第六話 囚われの人魚姫
結局、ラケシスを見つける事はできなかった。
どうやら、あの後すぐに海へ入ったらしく、如何に嗅覚が優れている竜種とはいえ、水の中へ逃れられてはお手上げだ。
彼女の行き先に心当たりはないし、そもそもが周辺の地理にも詳しくはない。
早々に行き詰ったティグルは、腹立たしい想いを抱えながらも、捜索を断念するしかなかった。
(何で全てを諦めて望まぬ道を選ぶんだよ……銀河系は広いんだ。自分らしく生きていける場所なんか幾らでもあるっていうのに……)
胸の中に蟠っている腹立たしさの原因は、ティグルが育んで来た価値観に因るところが大きいのだが、なんの柵もない立場で自由に生き方を選択できる彼と、狭いコミュニティの中で様々な制約に縛られて生きて来たラケシスとでは、選択するべきものの優先順位が異なるのは仕方がない事だと言える。
ただ、まだ若いティグルには、そこまで思い至れないだけなのだ。
とは言え、この場に留まって無為に時間を浪費する訳にもいかない。
養父からの依頼は急を要する案件だし、これ以上の被害者が出る前に真相を究明して解決する必要がある。
また、ティグルに対する島民たちの反応も決して好意的だとはいえず、残留しても事態の進展は期待できないと判断せざるを得なかった。
ならば、三氏族の本拠地へ赴いて情報収集をした方が効率的だと考えたティグルは、喫緊の課題を解決するべく行動を開始したのである。
「仕方がねえ……ラケシスの事は後回しにするしかないな」
まるで自分自身に言い聞かせるかの様に呟いたティグルは、族長であるラケシスの母親に挨拶だけはしておこうと思い、黎明の光の中を歩きだすのだった。
◇◆◇◆◇
眼下に見える海原は波も穏やかで、朝の陽光を浴びてキラキラと輝いている。
竜形態に変化したティグルは、タウロ族の支配地である海皇島を目指していた。
とは言え、成竜体への変化が可能になるには数十年の時が必要な為、代わり映えしない幼竜体が精々なのだが、それでも自前の翼で空を飛べば、用意して貰った船でチンタラと洋上を往くよりは大幅に時間を短縮できた。
そんなティグルの細い首には、陽光を反射する装飾品が風に棚引いている。
この首に巻かれている真紅の宝石付のアイテムは、お洒落の為のアイテムではなく、彼の命綱といっても過言ではない代物だ。
強大な神竜の力が暴走しない様に制御しながらも、生命体として未熟な彼の成長をサポートする護符の様なものであり、複数の変化パターンにも対応可能で、各種衣服の着脱と収納まで兼ね備えた優れものである。
お陰で長時間に亘る人型への変化も苦にならなくなり、開発者である変人マッドサイエンティストには感謝しかなかった。
とは言うものの、何時もならば雄大な風景に心を奪われて鼻歌の一つもでる所だが、そんな心地よさを満喫する余裕は今のティグルには微塵もなく、内心では絶えず憤懣が渦巻いている有り様だった。
そして、その矛先を向けている対象は知り合ったばかりの人魚姫に他ならない。
(族長のレイナさんも行き先を知らないなんて……あのじゃじゃ馬めっ!)
世話になった御礼と別れの挨拶の為に面会したラケシスの母親でもあるレイナはひどく憔悴していたが、無一文のティグルのために僅かばかりの金銭と、海皇島へ入島する為の割符まで用意してくれた。
その気遣いと物腰の柔らかい為人は養母に通じるものがあり、その好意に感じ入ったティグルは心からの謝意を伝えたのである。
その上で幾つかの質問をぶつけてみたのだが、彼女が話してくれた内容は、彼を苛立たせるに充分なものだった。
『側妃となれば籠の鳥と同じ……今生では二度と会う事は叶いません……』
そう言って涙ぐんだレイナの痛々しい姿が脳裏に焼き付いている。
『婚姻の話は断ってもいい』と何度も愛娘を説得したが、飽くまでも部族の安寧を優先させるべきだと主張して譲らないラケシスは、母親の言にも首を縦には振らなかったらしい。
(娘を犠牲にして得た幸せを喜ぶ母親が居る筈がないだろうがっ! 世間知らずの小娘のくせに生意気な事ばかり言いやがって! 今度会ったら、みっちり説教してやるッ!)
