第五話 それぞれの葛藤 ②
「羨ましいわ……私も、あなたみたいに他の星々へ行ってみたかったな」
その何処か切なげなラケシスの物言いは、それまでの快活な彼女のイメージとは大きく乖離したものであり、ティグルを困惑させるには充分なものだった。
「何だよ? まるで人生が終わったみたいな事を言うなよ。その気になれば何処にだって行けるさ! 何だったら、俺が案内してやってもいいぜ?」
わざと声を弾ませて誘ってみたが、寂しげに微笑むラケシスは左右に顔を振るばかりで、とんと要領を得ない。
すると、戸惑うティグルに微笑みかけた人魚姫がポツリと呟いた。
「私さ……もうすぐ結婚するのよ。相手は三氏族筆頭タウロ族の王子……」
不意打ち同然に告白された内容に理解が追い付かず、惚けるしかないティグル。
そんな彼の様子が可笑しくて、ラケシスは含み笑いを漏らしてしまう。
(自由人の彼を羨んでも私自身が惨めになるだけだし、知り合ったばかりの人間に情けない姿を見せたくはないじゃない……)
それが唯の空威張りでしかないのは自覚しているが、初対面の相手に無様な姿を見せる訳にもいかず、精一杯の虚勢を張るしかなかった。
「凄いでしょう? 玉の輿よ、玉の輿! 王子様は百歳を超えているけど、私達の長い寿命を考えればまだボンボンの内だし、区切り良く八十番目の妻っていうのも運命的で良いかなぁ~~とか思うし……」
明るく振る舞おうとすればするほど、口から吐き出される己の言葉に腹立たしさばかりが募る。
どうして自分が……。
そんな憤りは確かにあるし、一方的な婚姻話を強要して来た相手への嫌悪の情が胸の中で渦巻いているのも事実だ。
しかし、どんなに理不尽だと嘆いても、この申し出を断るという選択肢が自分にはないのも、分かり過ぎるぐらいに分かっている。
それなのに、同族でもない赤の他人に、然も出会ったばかりの人間に、己が置かれている境遇をべらべらと喋っている自分が信じられなかった。
(これじゃあ、まるで言い訳をしているみたいじゃないのよ……みっともない)
得体の知れない焦燥感にラケシス自身も戸惑うしかなかったが、ある事に気付いた彼女は更なる困惑に見舞われてしまう。
(もしも、ティグルの口から祝いの言葉を聞かされたりしたら……どうしよう)
そう思い至った瞬間、止まらない胸の痛みが重みを増した様な気がしたラケシスは、憂いを帯びた表情を更に切なげなものへと変える。
だが、そんな彼女を打ち据えたのは、憤りを含んだ強い言葉だった。
「そんな巫山戯た話を承諾したのか!? 魚人族は長命種だから年齢は兎も角としても、八十番目? 馬鹿じゃねえのか、おまえ!? そんな結婚で幸せになれると本気で思っているのかよ!?」
ティグルの剣幕に驚いて怯むラケシスだったが、その罵倒するかの様な物言いによって、想いを押し留めていた心の堤防が打ち壊されてしまう。
その瞬間、激しい憤りに心を揺さぶられた人魚姫は、ずっと胸に秘めていた本音を怒りと共に吐き出すのだった。
「私の意志なんか関係ないのよ! お母様や長老たちは断っても構わないって言ってくれたけれど、断れる訳がないじゃない! 相手は三氏族の筆頭で王族なのよ。愛妾入りを拒めば一族が冷遇されるのが目に見えているわ。獰猛な大型の海生類も存在するこの海洋で孤立すれば、うちの様な小さな部族は生きていけないわ!」
三氏族と呼ばれる者達が多くの伴侶を得ているのは珍しい事ではなく、タウロ族だけが特別という訳ではない。
そして、彼らの伴侶として娘や息子を差し出せば、それ以降は王家の縁者として相応の恩恵に与れるのだから、三氏族との婚姻は何にも勝る栄誉だと考える族長らが多いのも事実だ。
ラケシスが漏らした通り、求婚さえ受け入れれば一族の強者で構成された騎士団からの庇護は得られるし、三氏族の支配域に近い条件の良い場所へと部族の領地が移されるのも珍しい事ではなかった。
