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視線


 平日の午前八時過ぎ、新宿駅は駅としての機能を完全に失っていた。


 つい三十分前に起きた近隣駅での架線故障のためだ。


 通勤通学時間帯に重なった事故は、新宿駅だけではなく、首都圏各駅に多大な混乱を招いた。


 電光掲示板には遅延の文字が並び、人々は行き場を奪われ見ず知らずの他人と密着しあい、ひたすら待たされている。


 改札、階段、ホーム上、電車内、どこを見ても人で埋め尽くされ、文字通り足の踏み場もない。


 彼女もまた電車の中に閉じ込められていた。

乗っていた電車が急停止してからだいぶ時間が経っている。


 あと数百メートルで新宿駅というところで。


「ああ、ええ、只今、代々木駅付近で起きました、ああ、架線からの発煙をともなう火災が発生いたしました関係で……お急ぎのところ……」


 アナウンスを聞いた乗客たちは、静かにため息をつく。

早々に諦めた者が携帯で連絡を取り始めていた。


 彼女は扉に押し付けられながら外を見ていた。四方を他人に囲まれていないだけまだましだった。高校生なら電車の遅延などどうってことはない。


 むしろ一時限目は彼女の嫌いな体育の授業だったから、それがなくなるのなら多少の窮屈は我慢してもいいと思えた。


 ひとつ線路を挟んだその向こう側でも、停車している電車があり、その中も乗客はすし詰め状態で放置されている。


 こちらの状況とさして変わらない。


 その隣合う電車の中の人とふいに目があった。黒いパーカーを着てフードを目深にかぶっている若い人物。


 彼は彼女と同じように扉に張り付けられている。


 彼の視線が彼女から頭上へと移った。


 彼女もつられるように電車と電車との間から見える空を見上げた。


 架線に何かが絡まっていた。


 はじめ、破けたゴミ袋か何かだと思った。

それが風で揺れているのだろうと。


 けれど、よく見るとそれは生き物のように、架線に絡みながら移動していた。


 まるで、蛇かトカゲのように。


 細い胴体から短い突起が幾つも突き出ている。その突起が順序良く架線を掴み進む。背中には魚の背ビレのような、破れた蝶の羽のような、そんなものが付いていて、前進する度、旗のように気味悪く動く。


 ああ、またあれか。


 彼女はそれが架線の途中で消えてしまうまで、なんとなく目で追っていた。


 架線から赤い火花が飛び散ったかと思ったらそれは消えていた。


 いなくなった、彼女にはそれがわかった。


 架線から目を離し外を見ると、また隣り合う電車の中の彼と視線が合った。


「あれを見た?」

「あれが見える?」


 彼と彼女はおそらくお互いほとんど同時に、そういう問を視線だけで投げ合っていた。


「間もなく電車が動きます……」


 彼女の方の電車が先に動いた。


 二人の間の距離が遠ざかる。


「まさか、な」

「まさか、ね」


 またほぼ同時に思った。


 彼も彼女もお互いが見えなくなるまで視線を外すことはなかった。


 しかし結局はそのまま離れていくしかない。




 彼はいつもより2時間遅れて自分のアパートへ戻った。


 古く錆び付いた外の階段を静かに上がる。


 ドアノブの鍵穴に鍵を差し込んで、軽い手応えに小さくため息を吐く。


「ただいま」


 部屋の奥からテレビの音が漏れ聞こえる。


 昼の情報番組だろう。


「また鍵開けっ放し、危ないだろ」


 狭い玄関のたたきには、ヒールやスニーカーが何足も転がり重なりあっていた。


 彼は靴を揃え直すと、空いたスペースへ自分のスニーカーを脱ぎ部屋へ入った。


 入ってすぐ脇にあるシンクには使用済みのグラスや食器がそのまま放ってある。


 彼はガス台にのっている片手鍋の蓋を上げ中を覗いた。


 なかにはすっかり汁を吸い上げブヨブヨに伸びきったインスタントラーメンが入っていた。


 彼は鍋をどかし、ヤカンを置くとガスの火を点けた。


 音もなく燃える青い炎を見て、ふと今朝のことを思い出す。


「あれ」が消えるときに残した赤い光と火の粉、それを一緒に見ていただろう女子高校生の顔を。


 そこで彼は急に胸の苦しさに襲われた。


 暑いのか寒いのかわからない、自分の心臓の音がやけに大きく聞こえる。


 悪寒とともに、急激な吐き気がこみ上げてきて、急いでトイレへ駆け込み便器へ顔を近づける、が吐き気はあっても何も出てこない。


 思えば昨夜口にしたのは缶入りのコーンスープだけ。


 結局、胃酸が食道を通りすぎただけに終わる。


 落ち着いたかと思ったら、今度は両手が勝手に震えだして止まらなくなった。トイレから這い出て着ているパーカーのポケットから錠剤を探り当てると、それを口に入れ捻った蛇口から落ちる水で流し込む。


 苦痛の波が去るのをシンクの縁につかまりじっと待った。


「帰ったの?」


 ふいに背中から抱き付かれて、彼は息を整えるよう大きく息を吸った。


「うん」


「随分遅かったじゃない?」


 着ているTシャツが大きく細い右肩が露になっている。


「電車が止まってた」


「ふうん、そうなんだ」


「ニュースでやってなかった?」


「知らない、今起きたから」


「また飲んでた? 仕事は休み?」


 リビングの華奢な折り畳みテーブルの上にはアルミ缶が何本か立っていて、カーペットの上にも何本か転がっていた。


「もういい、あんなとこ」


「また辞めた?」



☆☆☆



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