そう息巻くティグルだが、本当に腹を立てている相手は、支配者階級を気取って好き放題している三氏族なる愚物共に他ならなかった。
(側妃とは名ばかりの愛人っていうのも巫山戯ているが、婚姻して後宮入りしたら里とも縁を切られ、死ぬまで外出も許されなくなるなんて正気の沙汰じゃねえだろうが! 今時こんな化石の様な馬鹿共がのさばっているなんて信じられねえよ)
話しを聞けば聞くほど憤りは増すばかりだが、ラケシスの婚姻の儀が執り行われるのは早くても三日後だ。
もう一度彼女を説得して決意を翻意させる為にも、今は目先の問題を片付けなければならない。
(兎に角、急いで情報収集をしなきゃな……魚人族へ接触する為の申請を政庁府でした途端にミサイル攻撃を喰らったんだ。俺を自由にさせては都合の悪い人間がいるのは間違いない。政庁府の中の個人か、それとも組織ぐるみか……三氏族の拠点に居るというキャラバンを探るのが手っ取り早いか……)
そう思案したティグルは速度を上げるべく強く両翼を羽ばたかせるのだった。
◇◆◇◆◇
(あいつ……もう海皇島へ着いた頃かしら……)
追い縋って来たティグルを振り切ったラケシスは、隠れ家の岩礁へと逃げ込んで身を潜めていた。
タウロ族の拠点である海皇島行きの定期船は昼前には出港し、陽が暮れる頃には到着する筈だから、此処に隠れていれば二度と顔を会わさずに済む。
(その方がお互いの為だわ。彼は行きずりの旅人でしかない……私とは住んでいる世界が違い過ぎるのだから……)
そう自分自身に言い聞かせるが、虚しさばかりが募って心は重くなるばかりだ。
『俺が何とかしてやる!』
面と向かってそう言われた時は確かに心が震えたし、その時にティグルに掴まれた二の腕には、今も彼の掌の温もりが残っているかの様な気さえする。
その事が何を意味し、彼女の心にどんな変化を齎したのか、ラケシス自身も気付いてはいた。
とは言え、それが異性への恋慕の情だと朧気ながら理解してはいても、夢にまで見た初恋の相手が他種族の人間だったという現実が信じられず、戸惑いは気恥しさへと変化してしまう。
(信じられないわ……最初は生意気なチビで本当に嫌な奴だと思ったのに、話してみれば、明るくて心根の真っ直ぐな優しい人だった……)
瞳を輝かせて熱く冒険譚を語るティグルは、ラケシスの周囲ではお目に掛かれないタイプの異性であり、だからこそ、その印象は強烈だった。
数多の魚人族の中でもアリエーテ族は極々小さな集団であり、ラケシスの父でもある前族長が不慮の事故で他界してからは、益々その威勢を減じている。
拠点としている島の周囲は海流も早く、海からの幸を得るのにも苦労させられる辺境だし、獰猛な大型の海生類が多く生息する海域も近く、魚人族の主流派からは完全に見捨てられた存在でしかなかった。
そんな部族の将来を悲観する若者達の中には、立身出世や一攫千金を夢見て島を捨てる者が後を絶たず、必然的に若年層の恋愛事情はお寒い状況を呈している。
同年代の仲間達の上昇志向を否定する気はないが、いとも容易く故郷を捨てていく彼らに対して忸怩たる思いを懐いていたのも事実だ。
だからこそ、自己勝手だと批判されがちな冒険者でありながら、その根底に家族の存在を据えて大切にしているティグルに好意以上の感情を覚えたのは、寧ろ必然だったのかもしれない。
しかし、王族の後継者に見初められたラケシスが、他種族の人間相手に恋慕の情を懐くなど到底許される事ではないのだ。
(全ては束の間の夢に過ぎないわ……お母様や部族の皆を捨てて出ていくことなんか、私にはできないもの……)
鬱々とした悲しみに耐えるしかないラケシスは、隠れ家の岩礁に腰を下ろした儘ただ漫然と水平線を眺めて時間の経過に身を委ねるのだった。
※※※
ふと気づけば水平線と空の境目が残照に染まっており、周囲には急速に闇の気配が忍び寄って来ていた。
(いけない……随分と長い時間ぼんやりしていたみたいね……)
この時間になればティグルも出立しているだろうし、母親を始め部族の大人達をこれ以上心配させるわけにもいかない。
(急いで戻って、お母様を安心させなきゃ……)
そう自分に言い聞かせたラケシスは、夜気で冷えた身体を煩わしく思いながらも海へ入ろうとしたのだが、視界の隅っこで何かが光った気がして足を止めた。
両の瞳を凝らして周囲を窺うが、漆黒の絵の具に塗りつぶされつつある世界からは、何の変化も感じ取れない。
しかし、錯覚だったかと思い溜め息を零した瞬間、再び闇の中で光が明滅した。
(こんな場所に人間の船が居るの? 定期航路からは大きく外れているのに?)
