第十一話 逆鱗に触れる ③
一瞬で激変した事態に困惑するラケシスは、爽やかな笑みを浮かべるティグルを呆然としたまま見つめるしかなかった。
あの絶体絶命の危地から如何にして救われたのかは分からないが、腰に廻された逞しい腕から伝わって来る温もりによって、強張った心が解きほぐされていくのだけは理解できる。
だが、その心地よい感触に安堵する心とは裏腹に、頭の中をぐるぐると駆け巡る疑問に困惑は増すばかりだ。
(ど、どうして目の前にティグルが居るのよ? それに、一体全体どうやって……何処から現れたというの?)
混乱は深まるばかりだが、手首を戒めていた鉄製の拘束具が取り払われて自由を取り戻せば、少しばかりの余裕が生まれる。
「大丈夫か? 随分と痛めつけられた様だが、一人で立てるか?」
「う、うん……大丈夫……」
問われて問題ないと答えると、そっと地面へと降ろされた。
恐怖に強張っていた身体には痛みも残っているが自力で立つ事はできる。
そして、此方を気づかわし気に見つめているティグルの視線に気付いたラケシスは、自分でも驚くほどに狼狽し慌てて顔を逸らしてしまう。
(な、なんでティグルの視線から逃げなくっちゃならないのよ! こ、こんなのは違う……断じて嬉しいとかじゃないんだからッ!)
必死に自己弁護に狂奔して不本意な感情を否定するものの、早鐘を打つ胸の鼓動に比例するかの様に、快い熱が身体中へ伝播していくのを止める事ができない。
己の顔が朱色に染まっているのは想像するに容易くて、身の置き所もない羞恥にラケシスは益々狼狽の色を強くするしかなかった。
しかしである……。
一時的に絶望から脱したとはいえ、危機が去った訳ではないのだ。
正体不明の落雷によって救われたとはいえ、メトゥスや神官、そして衛士らには一切の被害は及んでおらず、状況は何一つ変わってはいなかった。
今でこそ混乱しているものの、彼らが統制を取り戻せば、再び攻撃してくるのは目に見えている。
絶対権力者であるメトゥスにとって、己に不都合な事実を知ったラケシスは始末しなければならない存在であり、何が何でも抹殺しようとするだろう。
そう思い至った瞬間、ラケシスの背筋を堪え難い焦燥感が駆け抜けた。
(ま、巻き添えにしてしまう……ティグルまで死なせちゃう!)
憎からず想っている相手の死を幻視したラケシスは刹那の間に形相を一変させるや、ティグルのジャケットの胸倉を掴んで声を荒げたのである。
「なんでッ!? なんでこんな所にノコノコと間抜け面を曝しに来ているのよ! さっさと人間が拠点にしている北部の大陸へ行けって言ったでしょう!?」
「お、おい……」
いきなり怒鳴りつけられて目を白黒させるティグルにはお構いなしに、ラケシスは尚も詰り続けた。
「だから馬鹿なお子ちゃまだって言われるのよッ! これは私達魚人族の問題で、人間のあなたには何の関係もない話じゃないッ! 恰好つけてしゃしゃり出られても迷惑なだけなのよ!」
「ち、ちょっと落ち着けって……」
「私は落ち着いているわよッ! だから叱っているんでしょうッ! こんな馬鹿な事に巻き込まれて万が一の事があったら、あなたの身を案じているお父様やお母様に何と言って詫びるつもりなのよッ!?」
言葉を重ねれば重ねる程に焦燥感が募っていく。
義理とはいえ優しい両親や家族が待っているティグルを、自らの失態に巻き込んだ挙句に死なせてしまっては後悔してもしきれない。
そんな焦慮に身を焦がすラケシスは必死だった。
「私は助けて欲しいなんて一言も言っていないし望んでもいないわ! 迷惑なだけだから、もう放っておいてちょうだいッ! だから、何処へなりとも行ってよ! 早くッ! 早く私の目の前から消えてよぉ──ッ!」
双眸が熱を持ち始めるのと語尾が掠れだすのを察したラケシスは、自分は泣いているのだと自覚してしまう。
(あぁ……こんなにも私は、この人の事を大切に想っていたんだ……)
そう気付けた事が嬉しくて、そして切なくて……。
だから、ラケシスは心を鬼にしてティグルに詰め寄ったのである。
「あなたなんてお呼びじゃないのだから、さっさと消えて頂戴ッ! だいたい何の関係もないあなたに戻って来る理由なんてないじゃないッ! 何で出しゃばるのよぉッ!? 訳が分からないわよおぉぉ──ッ!!」
(お願いだから逃げて! こんな生意気で可愛げのない女なんて助ける価値なんかないでしょう! だから、あなただけでも逃げて、私の分まで生きて頂戴!)
