第十話 逆鱗に触れる ②
海皇島南西部には切り立った断崖が密集しており、タウロ族の祭祀が執り行われる神聖な場所として王族以外の立ち入りは厳しく制限されている。
その中央部辺りにある高さ百メートルほどの断崖に囲まれた小さな入江がそれであり、彼らが部族の守護者として奉じている〝海神様″への信仰心を育む祈祷の場として古来から活用されて来た聖域だと民衆には周知されていた。
その入江へと通じているのは断崖の頂上から下る石段のみであり、前方に開けている海側から侵入する事はできない。
なぜならば、入江前面に広がる海洋には彼らが崇めている〝海神様″が御座す聖域であり、何人であっても侵してはならないという厳しい法があるからだ。
当然だが、重要な祭祀が執り行われる場だけあり、神秘的荘厳さを印象づける為の効果的な演出が施されていた。
然して広くもない海岸の砂浜には石畳が敷き詰められており、その中央部分から入江の外へと伸びる細い石道の先には、大理石を惜しげもなく使用した三段造りの祭壇が設えられている。
その一段目は王族やその関係者など、祭祀に参加する者達が控える広場になっていて、護衛の衛士を含めれば二百人程度の人員が待機できるスペースがある。
また二段目は〝海神様″と直接対話できる能力を持つ神官のみが立ち入りを許された場所で、中央に設えられた巨大な精霊棚には祭祀に必要な神具が所狭しと並べられており、更にその上段にある狭い空間こそが〝海神様″へと献上される供物が配される場所だった。
※※※
夜が明けるか否かのタイミングで発布された神事の開催通知だったが、事が事だけに瞬く間に住民らの間に拡がりを見せ、眼下に祭壇を一望できる断崖の上には、多くの魚人達が集まって足の踏み場もない有り様となっている。
その中には交易やバカンスで来島している人間の姿も交じっており、何処か祭りにも似た雰囲気が醸成されつつあった。
そして、雄大な大洋から吹きつけて来る潮風と早朝の眩しい陽光が周囲の全てを祝福する中で儀式は幕を開けたのである。
「おい、見ろ! 今回の祭祀には生身の供物が捧げられる様だぞ!」
「まだ若い娘だ……何をやらかしたんだ?」
地下へと続く出入り口から石畳に姿を現したのは、祭祀を司る老齢の神官と複数の衛士、そして彼らに引き立てられる幼気な少女だった。
「あの娘は……確かアリエーテ族の族長の娘じゃなかったかしら?」
「あっ! そうだ、ラケシスだ……しかし、あの子はメトゥス様の側妃として近々後宮入りが決まっていたんじゃないか?」
「本人で間違いないのか? それにしては随分と痛々しい姿だが……」
祭壇へと続く石造りの中道の両端には衛士らが整然と列を為しており、宙空へと捧げた三叉槍を交差させて道となる空間を形成している。
その中を粛々とした足取りで進む一行を見た群衆からは戸惑いにも似た騒めきが起こるが、王家主催の神事であるが故に面と向かって疑念を口にする者はいない。
中道を渡り切って祭壇の最下段へと到達した一行は、待ち構えていたメトゥスとその側近ら、そして祭祀用の荘厳な鎧を纏った五十名の衛士らが見守る中を上段へと進む。
すると、中段へと達した神官が、儀式に必要な神具が設えられた精霊棚へ向かい最後の準備をする中、衛士らによって最上段へと引き立てられたラケシスは、L字の磔台から垂れている鎖で両手首を拘束されるのだった。
※※※
「この者は我が一族の情報を他の氏族に売って金品を得、過分な栄耀栄華を貪ろうとした! 如何なる理由があろうとも裏切り行為は万死に値するのが古から変わらぬ法だ。しかし、曲りなりにも我が妃にと望んだ者である以上は、その身も魂も浄化されん事を願って海神様への贄とする事で慈悲と成すものであるッ!」
最下段の中央に立って断崖を埋め尽くす群衆へ向けて声を張り上げるメトゥスは、この虚飾に塗れた儀式の正当性を捲し立てる。
そして、権力者の言葉に対して民衆が必要以上に寛容なのは何処でも同じだ。
つい先程までは供物として捧げられた少女が余りにも幼気であったが為に、集まった群衆の中には少なからぬ動揺も見られたが、主筋たるタウロ族王子が涙ながらに語る口上を経た今では、ラケシスへ同情を寄せる雰囲気は雲散霧消していた。
寧ろ、儀式の正当性が立証された事で、数百年ぶりに執り行われる格式に則った神聖な祭祀を間近で目にできる機会を得た事に喜ぶ声すら聞こえる程だ。
(卑怯者──ッ! 部族を裏切ったのはアンタの方じゃないかぁ──ッ!)
然も悲劇の主人公然として振る舞うメトゥスへ罵声を投げつけるラケシスだったが、枷で拘束された口では憤りは言葉にならず、う~~、う~~という唸り声だけが海から吹き寄せる風に呑まれて溶けてしまう。
この場へと引き立てられる途中でも空しい抵抗を試みたが、その都度衛士らから槍の石突で打ち据えられ、身体には痛みと共に無数の痣が刻まれている。
然も、辛うじて爪先が地に着く状態でL字型の支柱から吊るされている彼女は、拘束された両手首の痛みの所為で意識までもが朦朧とし始めてはいたが、それでも胸の中に燃える憤懣の情は些かも衰えなかった。
(悔しいぃッ! アイツに近づく事さえできれば、あの大嘘を垂れ流す喉笛を噛み切ってでも刺し違えてやるのにぃ──ッ!)