ラケシスが疑問に思ったのも無理はないだろう。
魚人社会へ様々な物資を齎してくれる人間のキャラバンは三氏族との専属契約者ばかりであり、こんな辺境の海域を訪れる理由も必要もない筈だ。
条約で禁止されている海底遺跡での盗掘という可能性は否定できないが、彼女が知る限り、それらしき遺跡はこの辺境地には存在しない。
(おかしいわ……何故こんな辺鄙な場所で……然も、闇に紛れてだなんて……)
赤と青の光が交互に明滅する光景にある種の胡散臭さを感じたラケシスは、事の真偽を確かめるべく海中に潜って接近を試みた。
直ぐに視界の先に喫水線下の船体を捉えた彼女は、近づきすぎては万が一の時に危険だと判断し、少し手前で海面へと浮上して顔だけを覗かせる。
(何をしているの? 接舷しているランチから何かを吊り上げているわ)
星明りしかない闇の中で蠢く影がひどく不気味なものに思え、その得体の知れない不安に思わず身震いしてしまう。
だが、その悪寒の正体は直ぐに分かった。
クレーンらしき機械で小舟から積み替えようとしているものは鉄柵で設えられた檻であり、その中に囚われているのが同族の女性達だと気付いたラケシスは、この船の目的を察して激しい嫌悪感を覚えずにはいられなかった。
(人買い目的の密猟団……よりにもよって、私の同胞を狙うなんて!)
魚人族の世界は広い様でいて実は狭いものだ。
所詮は、このエレンシアと呼ばれる惑星の限定された地域で生きている少数民族でしかないのだから、他の部族との情報共有も密にされている。
しかし、これまでに同胞が拉致された等という話は聞いた事もなく、三氏族からも特別な注意喚起が為されたという覚えもない。
そんな事実があれば、族長の娘であるラケシスの耳に入らない筈がないし、第一に三氏族お抱えの騎士団が黙ってはいないだろう。
それでも、目の前で連れ去られようとしている同胞らの災難は現実のものだし、これまでにも同様の悲劇が繰り返されていたのだとしたら……。
そう考えるだけで、ラケシスは腸が煮えくり返る思いだった。
だが、譬え目の前で行われ様としている蛮行が初めての事案であったとしても、正義感が強いラケシスに見て見ぬふりをするという選択肢はない。
(一刻も早く島に戻らなければならないわ。三氏族筆頭のタウロ族へ通報すれば、屈強な衛士隊を派遣してくれる……同胞が連れ去られる前に何とか……)
だが、そう決意した時は既に手遅れだった。
大型船に装備された探照灯に突然光源が灯ったかと思えば、そこから伸びた眩いばかりの斜光に捉えられてしまう。
(いけないッ! 逃げなきゃ!)
慌てて海中に潜ろうとしたラケシスだったが、頭上から襲い来た投網に絡め捕られて自由を奪われてしまった。
何とか逃れようと藻掻くも、網は絡まるばかりで如何ともし難い。
数隻のボートに囲まれた彼女は、抵抗も空しく囚われの身となるしかなかったのである。
「私に触らないでッ! 誰か助けてッ! ティグル! ティグルぅ──ッ!」
下卑た男達に乱暴に船上に引き上げられた無力な人魚姫に許されたのは、二度と再会は叶わないと諦めた筈の人間の名を叫ぶ事だけだった。