第十三話 決着
想定外の展開に苛立つメトゥスは、タウロ族の切り札である守護聖獣を召喚するべく神官長へと檄を飛ばした。
だが、その命令に従うか否か、神官は一瞬だが躊躇してしまう。
胡散臭い余所者の言を真に受けるつもりはないが、長老衆の間では同様の噂話が真しやかに囁かれているのを知っていたからだ。
しかし、束の間の逡巡の後、命令に従うしかないと覚悟を決めるのだった。
譬え、一族の守護聖獣とコンタクトできる神官であっても、その身分はいち家臣に過ぎず、将来の王たるメトゥスの命を拒む権限はない。
また、ティグルから発せられる尋常ならざる威圧感には恐怖するしかなく、このまま放置すれば甚だ不都合な事態を招きかねないとの危機感から、暴露された王子の疑惑には目を瞑らざるを得ないと判断するしかなかった。
だから、一族にとっての邪魔者を排除するべく、神器である杖笛を吹き鳴らして守護者を召喚したのである。
ラケシスが語た魚人族創始の伝承は、多少の誇張は有りこそすれ概ね事実だ。
人間と精霊との間に生まれた子らが魚人族の礎を築き、母親たる精霊は我が子らの守護者として自らが使役する海獣を託したのである。
そして、タウロ族の始祖に与えられた守護聖獣こそが、リヴァイアサンと呼ばれている大型の海龍だった。
その力は強大の一言に尽き、タウロ族に仇為す存在を悉く葬って来たとの逸話から鑑みても、追い詰められたメトゥスにとっては、まさに起死回生を成す必勝の妙手になる筈だったのだが……。
※※※
突如として入江の沖合の海面が大きく隆起したかと思えば、激しい波飛沫と共に巨大な海龍が姿を現し、その開かれた獰猛な咢から甲高い雄叫びを発した。
祭壇の最上段から伝説の守護者の姿を間近に見たラケシスは、その禍々しいまでの威厳と圧迫感に息を呑むしかなかった。
「こ、これが海神……さま……」
海上から突き出た部分だけでも優に五十mはあるが、荒れ狂う海面を嘗めるかのようにのたうつ胴体を鑑みれば、その御力が如何ばかりかは容易に想像できた。
古代の恐竜を彷彿させる竜種とは異なり、リヴァイアサンは信仰の対象としての蛇や龍を思わせる容姿をしている。
赤く染まった双眸、獰猛な牙を覗かせる切れあがった口腔部、固い鱗に覆われた体躯と鋭角的な背びれ、そして、腕を想起させる羽の様なふたつの長い手鰭。
その圧倒的強者の姿に畏怖したラケシスは、その場にへたり込んでしまいそうになったが、地へ伏す寸前に身体を支えられて事なきを得た。
「ティ、ティグル……」
駆け付けて来たティグルに抱き支えられていると察した途端、ラケシスは気恥ずかしさと恐怖が綯交ぜになった複雑な心境を持て余す。
だが、そんな彼女の微妙な心情にも斟酌しないティグルは、呆れる程に呑気な声で超常の存在である守護聖獣を揶揄するのだった。
「おぉ──ッ! 図体ばかりでかいけれど、随分と可愛い顔してるじゃん!」
「なっ!? 何を馬鹿な事を言ってるのよぉ──ッ!」
その緊迫感の欠片もない物言いに微かに芽生えたときめきも一瞬で消し飛んでしまい、ラケシスは思わず非難の声を上げていた。
だが、どこまでもマイペースなティグルは平然とした儘だ。
「いや、だって可愛いじゃん。小者は小者なりに精一杯の虚勢を張っている姿が、いっそ清々しいじゃないか?」
「いっそ清々しい? ティグル、あなた気は確かなの?」
「あん? 当たり前だろう。ラケシス、おまえ俺を馬鹿にしているのか?」
状況を理解しているのか否か定かでない能天気な物言いには呆れるしかないが、その態度が唯の強がりだとも思えない。
だが、様変わりしたティグルの様子に懐いた疑念が的を得ていたら……。
そう考えたラケシスは、高まる胸の鼓動を抑えながら口を開いた。
「馬鹿になんてしていないわ。でも、正直に話して頂戴……あなたは人間なの?」
その問いに一瞬だけ怪訝な顔をしたティグルだったが、直ぐに合点がいったらしく、大きく破顔して呵々大笑する。
「そうか、そう言えば、ちゃんと言ってなかったな……」
と、その時だ。
ふたりの事情などに斟酌する必要もない海龍は、古の精霊との盟約を行使するべく甲高い雄叫びを発したその口を更に大きく開くや、何者をも凍てつかせる極寒のブレスを吐き散らした。
それは祭壇のみならず周囲の海水をも一瞬で氷結させてしまい、逃げ遅れた衛士らも巻き込んで白き世界を構築していく。
祭壇を中心にして巨大な氷山が出現した様は圧巻であり、その光景を目の当たりにした群衆は部族の守護聖獣の力を誇らしく思うと同時に、哀れな反逆者へ冷笑を投げ掛けたのである。
それはクヴァールやオディム、そしてメトゥスも例外ではない。
(これで良いのだッ! 証人さえ始末してしまえば王族たる我に手を出せる者など存在する筈もない! そして、そう遠くない未来に魚人族唯一の王になるのは誰でもないッ! この私だッ!!)