まさに射殺さんばかりの憎悪を滲ませた視線でメトゥスを睨みつけるラケシスだが、自身の惨たらしい結末を回避する術が残されてはいないのも分かっている。
ならば、どれほど無念で口惜しくても、祭祀に供された生贄としての役割を最後まで全うする以外に彼女にできる事はなかった。
そうする事で母親を始め一族の者達への理不尽な対応が覆るならば……。
そんな儚い願いだけが、死を受け入れたラケシスを支えている唯一の至誠だったのである。
「赦されざる罪業を背負っているとはいえ……この者の血を海神様へと捧げれば、その罪は必ずや浄化されて我が種族の繁栄の礎となるであろうッ!」
最後の刻が訪れたと察したラケシスは、諦念の中で軽く唇を噛んだ。
中段から発せられる香を含んだ煙と呪文らしき声は強さを増しており、最下段では仰々しい祭祀用の鎧を纏った十名ほどの衛士らが、装飾されたボウガンを手にして一列に並んでいる様が目に入る。
「よってッ! ここに神聖なる儀式の贄として、この者を海神様へと捧げるものであるぅぅッ! 古の英雄の御霊宿りし執行者らよ! 構えぇ──いッ!!」
そうメトゥスが大喝するのと同時に、十台のボウガンに装着された矢の切っ先が自分へと向けられたのを確認したラケシスは、そっと目を閉じた。
最早これまでと覚悟を決めたからか不思議な程に胸中は凪いでおり、心穏やかに最後の刻を迎えられそうだと自分自身に言い聞かせる。
(これで私の人生も終わりか……そう言えば、あいつ……無事に帰れたかしら)
脳裏に浮かんだのは、無邪気な笑顔が良く似合う反面、青臭いまでに真摯な激情を内に秘めた冒険家の顔だ。
(最後の瞬間に思い浮かぶのがあいつの顔だなんてね……つくづく色気のない寂しいものだったんだなぁ、私の一生って……)
皮肉気に自嘲するラケシスだが、それは決して本心からのものではなかった。
寧ろ、短かったが楽しい時間を共に過ごせたティグルとの思い出を胸に黄泉路を逝けるのならば、それはそれで喜ばしい事ではないかとさえ思ったのである。
「撃てえぇぇぇ──いッ!!」
耳障りな男の怒号と、それに続く複数の重なり合う風切り音に耳を打たれたが、ラケシスは小動もしない。
(ティグル……私が死んだって知ったら、少しは悲しんでくれるかな……)
そんな彼女の想いは風に溶けて興奮した群衆の喧騒へと呑み込まれてしまう。
誰もが生贄の罪人が聖なる矢に貫かれて血飛沫を上げる光景を幻視する。
その結果、神聖な儀式はクライマックスへと雪崩を打ち、供物の汚れた血と罪業を浄化する海神様の登場を固唾を吞んで待つばかりとなる筈だった。
しかし、そんな無慈悲な幻想を甘受できない者が、たった一人だけ居たのだ。
十本の矢が正にラケシスへと達しようとした瞬間だった。
耳を劈く激しい衝撃音と共に無数の白雷が降り注いだかと思えば、迫りくる矢が悉く打ち払われてしまったのだ。
然も、白き雷炎の暴威はそれだけには止まらず、儀式の中核を成していた中段と最下段にも降り注ぐや、石造りの祭壇を破壊して衛士らをも薙ぎ払ってしまう。
予期せぬ出来事に見舞われた入江は怒号と喧騒の坩堝と化し、その混乱は断崖の上で成り行きを見守っていた群衆へも伝播していく。
そして、何が起こったのか分からずに混乱しているのはラケシスも同様だった。
(一体全体なにが起こったのよ? 雲一つないのに落雷なんて……砂煙がひどくて何も見えやしない)
雷によって打ち据えられた石畳は所々が粉砕されて抉れており、唯一の階段も粉々になって用を為さなくなっている。
当面の危機は回避できた様だが、安閑とはしていられない……。
そう思った途端、何の前触れもなく手首を拘束していた戒めが破壊され、拠る術を失った身体が地へと崩れ落ちる感覚に彼女は息を呑んだ。
あわや地面に打ち付けられ様とした寸前ラケシスは反射的に身構えたが、それは杞憂に過ぎなかった。
なぜならば、何者かの力強い腕によって抱き留められたからだ。
そして、激変する状況に戸惑うしかない彼女の耳朶を震わせたのは、確かに聞き覚えのある声だった。
「よう、間一髪だったな。でも間に合って良かったぜ。大丈夫か? ラケシス」
驚いて顏を上げた視線の先には死の間際にまで思い浮かべていた男の顔があり、その者の手によって言葉を奪っていた拘束具が取り払われるや、口中に流れ込んで来た新鮮な空気にラケシスは噎せてしまう。
だが、その苦しみの中でも、気づかわし気な表情で此方を見ているティグルから視線を離せない。
驚き、困惑、戸惑い、そして喜び……。
様々な感情が綯交ぜになって頭の中が真っ白になったラケシスは、唯々茫然としたままティグルの澄んだ瞳を見つめるしかなかったのである。