傷痕
「だって私は悪くない、店長が悪い」
実央のからだから彼女が離れ彼は自由になる。
「若いアシスタントばっかりヒイキするんだよ? ちょっと若いからってなに?! って感じ……それで、だからぁ、今日はお客さんと遊びに行くの、パーっと憂さ晴らしに」
彼の目の前へ唐突に両手が突き出された。
しかし彼は予期していたようで、何も言わずにジーパンのポケットから財布を取り出し中身を確認している。
「今月は厳しいんだって」
「わかってるって」
彼の手から財布が奪われた。
「私は大丈夫、これだけあればね」
財布から一万円札2枚を抜き取られ返された。そもそもそれしか入っていなかったので、残ったのは小銭だけになる。
「あのさ、もしかしてまた……」
「なに? 私って信用されてないわけ? …… してないってほんとに、大丈夫、大丈夫。借金はしてないって」
「借金は、って? 他は何かしてるってこと? なんか隠してる? 」
「いやいや、言葉のあれでしょう」
実央は訝しげに母親を見る。
「なにその顔、今さら反抗期とか? 二十歳にもなってそれはないでしょう」
「いってっ」
つねられた頬に手を当てる彼を、彼女は面白そうに眺めた。
「それ、俺のTシャツだからな」
それはなんてことのないただの白いTシャツで、まだ高校へ通っていた頃、いつもシャツの下に着ていた物だ。
「知ってる。だって着るものなかったんだもん」
「あるでしょう、服たくさんあるじゃん」
部屋のあちこちに脱ぎ捨てられている洋服らを顎で指す。
「うるさいな」
「は? じゃあ、洗濯ぐらいすれば? 」
「私は余生を家事というワケの分からない無報酬の労働で無駄にしたくないの」
「余生って……年金貰ってる年寄りかよ」
「若いうちが華なの。あっという間に歳をとって、すぐに1日1日毎日何かを諦めて生きていかなきゃならなくなる、わかる? あんたもさ、若さを無駄にするんじゃないよ? 」
「ああ、そう」
「実央」
「なに」
「大好き、愛してる」
彼女は片手に札を握り、また実央の背中へ抱きついた。
「馬鹿かよ」
「照れちゃって」
「二十歳じゃないからな、まだ。普通、子供の歳を間違えるか? 」
「そうだっけ? 私は今何歳? 」
「34、俺を16で産んだんだろ」
「そうでした、やだ。私まだ34歳なのか。35だと思ってうっかり生きてたわぁ、やばっ」
「絶対に酒の飲み過ぎで脳がとけてる」
「ブッブッー、お酒で脳はとけましぇーん」
「え、とけんだよ? 」
「嘘だよその情報、どこら辺の説? 」
「嘘じゃないし」
彼女はそこでフッと意味深げに笑った。
「なんだよ」
「ねぇどうなってる? ほら、バイト先の、なんだっけ名前は……いい雰囲気らしいじゃん」
「何の話? 誰から吹き込まれてるわけ? その不思議話」
「ああ、ひなたちゃん、だっけ? うーんと、大学生の」
「違う、彼女とかじゃない」
「とかじゃないって、じゃあ、まだ友達ってことぉ? 」
「関係ないだろ、もういい加減にしろ」
「関係あるよ、実央は私に似て綺麗な顔してるし、背も高くてイケメンで、優しくて気が利くし……だから変な女にひっかかって欲しくないんだぁ」
「何言ってんの、誰も相手なんかしないよ? 俺なんか」
彼女は一瞬下を向き床へと視線を落としたが、何かを振り切るかのようにまたすぐに顔をあげた。
「ま、あんたも好きな人が出来ればね、変わるから」
「そんな面倒なのいらない。それに変わらないよ。そんな恋したくらいで人は」
どうかな、と母親は小さく微笑み実央の前髪に手を伸ばした。
「人生、変わっちゃうくらいの恋」
「……」
「……髪、そろそろ切ろうか。色も入れないと。もう根元が富士山になってる」
「いいよまだ」
「やだ、切ろう! 明日、店から薬剤持ってくるからさ。今度は何色にする? 」
「辞めたんだろ? 店」
「辞めたなんて言ってない。今、店長からの電話を待ってるの」
「なんだよそれ」
「シャワー行く」
彼女は軽く手を振り浴室の扉の向こうへ消えた。
ヤカンから蒸気が上がり、実央はコンロの火を止めた。
間もなく浴室から母親の鼻歌が聞こえてくる。
機嫌が良い時にいつも口ずさむ曲だが、古すぎて実央はその原曲を知らない。
薬が効いてきたからか、母親と話したからなのか、だいぶ気分が良くなった。
実央は上着を脱いでハンガーへかけると、パーカーの両袖を肘下まで引っ張り上げた。
「さてと、やるか」
実央は手始めに、リビングのテーブルの上を片付けた。
空き缶を集め菓子の袋やゴミを捨てる。
シンクに溜まった食器を洗い水切りカゴヘ並べた。
実央の左手の手首にケロイド状の傷あとがあった。それは手首から肩までの広い範囲に及ぶ。
幼い頃に巻き込まれた火災事故によるものだ。この傷あとを隠すためか実央は真夏でも半袖になることはない。
母親の適当な鼻歌に合わせて、実央もいつのまにかその曲を口ずさみ始めていた。
☆☆☆