断崖の上に陣取る民の目があるが故に哄笑するのは我慢したが、内心では盛大に高笑いするメトゥス。
だが、その高揚感は長くは続かなかった。
〝ピシっ!″
何かがひび割れたかのような音がした次の瞬間、周囲の空気を震わせる破砕音と共に巨大な氷山が粉々に砕け散り、その破片が容赦なく岸壁や石畳へと降り注ぐ。
何が起こったのか理解できないメトゥスは恐怖に顔を歪めて腰を抜かし、片や吃驚した群衆らが逃げ惑う事で辺りは騒然となる。
だが、動揺したのは海龍とて同じだ。
守護聖獣と呼ばれるだけはあり、自我と高い知能を兼ね備えている彼は、眼前で繰り広げられる想定外の光景に戸惑うしかなかった。
だが、一番戸惑っているのは……いや、高鳴る胸の鼓動を持て余しているのは、他ならぬラケシスだろう。
海神が放った冷気が迫りくるのを見た彼女は最早これまでだと観念して瞳を閉じたのだが、次の瞬間に身体を包んだのは心地よい柔らかな温もりだった。
その正体を確かめるべく恐る恐る瞼を開けてみると……。
「大丈夫だよ。この程度の貧弱なブレスなんか俺には効かないぜ」
まるで悪戯っ子の様に無邪気な笑顔のティグルを見たラケシスは、その変貌ぶりに眼を大きく見開くしかなかった。
自分を抱き支えているティグルの身長は優に二mを越えており、まるで筋肉の鎧を纏ったかの如くに逞しさを増している。
二本の角と口元から覗く獰猛な牙、そして、オフショルダーのバトルスーツからはみ出た肌を埋める銀白色の鱗が、彼が特殊な存在である事を示していた。
何よりも象徴的なのは、背中から広がる鋭角的なフォルムの双翼だろう。
穏やかな曲線を描く鳥類の物とは違い、攻撃的な翼竜の翼を想起させるそれが、盾となって海龍のブレスを阻んだのだ。
「やっぱり竜種だったのね……」
呆然とした顔でそう呟くラケシスに、ティグルは苦笑いを返すしかない。
「隠すつもりはなかったんだが、俺は神竜の末裔さ。まぁ、その話は後回しにするとして、あの海蛇もどきとのケリをつけて来るよ。だから、ここで大人しくしていてくれ」
そう念を押され地面に降ろされたラケシスだったが、矢も楯もたまらずティグルに縋りついて懇願する。
「無茶はしないでッ! 怪我なんかしたら承知しないからね……絶対だよ?」
鬩ぎ合う期待と不安に心穏やかではいられないラケシスは、両の瞳から溢れそうになる涙を堪えるのが精一杯だ。
だが、そんな不安など無用だと言わんばかりに大きな掌で頭を撫でられた。
「言っただろう? 冒険家は無敵なのさ! それをキッチリ証明してやるぜ!」
そう言い放ち双翼を一閃させるや、宙を駆けたティグルは海龍と対峙する。
「オマエに恨みがある訳じゃないから一応は忠告しておく……古の契約に縛られて悪行に手を貸すのはやめろッ! あの馬鹿王子は家族を蔑ろにした下衆野郎だ。アンタが護ってやる価値など微塵もない男なのさ」
同じ系統の存在であるからか、海龍もティグルの言葉は理解できた。
だが、遥か昔に精霊と交わした契約は絶対だ。
譬え、この小さき者が己の命すら脅かす強大な力を秘めた存在だったとしても、それが盟約を破棄する理由にはならない。
だから、海龍は己の全力を以て戦いを挑むしかなかったのである。
※※※
(ちいッ! 図体がでかい癖に素早いじゃないかよッ!)
