悪夢
耳を割るような音だった。
今まで聞いたことも体験したこともないとてつもなく大きな衝撃。
気づくと「鈴の家」の自分たちの小さな部屋がほぼ無くなっていた。
ちょうどすっぱり切り取られたかのように、その半分が消えていた。
それは瓦礫の山に変わっていた。
実央のいた二段ベッド周りには「鈴の家」を構成していただろうものの、残骸と壁だけがあり、天井はすでにない。
実央のからだは幸い崩れた二段ベッドの、一段目と二段目の間にいてほとんど無傷だった。
「つーちゃん」
実央は今までそこにいた椿を探した。
「つーちゃん?」
小さな実央の声は雨の音に掻き消される。
そのうち、背後とベッドの下が熱くなり始めた。
焦げ臭い煙が実央の周りの空気を奪い取っていく。
どこかで火災が起こり、火の手はすぐそこまで迫っていた。
実央は無傷ではあったが四方をベッドの枠に囲まれた、高さ20cm程の僅かな空間に閉じ込められている状態である。
「助けて……」
煙にまかれて息をするのも苦しい。
「これはまた酷い」
近くで人の声がした。
今まで聞いたことのない声だった。
「捨てておきましょう。施せばかえって厄介なことになります」
「たすけて……」
実央は声の方へ助けを求めた。
煙のせいで目は痛み涙が溢れる。
何も見えず、声のする方へ手を伸ばすのが精一杯だった。
「そちらはもう手遅れでしょう」
「たすけ……」
手探りで伸ばした手に何かが触れた。
「虎玉を?」
「暫く」
掠れた太い声だった。
「人のいっときなど」
誰かの手が実央の手を握った。
それは大きくて温かな優しい手だった。
「駄目ですよ触っては!……ダメなのに」
「おかあさん……」
実央は母の手の温もりを思い出していた。
「せめて苦しまないように」
落ち着いた優しい声にほっと安堵する。
ふいに苦しさが消えた。
綺麗で冷たい空気が喉をすぎ肺を満たしていく。
肌を削られるようなあの激痛を、もうまったく感じない。
「つーちゃん……」
見えなかった視界が開けてくる。
けれどすぐ、残酷な現実が何の準備もないままの実央の視界へと入ってしまう。
椿の長い髪、力なく放り出された白い腕。
天を見上げる空虚な瞳。
とても生きているようには見えない。
椿の横に黒いカッパを着た背の高い者が立っている。
……者?
けれど実央にはそれが人には思えなかった。
見かけは人のようであるけれど、 人とは何かが、どこかが完全に違っている。
ああ、あいつだ。
あいつがこんなことをしたんだ。
つーちゃんを殺した。
僕にもひどいことをした。
全部、あいつがやったんだ。
どこからか緊急車両のサイレンの音が近づいてくる。
ああ、助けが来た。
良かった、もう大丈夫だ。
もしかしたらつーちゃんも助かるかもしれない。
急いで来て、早く走って、つーちゃんを助けて。
そう叫ぼうとするが、何故か喉がしまって声が出ない。
ここにいる、僕たちはここにいます!
助けて下さい!
叫ぼうとするが、やはり声が出ない。
ふいに誰かに手首を掴まれた。
実央は飛び上がり震え、その手を懸命に外そうとする。
血に濡れた手は彼の腕を強く掴み決して離さない。
手の先を恐る恐る見ると、
強い眼光で自分を睨む血だらけの幼い少女の顔があった。
「うわぁっ!!」
自らの声に驚いて、実央は飛び起きた。
激しい動悸にからだが上下する。
額から流れた汗が顎を伝い布団に落ちた。
携帯の目覚ましが一定のリズムで鳴っている。
くそっ、と実央は手で顔を覆う。
息を深く吸いこみ呼吸を整える。
またこの悪夢だ。
この悪夢から逃れる方法は、起きているか、または夢を見ないくらい深く眠るか、あるいは強制的に脳をシャットダウンさせるか、それしかない。
虚ろな視線は焦点をとらえず、暫く宙をさ迷っていた。
やがて実央は手を伸ばし畳の上にあった携帯を手に取るとアラームを止めた。
バイトに行かなければならなかった。
棒のような足で重いからだを引きずりやっと運ぶ。
そうやって浴室までようやくたどり着く。
ほんの数歩の距離がとてつもなく遠く感じた。
熱いシャワーを浴びると、覚めない悪夢から少し遠ざかり、自分は今、現実を生きているのだと感じられた。
あの日のあの事故から、すべては始まっている気がする。
長い長い終わらない悪夢。
実央が他の人には見えないものを見るようになったのはあの「鈴の家」の火災事故からだ。
あの日から、恐怖と後悔は対になって実央から離れることはない。
嫌なものを見る恐怖、椿を殺したのは自分だという罪悪感。
それが、実央の精神を今も壊し続けていた。
☆☆☆