第九話 逆鱗に触れる ①
捕らわれの身となったラケシスは、拉致された同胞らと同じ潜水艦へ乗せられるや、何の飾りっけもない殺風景な個室に監禁されてしまった。
唯一の出入り口には監視者がついていた所為もあり、他の同胞らとは言葉を交わせなかったが、彼女たちが売買目的で拉致されたのは明らかだろう。
他種族の美女を金で買って隷属させる悪趣味な人間が存在するとの話は聞いてはいたが、まさか、同族までもが餌食になっているとは思いもしなかった。
小なりとは言え、アリエーテ族も魚人族のコミュニティに属しており、零細部族であるが故に発言権はなくとも、拠り所としているタウロ族主催の会合には欠かさずに出席しているのだから、それらしい話が耳に入らない筈はないのだが……。
(少なくとも行方不明者の話など聞いた事もないし、お母様や長老達も何も知らなかったわ……じゃあ、あの娘たちは何処から連れて来られたというの?)
疑問が深まるにつれて困惑は増すばかりだが、彼女たちがメトゥス王子の愛妾の成れの果てだとは、今のラケシスには到底思い至れる事ではなかった。
そして何よりも懸念すべきは、他者の心配をしている余裕は彼女にもないという残酷な現実に他ならない。
(あの娘たちと一緒に私も売られてしまうのかしら……)
そんな不安に胸を締め付けられるが、捕らわれの身で監視までつけられてしまっては、非力な彼女には為す術がないのも確かだ。
万策尽き果てたラケシスは倒れ込むようにして粗末なソファーに腰を下ろすと、暗夜の如き未来を思って怯えるしかなかったのである。
◇◆◇◆◇
監禁されていたのは、そう長い時間ではなかった。
閉じ込められていた小部屋に時計の類はなかったが、大型船から小型のランチへ移乗する際に夜空に輝くアンヘルルーナが天頂を過ぎた辺りにあった事を思えば、移動に費やされたのは精々四~五時間ほどだとラケシスは判断した。
(それでも、船足を考えれば結構な距離を移動した筈……)
だが、その先は目隠しをされてしまい、何処へ連れていかれるのかさえ分からない状況の中、ラケシスは懸命に恐怖に耐えるしかなかったのである。
そして、目隠しを外された彼女が目にしたのは、ゴツゴツとした岩肌に囲まれているだけの見覚えのない光景だった。
だが、頑丈そうな鉄格子付によって外界と阻まれているのを見れば、ここが罪人か何かを押し込めておく岩牢の類だと直ぐに察しがついた。
ただ、他の一般的な牢獄と違うのは、鉄格子の向こうに広がるのが慣れ親しんだ海洋であるという点だろうか。
未だに世界は闇に閉ざされてはいるが、微かな光を反射する海面のさざ波と潮の香りをラケシスが間違えるはずもない。
すると此処は建物の中ではなく、他者の目に触れさせたくはない罪人を収監する為に、敢えて岸壁沿いに設えられたものではないか……。
そんな思案が脳裏を過るが、間断なく襲い来る恐怖に苛まれる中では不安ばかりが募ってしまう。
そして、それは現実のものとなり、彼女は絶望の闇へと突き落されるのだった。
※※※
どれほどの時間が経過したのかはラケシスにも分からない。
だが、鉄格子越しに見える水平線が白み始めた頃になって漸く事態が動いた。
突如として頭上から重い扉が開かれる音がしたかと思えば、それに続いて複数の者達が石畳を踏む反響音が岩牢にまで届いて来る。
暗くて気付かなかったが、海洋に面して開けた入江以外にも出入口はあったようで、いよいよ残酷な結末が我が身に及ぶのだと確信したラケシスは、まるで生きた心地がしなかった。
しかし、その足音の主らの正体を知った瞬間、絶望の中に一筋の光明を見つけた気がした彼女は、その華奢な身体を歓喜に震わせる。
「お、王子……さま? メトゥス王子様ッ!」
その声に歓声に安堵の思いが入り混じったのも当然だろう。