執拗なブレス攻撃の合間を縫って複数の触手が縦横に襲い来る中、接近戦以外に攻撃手段を持たないティグルは苛立ちを募らせていた。
広範囲攻撃が可能なスキルはあるが、威力が強すぎてラケシスや罪のない群衆を巻き込む恐れがある。
だから、硬質化させた両手の爪による近接戦闘に活路を見出すしかないのだが、固い鎧を持つのは相手も同じであり、戦いは持久戦の様相を呈していた。
しかし、ティグル自身には効かないとはいえ、ラケシスや普通の魚人達にとって海龍のブレスは脅威以外の何ものでもない。
真面に喰らえば即死は免れないし、岸壁などに当たりでもすれば二次被害は相当なものになるだろう。
なのに、集まった群衆らは恐怖に引き攣った表情で尻もちをつきながらも、その場から逃げようとはしないのだから始末に悪い。
(本来なら俺が護ってやる必要はないんだが……死人でもでればラケシスが悲しむだろうからなぁ……)
海龍の攻撃を回避しながらチラリと祭壇に眼をやれば、悲痛な表情のラケシスが胸の前で両手を握り合わせているのが見えた。
その視線が自分へと向けられているのを感じれば悪い気はしない。
(へっ! だったら、これ以上みっともない所は見せられないだろうがッ!)
意を決したティグルは、執拗な攻撃を仕掛けて来る触手を六本の刃で斬り落とすや、一気に海龍の懐へと飛び込んで鋭利な爪の全てを喉元へと突き立てた。
そして、防御目的で周囲に常駐させている白雷を海龍の体内へと直接撃ち込んだのである。
断末魔の悲鳴を上げてのたうつ海龍は苦し紛れに海中へと逃れるが、それを許すほどティグルは寛容ではなかった。
「精霊との盟約に縛られて正邪の区別もつかないのなら是非もねえッ! もう一度生まれ変わって出直して来やがれッ!」
共に海中へと没したものの、次の瞬間には海龍の巨大な体躯が海面から空中へと弾き出されてしまう。
その胸元にはティグルの姿があり、双翼が生み出す爆発的な浮力によって海龍を海から引きずり出したのだ。
そして、その脅威的な力を発揮した神竜の末裔は、突き立てた両手の刃を左右へと全力で振り払ったのである。
天と海を震わせる海龍の絶叫と舞い散る大量の血が戦いの終焉を予感させた。
それは、ティグルやラケシス以外の者達にとっては絶望的光景だっただろう。
だが、それでも決着はつけなければならないのだ。
「悪く思うなよ……せめてもの慈悲だ……苦しまない様に逝かせてやる」
空中へ放り出されて自由に動けない海龍を斬り裂くなど造作もない。
ならば、ひと息に頭から尾までを両断してやろうとしたのだが……。
「駄目えぇぇぇ──ッ! もう許してあげてぇぇッ! 御願いよ、ティグル!」
突然切羽詰まったラケシスの悲鳴に耳朶を叩かれたティグルは、切っ先が頭部に触れる刹那に攻撃を中断して海龍の喉元を鷲掴んだ。
瀕死の海龍に最早抵抗する力は残されてはいないらしく、荒い呼吸音を漏らすのみでピクリともしない。
その巨大な体躯を片手で支えるティグルは、何事かと祭壇へと眼をやった。
すると、同じ台詞を繰り返すラケシスが、何やら入江の突端の岬を指さしているのが分かった。
切なげに顔を歪めながら、必死に何かを訴える彼女の指が指し示す先にティグルが見たものは……。
『『ミィ──ッ! ミィ──ッ! ミィ──ッ!』』
海面から顔を出す二匹の小さな生き物が、悲しみを滲ませた視線で瀕死の海龍を見つめながら、切なくも必死な悲鳴を上げている姿だった。
「お願いよぉ、ティグルッ! もう充分だから! だから、あの子達にまで悲しい思いをさせないであげてッ!」
涙ながらに懇願するラケシスの想いは、何よりも家族を大切にしているティグルの胸を打った。
だから、小さな溜め息を零した神竜は、親を想う子らに免じて勝利を放棄するしかなかったのである。
「なんだ……子供がいたのかよ? だったら尚更だろうが。馬鹿げた大昔の盟約に縛られた挙句に我が子を泣かせるなんてツマラナイぜ……」
そして手の力を緩めてやる。
当然だが引力に引かれて落下した海龍は盛大な波飛沫を上げて海中へと没したが、直ぐに頭をもたげて空中のティグルを睨んで来た。
