ep.2 津々木 操
私が降りた三道寺駅からさらに山手の方へ向かうと、大杉のある『三道寺』へと着くらしい。
しかし寂れたホームだった。高架橋を渡り、向こう側に降りると唯一の無人改札が、唯一降りた乗客の私を迎えてくれていた。駅舎も簡素なものだ。木造作りで、ペンキが剥げかけている。そんな場所に、ICカード搭載の無人改札音が響くというのに、不思議と違和感がなかった。
この改札に不具合が起きたら誰が調整しに来るのだろう。そう思いながら、形だけの駅員室を覗くと、白いプッシュフォンが見えた。
きっと、これで誰かを呼び出すのだ。隣の駅の駅員だとかを。
ここを使う人が急ぐことはないとでも踏んでいるのだろうか。大らかというのでは、ないのだろう。そんな風に思ってしまう。
改札の外に出ると、遠くに緑が広がる解放感が私を迎え、照り付ける日差しを忘れさせてくれるような涼しい山風が、肌をひんやり撫でていく。普段感じることのない心地よさだ。そして、そんなことに気を緩めてしまったことに、すぐ後悔した。私は空を見上げ、当たり前にある太陽を久しぶりに眺めてしまったのだ。
眩しい。一瞬のホワイトアウト。思わず手を額に翳し、目を庇った。
しかし、都会のあの容赦なく照り付ける重たい太陽ではない気がした。
どこか白々しい。そんな光。
たまにある車のすれ違いのために使うのだろう駅舎前のロータリーを挟んだその向こう。そこに敷かれた狭いアスファルトに、一台の黒塗りタクシーが止まっている。おそらく私が呼んだタクシーだ。山に敷かれたアスファルトの辺りは、ちょうど山影になっていて、直射日光に晒されるロータリーよりも、待つにちょうどよく、車体の暑さも和らぐのかもしれない。見つめる先には黒塗りのタクシーと、その扉のすぐ脇にいる運転手が、気持ちよさそうに一服している姿があった。木々が生み出す陽炎とその手元にある紫煙が幻想的に絡み合う中の中年男性。とても不思議な組み合わせだった。
そんな様子を眺めていた私に気づいた運転手が、手元のタバコの火を消して、一礼した後に手を招いて呼んだ。慌てるでもなく、当たり前のようにして。
こっちですよ。まるでそんな風に。
そんな風に呼ばれることに、やはり『田舎』という言葉を思い浮かべてしまう。私の住む場所が大都会だとは胸を張っては言えないが、こういうマナーにクレームを入れる者たちがたくさん住んでいる場所に私は住んでいて、個性と距離が適度に重んじられるくらいの都会ではある。
住み心地はいい。きっと、隣組などを大切にするのだろうここより。
『三道寺』からタクシーで山を下れば、二十分ほどで町役場に着く予定だった。
「本町の町役場までお願いします」
手招きだけした無言の白い手袋が、メーターをいじり、ウインカー音を鳴らす。返事もしない運転手だったが、探られるよりはいい。観光ですと言えば、かなり胡散臭い場所なのだから。
しかし、その無愛想な運転手は、土地勘のある人間なのだろう。最近通常装備のカーナビがなかった。
そして、そのまま無言で発車した。
タクシーを走らせる山道は、山の心地よさよりもただその寂れを伝えるだけの景色に思え、ただ視線を流して過ごした。
何事もなく、淡々と、予定通りに本町役場へ到着し、領収書を切ってもらった私は、遠ざかっていくタクシーを眺めたその目で腕時計を確かめた。
約束の十三時まで、まだ三十分と少しあった。これもいつも通り。待ち合わせ場所の雰囲気を掴んでおきたいのだ。相手がどんな場所で育ち、どんな雰囲気の住処にいるのか。
町役場前だが、人通りが少ない。そう思い、土曜日であったことを思い出す。カレンダーの感覚が染みついていないことに対する苦笑いをして、周りを見回した。
大通り沿いにはファミレスが一件見える。角を折れた場所にはシャッターの閉まった洋菓子店。そして、その大通りから角を曲がった場所には、普段役所の方々が使っているだろう飲食店がぽつぽつと並んであった。
ただ、相手が役所組だ。週末に静かな通りに変わりない。
立ち話もなんだし、どこか入れるところはないだろうかとさらに周りを見回すと、『炭火焼き珈琲』と書かれたのぼりが目に入った。
少し甘い物も食べたい気分だし、家族連れの多いだろうファミレスに入るよりは、ちょうどいいかもしれない。
私は早速スマホの電話帳を開き、ショートメッセージを打ち始めた。
相手はあの粘着女。津々木 操だ。
ショートメッセージで役場の近くにあるのぼりが立っている喫茶店で待っていることを伝えた後に、鐘の付いている扉を開くと、カランカラン、と郷愁の音が鳴った。
なかなか味のあるレトロな雰囲気の喫茶店だ。重みのある雰囲気に違う軽い木の扉を開けた先で聞こえたのは、店主の趣味だろうか、風に乗って聞こえてくるような音量のジャズピアノ。レコードではないだろうが、そんな色の音が流れている。
年代を感じさせるソファと木の椅子。白いクロスがかけられた机の端に置かれた紙ナプキンやグラニュー糖。使い古された手描きのメニュー。