何が何でもティグルを逃がさなければ……。
そう思い定めて懸命の説得を続けようとするラケシスだったが……。
「ああぁッ! もうッ!」
「えっ!?? な、なに、ちょ、んんっ────!☆?★?☆???」
それまで困惑するばかりだったティグルが突然面倒臭そうな声を発したかと思えば、何の事前説明もない儘に唇を塞がれてしまったから堪らない。
(なに!? なんでキスされているのッ!?)
一瞬で大混乱に陥るラケシスだったが、唐突の無礼にも拘わらず不快感は感じなかった。
だから、驚きと羞恥でパニック状態になりながらも、その口づけを拒めなかったのである。
◇◆◇◆◇
速射砲の如き辛辣な慨嘆の雨霰にはティグルも閉口するしかなかった。
いや、そもそも当てが外れたと言っても過言ではないラケシスの反応には、戸惑うしかないと言うのが正直な感想だ。
(てっきり感謝してくれると思ったんだがなぁ……まさか文句を言われるとは)
彼女の言い分に非がある訳ではないが、ティグルにも譲れない想いがある。
ただし、それを面と向かって言葉にするのが気恥ずかしかったのだ。
(だって言えねえだろう……惚れちまったみたい……だなんてさ……)
一目惚れなど柄でもないのは百も承知だが、その想いに気付いてしまった以上は潔く認めざるを得ない。
それが、偽らざるティグルの本音だったが、返って来たのが罵倒の嵐では、恋愛慣れしていない彼が、ラケシスの真意を正しく読み取る事ができなかったとしても仕方がないだろう。
(あ~~~やっぱり俺の独り相撲だったのかな……あぁ、みっともねえ)
だが、そんな失望は立て続けに浴びせられる非難によって、次第に不満へと変化していくから始末に悪い。
(そりゃあ、余計な御世話かもしれないけどさ、悪しざまに罵る事はないじゃないか……幾ら嫌いだからって、言い方ってもんがあるだろうに……)
恋愛経験など無いに等しいティグルに、切羽詰まったラケシスが懐く献身的愛情に気付けと言うのは無理がある。
だからこそ、その不満が苛立ちへと変化するのに時間は掛からなかった。
奇襲されて混乱しているとはいえ、階下に陣取っている連中が統制を取り戻すのに時間は掛からないだろう。
そうなれば本気のバトルは避けられない。
ならば、一刻も早くラケシスを落ち着かせて事態に対応する必要があった。
(ああ──ッ! 面倒臭ぇ! こうなったら仕方がねえぜ! 成る様に成れだ!)
興奮して聞く耳を持たないラケシスを説得する術など持ち合わせてはいないが、此れまでの経験で得た便利知識ぐらいはティグルにもある。
それは、小言を言う愛妻をも一瞬で黙らせてしまう養父の反則技だ。
(ママさんに説教されると、パパさんは決まってキスして黙らせるからな)
実家では恒例の光景だが、唯々呆れるばかりの姉や妹らとは違い、なるほど有効な手段だとティグルは半ば感心してもいた。
ならば、この混沌とした状況でも同じ手が使えるのではないか……。
そう彼が考えたのも、ある意味では不幸中の幸いだったのかもしれない。
だから……。
「ああぁッ! もうッ!(成る様に成れだ、コンチクショウ!)」
半ばヤケクソ気味に叫んだティグルは、ラケシスの唇を己のそれで塞いだのである。
最初こそ顔を捩って抵抗するラケシスだったが、腰に添えた腕で強く抱きしめてやると強張っていた彼女の身体から力が抜けていくのが分かる。
落ち着いてくれたと判断したティグルは、恐る恐るといった風情で唇を離した。
先程までの騒々しさが嘘だったかの様に黙り込んでいるラケシスは、その円らな碧眼を目一杯見開き、僅かに開かれた儘の唇を微かに震わせている。
然も、その頬には涙の雫が幾重にも伝い落ちており、罪悪感に苛まれたティグルは、引っ叩かれるのを覚悟で本心を告げるしかなかった。
「惚れちまったんだから仕方がないだろッ! 俺の一方的な想いでも、惚れた女が危ない目に遭っていると知って黙っていられるかよッ!」
◇◆◇◆◇
(えっ!? 惚れた? 誰が? 誰に?)