その赤い双眸が何を訴えているのかは分からなかったが、ミィ!、ミィ!と鳴きながら幼い身体を寄せていく海龍の子らを見れば、それが如何なる感情であれ最早どうでも良い事の様に思えてしまう。
だから、柄にもなくセンチな言葉が口を衝いて出たのかもしれない。
「家族を大切にするんだぜ……もうタウロ族の守護聖獣は卒業して良いだろう? その変わりに魚人族全てを護ってやりな」
そう告げるや海中へと姿を消す海龍親子には目もくれずに踵を返したティグルは、陽光に照り映える双翼を一閃させて入江の石畳へと舞い降りた。
そこに居るのは、青褪めた顔を恐怖に歪めて立ち尽くすメトゥスと、そのお仲間であるクヴァールとオディムの三人のみだ。
そんな彼らを睥睨するティグルは、その口元に酷薄な笑みを浮かべて宣った。
「年貢の納め時だぜ悪党共……今頃はGPOの一斉捜査で組織の拠点は壊滅させられているだろう。政庁府の関与も明白だから、テメエらに情状酌量の余地はねえ。精々後悔するんだな。鉱山惑星での強制労働は過酷だぜ? 二度と娑婆には出られないんだから、この世の名残に新鮮な空気でも満喫しておくがいいさ」
人身売買は重罪であり、辺境惑星に送られた挙句に二百年以上の過酷な強制労働を課せられるのが常だ。
つまり、短命種の人間であるクヴァールやオディムにとっては、死にも勝る末路しか残されてはいないのである。
「い、嫌だッ! そんな結末など受け入れられるものかぁぁ──ッ!」
「わ、私は何もやってないッ! 関係ないのだぁぁ──ッ!」
悲惨な未来を突き付けられて取り乱したふたりは、踵を返して地下へと続く階段から逃れんとしたが、その行く手を複数の男達によって遮られてしまえば、嫌でも立往生するしかない。
すると、集団の先頭に立つ鋭い眼光の男が最後通牒を突き付けた。
「GPOだ。エーヌ・クヴァール、並びにルグレ・オディム! お前達を強制人身売買の罪で逮捕するッ! 抵抗しても無駄だ! 観念するがいいッ!」
クヴァールとオディムは尚も足掻こうとするが、屈強な捜査官が相手では逃れられる筈もなく、敢え無く逮捕されたのである。
基本的に民間人でしかないティグルに他人を裁く権利など有ろう筈もない。
譬え、相手が犯罪者であってもそれは変わらないが、それでも許してはおけない愚物は居るのだ。
だから、ティグルは最後の仕上げをするべく、壁に背中を押し付けてイヤイヤと頭を振るばかりのメトゥスへと歩み寄った。
「馬鹿王子……オマエは曲がりなりにも長命種だからな、運が良ければ無事に刑期を終えて釈放されるかもしれねえ……だから俺がオトシマエをつけてやるよッ!」
そう一喝したのと同時に右の拳がメトゥスの左頬を抉る。
「ぶふぉぉッ!!」
出自以外に誇るものがないメトゥスにティグルの拳は苛烈に過ぎた。
だが、血を吐きながら吹き飛ばされた先には壁ドン(?)された左脚が待ち構えていて倒れる事さえできない。
そして、その一撃だけでティグルの怒りが収まる筈もなく……。
「今のはオマエに裏切られた女達の分……そして、これがラケシスの分だぁッ!」
右手で衣服の胸元を絞り上げながら吠えたティグルの左の拳が、恐怖で醜く歪んだ馬鹿王子の右頬を強かに打ち据える。
悲鳴を上げる暇もなく鮮血と折れた歯を吐き散らすや、失神して石畳に倒れ伏すメトゥス。
その姿を一瞥したティグルは、軽く鼻を鳴らして踵を返すのだった。
後始末はGPOに任せておけばいいし、それは自分の仕事ではない事も分かっている……ならば、やることは一つしかないではないか。
双翼を羽ばたかせたティグルは、愛する者が待つ場所へと向かったのである。
◇◆◇◆◇
「ああぁっ! 良かった……ティグルが無事で本当に良かった!」
メトゥスを断罪したシーンは祭壇の上からでも見えた。
そして、戻って来たティグルを抱擁で出迎えたラケシスは、感極まった声で喜びを露にする。
「おいおい、大袈裟だぜ。あの程度は大した事じゃ……あれっ?」
妙に照れ臭くて強がってはみたものの、やはり竜人形態への変化は負荷が激しかった様で、ティグルはへなへなとその場に尻もちをついてしまう。
「きゃあ──ッ! ちょっと! 大丈夫なの? しっかりしてよ、ティグル!」