全てが時を重ねた空間だった。そんな時間を楽しもうとする常連らしき老紳士や老婦人が一人静かに読書を楽しんでいる。
そして、おそらく、ここのお勧めであろう『炭火焼き珈琲』の香りが店の中に充満しており、そのアロマ効果で肩の力が抜けるような感覚に陷った。やはり見知らぬ土地で、たとえそれが女だとしても、電話口でしか喋ったことのない人間と会おうとするのだ。きっと疲れてしまっていたのだろう。やはり、ここを選んで正解だったかもしれない。
店主はマスターと呼んで差し支えない落ち着いた六十に差し掛かろう雰囲気を持つ男性で、七三分けの黒髪とメガネが印象的だった。穏やかな声で「いらっしゃいませ」と私に伝えたマスターは、私が窓際に座る様子を確かめてから、また視線を下方へと戻した。ジュロロロという水を吸い込むような音がした。
メニューを開くと炭火焼き珈琲には焼き菓子を選べるセットがあるらしいことが分かった。
生クリームが添えられたパウンドケーキに手作り胡麻、塩、プレーンのクッキー盛り、そして銀色の器に載せられたバニラアイス。
水を持ってきたマスターに『炭火焼き珈琲』と『パウンドケーキ』を注文すると、程なくして電話の女が現れた。年格好と黒い帽子。言われていた容姿に向かって、私は立ち上がった。手を上げ、頭を下げると、彼女、津々木 操はそそそと私に近づき、囁くような声で挨拶をしてきた。
「よろしくお願いします」
名乗らず、視線が合わない、第一印象はそれだ。唾の大きなキャスケットが、その表情をさらに暗くさせている。若いと思っていたが、その姿の実際は老けて見えた。四十代半ば過ぎくらいだろうか。私よりも少し年長かもしれない。取り扱いは要注意だ。私は驚かせないよう、穏やかに自己を照会した。
「こちらこそ、よろしくお願いします。『オカルト気分』の記者をしています、原です」
「あ、津々木……操です」
津々木 操は、手渡された名刺に書いてある肩書以上の情報を探すように、視線を落として固まった。
雑誌の特徴柄、不器用な人間と会うことには慣れている。彼らは得意分野だけ流暢に語ることが出来るが、それ以外の自信があまりない事が多いのだ。
テレビで喋っている彼らは、実際に取材するような彼らとは、違う。認められ持ち上げられたからこそ、語ってくれるようにもなり、一つ間違えるだけで黙する生き物。
私のここでの仕事は、彼女を一種の興奮状態にすること。気持ちよく酔いしれていただいた方が、良い記事になる。
そんな思いを腹に潜めながら平静を保っている私は、津々木 操に椅子を勧め、彼女が座った後に、名刺を渡した。
『原 一』
至ってシンプルな、本名。時に逆にペンネームかとも言われる。ちょっとしたキラキラネームだ。だから、自分からは敢えて名乗ったことはない。
名字が分かればそれで良い相手としか、対談しないのだし。ハライチと呼ばれることにも慣れていた。しかし、彼女はそうは呼ばなかった。きっと真面目なタイプなのだろう。少し好感が持てる。
「原……いろはさんですね」
「はい、読みにくいでしょう? あ、どうぞ好きな飲み物を。経費で落としますので、気にせずに選んでください」
そう言いながら、小さく佇んでいるメニューを渡す。
「はい……」
電話の勢いは全くない。
彼女はしばらく小さなメニューを眺めた後、アイスレモンティを頼んだ。帽子は脱がない。
「電話で伺ったお話の内容から、息子さんが行方不明になったのは一年前で合っていますね」
「はい、知り合いや友達、誰も取り合ってくれませんでした」
「警察は?」
息を呑む姿が見えた。
「連絡は、しようとしましたけれど……」
とりあえず、今は保留。攻めすぎると、ガードされる。
「まぁ、息子さん、子どもでもありませんし、でもまだお若いですし。なかなか取り合ってくれないかもしれませんね。でも、最近は警察も向き合ってくれるんじゃないですか? 私なんかよりもずっと頼りになると思いますけどねぇ」
そう言いながら、コーヒーカップを口元に持って行き、彼女を見つめる。視線はやはり合わない。
言えない何かがあるのだろう。
たとえば、なんだ?
探して欲しいと言いながら、公的機関を避けた理由。
最初の一週間くらいなら、単に家を出た成人男子だ、取り合ってくれないこともあるかもしれない。しかし、一年も連絡がないとなれば、さすがに失踪者リストの中には入れてくれるだろう。
それがないのだ。
「でも、心配ですよね。えっと、清太さん?でしたよね。だけど、どうしてうちなんですか?」
公的機関を頼りたくなくても、人捜しなら、興信所だろう。
彼女はレモンティを一口吸い上げると、目を伏せたまま躊躇うようにして、ストローで氷をかき混ぜた。
「私が彼を産んだんです」
ぽつりと落とされた初めの言葉がそれだった。当たり前のその言葉に、私が黙っていると、不可解なことをしゃべりだした。
「約束したんです。大杉で」
「それなのに、彼は私を捨てました」
「一年経った今だから、彼を探したいのです」
「お願いします。清ちゃんを探してください」
深々と頭を下げる彼女からは、その切実さのみが伝わってきた。