唯々呆然と立ち尽くすしかないラケシスは、間の前で顔を赤くしているティグルから目を逸らす事ができず、混乱から立ち直れないでいる。
だが、唇を奪われた直後に告白されたのは夢でも幻でもなかった。
そう自覚した途端、火が着いたかの様に身体中が熱くなるのが分かった。
「う、嘘……ティグルが……私を? そんなの嘘よ……」
考えてもみなかった告白に狼狽えてしまい、反射的にイヤイヤと頭を振って現実逃避を図るが、そんな彼女の心をティグルの言葉が貫く。
「嘘じゃねえよ……馬鹿王子との婚姻など蹴っ飛ばせと言いたくてアリエーテ族の島へ戻ったのさ。しかし、そこには密猟団の連中も居てな。おまえの一族も諸共に売り払うつもりだったらしい。すべては、あの馬鹿王子の指図だ」
「そ、そんな……それじゃぁ、お母様や島の皆は!?」
考えてもみなかった事態を知ったラケシスは表情を歪めたが、返って来た言葉にほっと胸を撫で下ろす。
「全員無事だ。高が三流の破落戸共だ。全員叩きのめしてふん縛って来た。ただ、そいつらからラケシスが捕らえられて海皇島に連行されたと聞いて……慌てて引き返して来たのさ。何にせよ間に合って良かったぜ、本当に良かった」
その言葉に嘘がないのは、満面に浮かんだ彼の笑みからも一目瞭然だ。
だが、だからといって全てに納得できた訳ではない。
ティグルからの告白を信じたいと思う心と、そんな都合の良い話がある訳がないと思う心が鬩ぎ合い、戸惑いは大きくなるばかりだ。
すると、そんな彼女の想いを知ってか知らずか、肩に伸びて来たティグルの両腕によって、そっと抱き絞められてしまった。
「巫山戯た真似をして悪かったと思っている……さっきのは俺の勝手な思い込みだから、気に入らなければ殴り返してくれてもいいさ。だがな、これだけは分かってくれ……銀河系は広いんだ。自分らしく生きていける場所なんて、探せば幾らでも見つかるさ。だから、自分の人生を諦めるなよ」
暗に故郷を捨てろと言われたのだが怒りはなく、寧ろ、ワクワクする様な高揚感すら覚えてしまう。
そして、ティグルが真剣に自分の未来を考えてくれているのだと知ったラケシスは、彼が口にした〝惚れた″という言葉をも信じたいと強く望むのだった。
「……じゃあ……あなたも一緒に探してくれる?」
精一杯の勇気を振り絞った言葉は掠れて今にも風に溶けてしまいそうだったが、竜種のティグルが聞き逃す筈もない。
だから、満面に期待感を滲ませたティグルは……。
「俺はチビで粗野なプータローかもしれないけどさ、あんな卑劣な男よりは百倍はマシだろう? しがない冒険家じゃ贅沢な暮らしはさせてやれないけど、一生退屈はさせねえ。だから、こんな俺で良かったら妥協してみないか?」
唯々可笑しかった。そして、何よりも嬉しい言葉だった。
だから、感涙に咽ぶラケシスは、ティグルに抱き付いて声を弾ませたのである。
「お子ちゃまで俺さま……女の子の扱いは落第点だし、下品でサイッテーの冒険家だけど、あの馬鹿王子よりは百万倍ステキだわ! だから、騙されてあげるッ!」
その言葉に苦笑いするしかないティグルも不満はない。
ふたりは喜びを分かち合いながら熱い抱擁を交わすのだった。
しかし、この遣り取りを面白く思わない人間も当然ながら存在する。
「キサマらあぁぁ──ッ! 高貴なる余を愚弄する気かあぁッ!? 許さんぞ! 絶対に許さんッ! ふたり纏めて死にも勝る苦痛を与えてくれるわッ!」
激昂して怒鳴り散らすのは他ならぬメトゥスだ。
崖の上で見守っている民衆には距離があった所為もあり聞こえなかっただろうが、祭壇の周囲に居る配下の衛士らにはティグルとラケシスの遣り取りは隠しようもなかった。
そんな中で『卑劣な男』『馬鹿王子』と嘲笑されたのだから、メトゥスの憤懣は頂点に達していた。
左右に控えているクヴァールやオディムも不快げに表情を歪めている。
だから、圧倒的に有利な現状に胡坐をかいて啖呵を切って見せたのだが……。
「騒ぐなよ、馬鹿王子ッ! 焦らなくてもキッチリ落とし前はつけさせて貰うぜ。隣で雁首揃えている悪党共にもたっぷりと後悔させてやる。俺の逆鱗を思いっきり逆撫でしておいて唯で済むと思うなよ。パパさんの台詞じゃないが、黄泉路の片道切符は俺がくれてやる……だから、迷わず成仏するがいいぜッ!」
ラケシスを背に庇って祭壇の最上部で仁王立ちするティグルが吠えた。
それが如何なる結果を自身の人生に及ぼす事になるのか、この時のメトゥスには知る由もなかったのである。