狼狽して悲鳴を上げるラケシスだったが、深刻な状態でないのはティグル本人が一番よく分かっている。
「大丈夫だと言いたいが、まだまだ若造の俺では成竜にはなれないし、この首輪のサポート機能なしでは、竜人形態への変身も長時間は維持できない。だが、御蔭で深刻なリスクも負わずに済む……だから、心配するなよ。俺は大丈夫だからさ」
その説明が終わるのを見計らったかの様に首元のリングが淡く発光したかと思うと、ティグルの身体が元の人間の姿へと戻った。
それが、如何なる機能に支えられての物なのかはラケシスには理解できないが、それでも一つだけ確信した事がある。
それは胸に秘めた彼女自身の正直な想いだ。
だから、その感謝と恋情を込めた想いを唇に乗せたラケシスは、そっとティグルの頬へ口づけを落とすのだった。
「ありがとう、私の守護竜様……そして、愛しているわ、ティグル」
「へっへっ……何か照れ臭いな……」
「ば、馬鹿……変な茶々を入れないでよ……」
気恥ずかしさを誤魔化すかの様に、ラケシスは頬へのキスを繰り返す。
だが、そんな恋人同士の甘い雰囲気を読めない人間は何処にでも居るものだ。
「おや? 取り込み中だったかな……」
不意に背後から投げ掛けられた声に驚いたラケシスは、慌てて唇を離す。
幸いにも声の主には背中を向けており、赤くなった顔を見られずに済むと安堵したものの、ティグルの口から零れた言葉には息が止まる程に吃驚してしまった。
「何だよパパさん。随分と早かったじゃないか……それにしても、相変わらず間が悪いというか……だから、ママさんやさくらから朴念仁だと言われるんだぜ」
「おいおい、邪魔して悪かったとは思うが、そんなに邪険にしなくても良いじゃないか……まぁ、照れる気持ちは分かるけどさ」
「て、照れてねえし! 俺達、まだ、そんなんじゃねえし!」
ムキになって否定するティグルの混乱ぶりも相当なものだが、ラケシスの動揺は、その比ではなかった。
(ティ、ティグルのお父様っ? しょ、初対面の印象が大切なんだから、落ち着いて……落ち着いて御挨拶しなきゃ……)
完全に気持ちだけが先走っているのだが、緊張の極みにある本人にとっては最早人生の一大イベントに臨む婚約者になった気分だ。
「まあまあ、そうムキにならずに私にも紹介しておくれよ。その娘さんの為に色々と頑張ったんだろう? だったら、恥ずかしがっているばかりじゃ男が廃るぞ?」
覚悟も決まらぬままに審判の時が訪れる。
緊張して完全に自分を見失っているラケシスは、ティグルの紹介を待つまでもなく自ら振り向くや、深々と頭を下げて一気に捲し立てていた。
「は、初めまして、お父様には御機嫌麗しく……い、いえ、わ、私はアリエーテ族のラ、ラ、ラ、ラケシスと申しますッ! ふ、不束な未熟者ですが、どうか宜しくお願いいたしますぅ──ッ!」
上手く呂律が回らず酷い挨拶だと自己嫌悪するラケシス。
(大切な初対面の挨拶なのにぃ……きっと呆れられたに違いないわ)
余りの不甲斐なさに顔も上げられないラケシスだったが、そんな彼女を労わるかの様な優しい声が投げ掛けられる。
「ティグルが散々お御世話になった様で心から感謝しています。あなたの様な素敵なお嬢さんが御相手ならば、私も妻も安心して息子を任せられます……私の名前は白銀達也。これからは息子共々仲良くして欲しいな」
その名前が脳に染み入った途端、まるでバネ仕掛けの人形の様に勢いよく上半身を起こしたラケシスは大きく見開いた双眸で眼前の人間を捉えるや、更に目を丸くするしかなかった。
なぜならば、その声の主は彼女が長年憧れて已まなかった存在であり、宝物として大切にして来たホログラム映像の御本人様に他ならないからだ。
「し、白銀……た、達也さま?」
半ば放心状態で達也の名を呟いたラケシスだったが、不意に振り向いた彼女は、惚けた顔をしているティグルの胸倉を両手で鷲掴みにするや、力任せに振り立てて泣き叫ぶのだった。
「ティグルの馬鹿あぁぁ──ッ! 白銀達也さまの前で生き恥を曝しちゃったじゃないのよぉ──ッ! 全部あなたが悪いんだからねッ! だから、パパさんなんて不遜な呼び方はやめなさいって言ったでしょぉぉ──ッ!」