第三話 嫌な奴
(そんな悲しそうな顔をしないでくれよ、ママさん。俺まで切なくなるからさ)
何時もは笑顔を絶やさない養母が、ひどく切ない表情で自分を見ている事があるのにティグルは気付いていた。
そして、彼女が何を不安視しているのか、その理由も朧気ながら察してはいたのだが、敢えて話題にはしないでいる。
(何を心配しているのか、何となく分かるけどさ……大丈夫だよ、ママさん)
だから、そう胸の中で呟くに止め、素知らぬ顔をするのが常だった。
だが、今日の養母は何故か執拗で、おまけに物言いまでもが何時もとは違うものだから、ティグルとしては面喰らわざるを得ない。
「ねえ、大丈夫? どこか痛くない?」
「おっかしいわねぇ……お~~い! 聞こえている? 坊や、坊やったら!」
「もうっ! 目が半分開いているのに何で返事しないのよ!?」
(あれ? 何か変じゃね?)
そう気付いた途端に耳に飛び込んで来る音声が次第に明瞭になり、それに伴ってぼやけていた視界が焦点を取り戻していく。
(金髪に青い瞳……ママさんか? いや、違う……誰だこいつ?)
何となく面影は似ているが、美人系の養母と比べれば、視界の中の見知らぬ女性はチャーミングと評するのが相応しい、まだあどけなさを残す少女だ。
だが、上半身はチューブトップのインナーに半透明の薄い単衣を纏っているのみで、おまけに下半身は二枚重ねとはいえ、薄い腰布が巻かれているのみのセクシーな姿なのだから、肌を晒すのを好まない養母とは別人だと何となく理解できた。
だが、彼是と考えた所為か、ぼんやりとしていた思考が徐々にクリアーになり、正気を取り戻す一助にはなった様で……。
(あれ? 俺は何故こんな所で寝てるんだ? 然も、さっきから無性に腹が立つんだが……)
ひどく身体が重く感じるし、上手く考えが纏まらないのがじれったい。
だが、その少女が何を言っているのか理解した途端にティグルは覚醒した。
「ねえ? 坊やっ! 意識はあるのかな? ねえ、坊やったらぁ!?」
「誰が〝坊や″だよッ! 失礼な事を言うなあぁぁ──ッ!!」
「きゃあぁぁ──ッ!!」
『坊や』呼ばわりされて気色ばむティグルが上半身を跳ね起こして吠えたものだから、不意を衝かれたラケシスは素っ頓狂な悲鳴を上げて後退ってしまう。
その一方で怒りが収まらないティグルは容赦ない追撃を浴びせた。
「黙って聞いていれば、〝坊や″〝坊や″と子供扱いしやがって! その顔に付いている眼は節穴なのか? 俺は子供じゃないッ! 二十歳の立派な大人だぁッ!」
まさに頭の天辺から湯気を噴き出さんばかりの勢いで罵倒されれば、年頃の少女ならば委縮して怯えるのが普通だろう。
しかし、母親や部族の大人たちの彼女に対する評価は、『せっかく可愛い顔立ちなのに、少々お転婆な所がねぇ……』という残念なもので共通している。
となれば、理不尽な罵声に対して泣き寝入りなどする筈もなく……。
「はあ? 私よりも背が低いくせに二十歳? 冗談でしょう? どんなに贔屓目に見ても十五歳ぐらいにしか見えないわよッ!」
柳眉を釣り上げて猛然と反論するラケシスの剣幕に、今度はティグルが仰け反る番だった。
もう、そこからは売り言葉に買い言葉の熱いバトルが続く。
「十五歳? 眼科に行って治療してもらったらどうだ? 視力が無いに等しいと、好い男が目の前を通っても気付けないから損するぞ?」
「余計な御世話よ! これでも部族イチ目が良いんだから何の問題もないわッ! 大体ね、アンタの言い種だと、まるで自分が好い男だと言ってる様に聞こえるんだけれど、寝言は寝て言いなさいッ! 見たまんまの〝お子ちゃま″じゃないのよ!」
