美しいヨルの庭
美しい朝だ。
ヨルは診察室の両開きの窓を開け放った。
暑くも寒くもない、風もなく、緩やかな日差しが温かく心地が良い。
こんなに穏やかでさっぱりとした朝は、一年のうちでもそう滅多にありはしない。
庭の端にある瓢箪池の周りに白水仙が咲いている。
程なくして診察室は清々しく甘い香りで充たされた。
ヨルは黒いジャケットをコートかけに預け、代わりに三つ巴のベストの上に白衣を羽織った。
診療は作業がしやすいよう、人の像を取っていた。
真の姿は体長3m、黒い長毛に銀白色のブチ模様がある大山猫の妖である。
生まれは東北の人里離れた山奥で、妖のなかでも田舎出身、そのせいか性格は温厚でぼくとつとしている。
人像は高身長、長くすっきりした首に小さな頭、尖った顎のシャープな輪郭は猫由来の面影を写している。
トチの実色の前髪を目の上にさらりと落とし、20歳そこそこかと幼く見せているが、実年齢はゆうに百歳を越えていた。
雪のように白く透明な肌に深緋色の唇でアヒル口、大きな一重の切れ長の涼しい目元は髪の色と同じ、トチの実色である。
「ううーん」
ヨルは両手をそらに突き上げ軽く伸びる。
そしてクイックイッと左右へ腰を捻った。
それから北側の壁一面にあつらえた薬棚へ向かう。
たくさんある引き出しの中から迷わずにそこを開ける。
引き出しの全面の小表札には、朱色の、とだけ記してある。
そこから褐色の布巾着を取り出して、診察室の隅に置いた作業台へ赴くと、そこの回転椅子にあさく座った。
作業台の椅子からも50坪程の庭が見渡せる。
様々な植物が育つ庭は、四季折々でその景色を変えた。
今は緑は少なく、水仙の他に待雪草が凛と咲き、椿は紅色の固い蕾をつけ咲き頃を伺う。
ヨルは作業机に重ねて置いてある乳鉢をひとつとり、巾着の中身をそこへ落とした。
山梔子の実がふたつ白い鉢の中に転がる。
「ヨル先生、助手募集の張り紙は、こんなものでどうでしょうかね?」
庭を見ながら涼やかな顔でコーヒーを啜っているヨルに、白い毛むくじゃらの細長い生きものが声をかけた。
顔はカワウソのようで、からだつきはイタチのようである。
「ああ、もう寒い」
白い毛むくじゃらは手に持っていたA4の用紙を口に咥え、ひょいひょいとヨルの診察机に上り、両開きの硝子扉を両足と尻尾とを器用に使いパタリと閉じた。
ヨルは少し残念そうに閉じられた窓を作業台の椅子から眺めている。
「ヨル先生」
毛むくじゃらはそれから作業台の机へと駆け上がってきて、ついっと二本足で立ってヨルの前へ紙を掲げた。
ヨルは椅子をくるりと回転させ彼と向き合い、その紙に目をやる。
彼のからだはA4の用紙の後ろにほぼ隠れてしまい、小さな黒い手だけが見えていた。
「助手求ム、年齢経験問ハズ、住ミ込ミ可、ヨル診療所」
ヨルが読もうとする前に、彼が声高に読み上げたので、ヨルの口は少しだけ開いたまま止まった。
紙の向こうから、彼がひょっこりと顔を覗かせた。丸く艶々とした黒い瞳でヨルを見ている。
ヨルは毛筆で書かれたそれと、彼の大きな丸い目を交互に見比べ、
「達筆……」
「上手でしょう? 尻尾の捌きにはちょいと自信があるんですよ」
達筆だな、と言おうとしたヨルの口はまた中途半端に開いたまま。
「どこに貼りましょう。玄関扉ですか? それとも壁の方が良いですか? 」
「まかせるよ」
「そうですか、それでは今すぐ貼り付けて参ります」
「ありがとう、よろしく頼みます」
彼は大きな口で紙を咥え、ひょいっと床へ飛びおりた。
そして飴色の古い板張りの床を滑るように進み、診察室の引き戸と壁とのほんの数センチの隙間から抜け出ていった。
「忙しない」
ヨルは誰に言うでもなく独り呟き、またコーヒーを啜り庭の趣を楽しむ。
作業台の乳鉢の中では綺麗な黄朱色の粉薬が出来ていた。
「本当に良い朝だ」
梅の木に小さな訪問者が舞い降りた。枝に挿した蜜柑の実をついばみに来たのだ。
小鳥は1羽、また1羽とやってきて橙色の果実を夢中でつつく。
その様子を見て、ヨルは微笑む。
「おはよう、小さいつばさの子たち」
☆☆☆