目の前に現れたのは彼女自身が側妃として嫁ぐべき相手であり、三氏族筆頭でもあるタウロ族次期後継者のメトゥス王子に他ならなかったからだ。
譬え、意に沿わぬ婚姻相手として内心では忌み嫌ってはいても、魚人族を束ねる王族の一員である彼がこの窮状を看過する筈がない、そうラケシスは信じて疑ってはいなかったのである。
そして、王子の背後に控えている屈強な衛士らの雄姿を見れば、今も囚われた儘の同胞らの救助は成ったも同然だと歓喜せずにはいられなかったのだ。
だが、その淡い期待は、いとも簡単に打ち砕かれてしまう。
「どうかお助け下さいッ! 私はアリエーテ族のラケシスです! 密猟団の一味に捕らわれて此処に閉じ込められておりましたっ! 私だけではありません。多くの同胞が悪辣な人間達に拉致されて売り払われようとしているのですッ! どうか、メトゥス様の御威光を以て悪漢共を御成敗下さいませッ!」
鉄格子へと駆け寄るや眦を決して必死に嘆願したが、彼女を見下ろすメトゥスは、冷淡な声音で信じられない台詞を口にしてラケシスを愕然とさせるのだった。
「ふん! 余計なものを見なければ、我が慰み者として一刻の栄華を堪能できたであろうに……だが、秘密を知られたからには生かしてはおけぬ。他の愛妾らの様に記憶を消すのも厄介だ。ならば、せめてもの奉公として海神様の供物にでもなって貰おうか?」
その顔に浮かぶ醜悪で嗜虐的な笑みには身震いするしかないが、その恐怖以上にラケシスは激しい憤りを覚えずにはいられなかった。
「ま、まさか……まさかっ、この卑劣な誘拐事件の黒幕は貴方自身なのですか! 記憶を消すって……あの囚われの同胞たちは貴方の愛妾だったのね!? 散々献身を捧げてくれた側妃を人間に売り払うなんてッ! それでも貴方は栄えある三氏族の後継者なのですかッ! 恥を知りなさいッ!!」
生贄にすると告げられた己の末路に恐怖しなかったと言えば嘘になるだろう。
だが、それ以上にメトゥスの非道な所業に対する怒りが勝ったラケシスは、気が付けば声を荒げて詰っていた。
だが、そんな彼女の怒りを嘲笑うかの様にメトゥスは毒づく。
「言いよるわ! 相当なジャジャ馬だとの噂は真だったか……ふん、ならば最後のチャンスをやろう。その目で見た事は全て忘れて我の愛妾になれ。言っておくが、既に貴様の一族も捕獲する様に命じている。断ればどうなるか分かっているな? どうする、ラケシス?」
「卑怯者ぉぉ──ッ! 私の家族に手を出したら絶対に許さないからぁッ!」
その屈辱的な最後通牒に激昂して目を剥いたラケシスは、反射的に鉄柵の隙間から両手を突き出して憎みても余りある男の胸倉を掴もうとしたが、それは傍に控えていた衛士が繰り出した槍の一突きによって阻まれてしまう。
「ぐうぅぅッ! げほっ、げほっ!」
固い石突の部分で強く腹部を打ち据えられたラケシスは、石畳に突っ伏して悶絶するしかなかった。
そんな彼女を冷めた視線で一瞥したメトゥスは、軽く舌を弾いてから踵を返す。
「損得勘定もできない小娘の分際で思い上がりおって……我が温情を無にした無礼は、その命を以て贖って貰うぞ! さっさとその娘を祭壇へと連れていけ! 急ぎ神官長を呼び出して祭祀の準備をさせるのだッ!」
その嫌悪感しか懐けない言葉が足音と共に遠ざかっていく。
その耳につく忌々しい物言いが腹立たしくて仕方がないが、この窮地を切り抜ける術も、巻き添えになる母親や一族の者達を救う力も今のラケシスにはなかった。
だから、屈強な衛士らに引き起こされたラケシスは、絶望と後悔の狭間で非力な己を責めながら、愛する母親へ詫びるしかなかったのである。
(お母様……ごめんなさい……私の所為で……本当にごめんなさいッ!)
有無も言わせぬ力で引き摺られていくラケシスの頬を幾つもの涙が伝い落ちては石畳の床を濡らすのだった。