「なにお──ッ! ガキなのはそっちだろう! 本当の男の魅力が分からないのは人生経験が不足している証拠じゃん! ガキから〝お子ちゃま″呼ばわりされるなんて、今日は人生最悪の日だぜ!」
「失礼な奴ねっ! 私の様な美人にその言い種は何よ? 他人を貶めても、自分の身長が伸びる訳じゃないんだからねっ! そんな事も弁えないから〝お子ちゃま″だって言われるのよッ!」
「美人~? オカチメンコの間違いじゃないのか? 何度も言うが〝お子ちゃま″はやめろ! これでも俺は冒険家なんだ! 不愉快だぜ!」
「はあ!? そうか! 冒険家だったんだ! 粗野で下品でサイッテー! 冒険家なんて職業じゃないわ! 唯のプーターローじゃないのッ!」
もはや双方共に引くに引けなくなり、当然ながら相手への心象は悪くなる一方で、鼻息を荒くするティグルとラケシスの睨み合いはヒートアップするばかりだ。
(何だ、こいつ!? 見た目は可愛いらしいのに、とんだじゃじゃ馬だぜ)
(何よ、このガサツなガキは!? 見た目も中身も、まんま子供じゃないっ!)
しかし、その状況でラケシスが放った一言がティグルの胸に突き刺さる。
「本当に最低ッ! 飛行機が墜ちたから慌てて助けに行ったのに……こんな不愉快な思いをするのなら、知らんぷりをしておけば良かったわ!」
如何にも腹に据えかねたという風情の言葉だったが、混濁している記憶が覚醒するには充分すぎるものだった。
(そうか……操縦していたチャーター機が撃ち墜とされたんだ……警報が鳴ったのだから、あれが対空ミサイルの類だったのは間違いない……魚人族が潜水艦を持っているなんて聞いた事もないぞ……だったら、相手は人間か?)
今に至る経緯を察したティグルは、次々と浮かぶ疑問に意識を取られてしまい、目の前の少女の存在すら失念してしまう。
しかし、急に黙り込んで何かを考え出した相手の変化に戸惑うラケシスは、このままでは埒が明かないと思い自ら話し掛けた。
「ねえ? 何か言い返しなさいよ……黙り込まれたら却って気味が悪いじゃない」
恐る恐るといった感じの問い掛けによって我に返ったティグルは、漸く、自分の身に何があったのか思い至る。
(海に沈んだ俺を助けてくれたのが、この娘なのか……)
木製ベッドの上に上半身を起こしている状況を鑑みれば、目の前の少女は間違いなく命の恩人なのだろう。
その生意気な物言いには腹も立つが、礼を失していたのが自分の方だと気付けば、何時までも虚勢を張り続けるのは流石に後ろめたい。
『自分が悪いと気付いたら、素直に謝りなさい』
そんな養母の叱責に耳を打たれた気がしたティグルは、居住まいを正して殊勝な面持ちで頭を下げた。
「失礼な事を言って悪かったよ……危ない所を助けてくれてありがとう」
その突然の変化を訝しむラケシスだったが、真摯に謝罪している相手へ恩着せがましい態度を取るのは憚られてしまう。
然も、彼女も初対面の相手に随分と失礼な物言いをしたとの自覚があるだけに、渋々ながらも謝罪を受け入れたのである。
「もういいわ。私の方こそ恩着せがましい事を言ったし……御免なさい」
「お互い様だろう。俺はティグル……何度も言うが、ソロの冒険家だ」
「私はラケシス……アリエーテ族 族長レイナの一人娘よ」
奇妙な縁を得て出逢ったふたりの未来が如何なるものになるのか……。
夜空に輝くアンヘルルーナは、ただ静かに彼らを見守るだけだった。