然も、人間との交易も彼らが独占しており、その縁者には他の部族よりも有利な割り当てが為されるものだから、恩恵に与りたいが故に、我が子を差し出す部族が後を絶たないのが現実なのだ。
だからこそ、それだけの厚遇が与えられるにも拘わらず申し出を蹴れば、王族の面子を潰した当事者と、その一族を待ち受ける末路が如何に悲惨なものになるかは想像に難くない。
母を始め部族の繁栄を願えばこそ、ラケシスも婚姻の申し出を承諾したのだが、胸の中に蟠る嫌悪感は日を追う毎に膨らむばかり。
挙句の果てに知り合ったばかりの相手に、未練がましくも苦しい心情を吐露しているのだから、本当に無様だとラケシスは自らを嘲笑するしかなかった。
(本当にみっともない……こんな私じゃ呆れられても仕方がないわね……)
そんな諦念に胸を締め付けられた時だ。
「馬鹿野郎ッ!」
唐突に二の腕辺りを掴まれて驚いたラケシスが顔を上げてみれば、ひどく真剣なティグルの顔が間近にあった。
「そんな事は関係ないだろうがっ! 大切なのはおまえの気持ちだろう? 嫌なら嫌だとハッキリ言えよ。俺が何とかしてやるから!」
若さ故の戯言だと呆れて嗤うべきだったかもしれないが、その言葉には心を震わせるだけの想いが滲んでおり、ラケシスは陶然として言葉を失くしてしまう。
何時もならば、『同情はいらない』と意地を張っていただろう。
だが、そんな虚勢を張れるほどの余裕は今のラケシスには残されておらず、譬え一刻の慰めだったとしても、ティグルが示してくれた純粋な好意に甘える事ができたならば……。
そんな心地よくも甘美な想いに、ほんの一瞬とはいえ心を奪われるのだった。
しかし……。
(やっぱり無理よ……私のゴタゴタに、無関係のこの人を巻き込む訳にはいかないじゃない……でも、ありがとう、ティグル。あなたの言葉……嬉しかったよ)
どう足掻いても運命からは逃れられないのならば、私は私のできる事で一族の安寧を勝ち取ろう……。
そう自分自身に言い聞かせてたラケシスは、そっとティグルの胸を押し返すや、やせ我慢しているのを悟られないよう精一杯の笑顔を取り繕って見せた。
おまけに彼女の頬には両の眼から溢れた涙が雫となって伝い落ちており、それを目の当たりにして気勢を削がたティグルは、次の言葉を躊躇せざるを得ない。
「プータローが生意気だぞ……そんなカッコいい台詞は、私よりも背が高くなってから言って欲しかったな」
「おいっ! 巫山戯るなよ! 俺はっ!」
揶揄われたと勘違いし声を荒げたが、その衝動は頬に落とされた口づけによって遮られてしまう。
茫然として立ち尽くすティグルの視線と名残惜し気なラケシスの視線が一瞬だけ交錯したが、身体を離し後退る彼女は惜別の情を押し殺して微笑むのだった。
「ありがとう……これで充分だよ。明日タウロ族の本拠地がある島へ物資の輸送船が出るから、それに乗船できるよう手配してあるわ。そこには人間のキャラバンが来ている筈だから、北部大陸の都市まで連れて行って貰うといいよ!」
それだけ告げたラケシスは、ティグルの返事を待たずに踵を返すや、未練を断ち切るかの様に夜の帳が下りた闇の中へと飛び出す。
「あっ!? おいっ! 待てよッ!」
漸く再起動したティグルは直ぐに後を追ったが、戸外には既に彼女の姿は見当たらず、静謐な闇だけが何事もなかったかの様に横たわるのみだった。
「何だよ……馬鹿野郎……涙を見ちまったら放っとけないだろうが……」
思わず口を衝いて出た言葉が夜風に溶けて消えていく。
自分でも理解できない苛立ちが胸の中で蜷局を巻いているかのようだ。
そんな正体不明の感情を持て余しながらも、まずはラケシスを見つけるのが先だと思ったティグルは、微かに残された彼女の香りを頼りに闇の中へと駆け出すのだった。