだろう。しかし、その微笑みもその白い顔にすぐに吸い込まれる。
「あなたが一生懸命調べてくれたから、清太が今この世にいないことが分かりました。だから、お礼がしたくて」
その冷静すぎる表情に思わず後ずさりしていた。私が調べたことなど、大したものではない。彼の交友関係に話を聞き、『清太郎』が立ち寄りそうな場所へ足を運んだだけ。
その結果を彼女に伝えただけ。そのくらい、彼女だって……。
「いろはさんってステキなお名前ですね」
「ありがとう」
私は言葉少なに、彼女に答える。物事の初めという名前が良かった。でも、女の子だからイロハにしたい。親など結局、自己満足の塊だ。だから、私は親を恨み、親にならなかった。
「物事のはじまり。やっぱり、……記者さんって真実が知りたいものですよね」
「えぇ、まぁ」
「そうよね……はじまり……」
私のその答えに興味すらなさそうな返事をした津々木 操は、そのまま言葉を零れ落とすようにして、続けた。さきほどの応答には、まったく触れもせず、気にもせず。肉食獣のような、獲物をしとめるような瞳だけを私に向け。にやりと笑った気がした。
「どこにも知られていないことがあの事件に一つあります。はじまりは、あの事件じゃありません」
きっとこの時に立場が変わってしまっていたのだ。
捕食者と非捕食者という。