SECT.8 フェリス
先ほどの剣舞を見る限り、ロキ役を演じていたシドという青年もかなりの実力者だった。
実戦経験があるのかしれないが、おそらく感覚でとっさに致命傷を避けたのだろう、急所はもちろん、見た目の出血の割には重要な臓器を傷つけていなかった。
止血が早かったのも幸い、命は助かるはずだ。
腹に巻いていたサラシが血に染まり、貫かれたことでずたずたになっていた。きつく巻かれた布が緩み、床に垂れる。
その布の中に、見慣れた紋章を見た気がして眉を寄せた。
「……?」
傷口を手で押さえたまま、腹に巻かれた布を取り去ってみる。
サラシの中から現れたのは、細かく刺繍がなされた布の切れ端だった。多少血が付いているが、黒地に銀色の糸で縫われたこの紋章には見覚えがあった。
背に一対の翼を持つ獅子を包み込むように、大きく鷹が翼を広げている。
忘れるはずもない。
黒き獅子――闇有翼獅子はグリモワール王国家の紋章だ。そして、その紋章を守る様に翼を広げているのは、王国を守る騎士団の証。
「……騎士団員だったのか」
おそらく、義兄上が団長を務めた漆黒星騎士団に所属していたのだろう。
思わずその紋章を自分の手に収めてしまっていた。
医者が到着し、準備が整い次第舞台から降りると、ちょうどくそガキが戻ってきたところだった。周囲にはまだ血の匂いが充満している。この中で、あのくそガキが耐えられるはずがないだろう。
そう思って見ていると、テントの中に入るなり、案の定、俯いていた。
だからテントを追い出したというのに。
「……お前はまだ外にいろ、くそガキ」
声をかけるとはっとしたように見上げてきた。
顔が青い。
隣の歌姫もそれに気づいたようで、眉をひそめて言った。
「グレイス、顔色が悪いわ。無理しないで。私はモーリの様子を見てくるから、ウォルジェンガさん、グレイスをお願いね」
「……ん、ありがと、ルゥナー」
ほとんどくそガキを引きずる様にして外に出た。
手に付いた血を洗い流し、戻ってきてみると、くそガキはぐったりとミカエル像の台座にもたれかかっていた。ぼんやりと人の行き交う様を見ていたようだが、俺が近づくと隣に座るよう促し、さらに肩に頭を預けてきた。
不快ではないが少々気恥かしい。
「……あまりくっつくな」
そう言ったが、まったく効かなかった。
「いいじゃん」
そう言ってますますくっついてくる。
どうやらこいつは本気で嫌がっている時と気恥かしく嫌味を言う時を完全に見分けてしまっているらしい。それは嬉しいような気もするが、非常に厄介だ。
ひとつ、大きくため息をついた。
これで落ち着くのならば構わない。
ついでに心配ごとを一つ、取り去っておくことにした。
「あの、シドとかいう剣士は大丈夫だ。出血はひどいが、見た目の割に内臓の損傷はそれほどない」
「そっか。よかった」
くそガキは心底ほっとした声を出して、安心したように目を閉じた。
ほんの少し青ざめた顔に血が差した気がして、こちらもほっとする。
軽く頭を撫でてやると、嬉しそうな顔をしていた。
それを見て、こちらも嬉しくなる。
絶対にそんなこと口に出したりはしないが、俺の感情のほとんどはこいつが握っているんじゃないかと思う。こいつがいなければ、これほど感情が起伏することもありえないだろう。
しばらく頭を撫でてやっていると落ち着いたのか、くそガキはふと口を開いた。
「アレイさん、フェリスは何者かな?」
「わからん」
本当に分からなかった。確定事項が少なすぎる。
現時点で分かっているのは、あのフェリスという男が完全に殺す気でシドにきりかかった、というその一点だけ。シドの方もそれがわかっていて本気で相手をしていた節がある。
その動機も目的も分からない。
あれだけの殺気を放ってしまえば、事故として片づけることが出来なくなると思うのだが……どうなのだろう。剣をたしなんでいない人間からするとただの不運な事故に見えてしまうのだろうか。
すでにフェリスの秘めた実力に気づき、あの殺気を受けてしまった以上、俺には何とも判断しがたかった。
「どうやらわざと実力を隠しているようだが……お前はそれにも気付いていたのか?」
「んー、なんとなく、だけど、昨日の手合わせで手加減の仕方が不自然だなとは思ってたよ。だから、きっと何か隠してるだろうなと思ってさ」
「……」
なら早く言え、とは言えなかった。
このくそガキの感覚は営みはずれているものであることを承知しているから。本当に些細なことにまで気づいてしまうから、その感覚が察知したものが本当に危険がどうかを判断することが困難なのだ。
それを判断するのは俺であり、かつては育て親のねえさんの役目だった。
「フェリスはなんでシドを傷つけたのかな? シド個人を傷つけたかったのかな?」
心底不思議そうに、くそガキは呟いた。
こいつはいつもそうだ。近づいてきた相手に心を許し、裏切られ、心に傷を負う。
「……あの瞬間の殺意は本物だった。その、フェリスというヤツは本物の剣を手にしていることをわかっていて、そのうえで命を奪う攻撃をした」
「どうして……? シド本人を殺そうとしたの? それともガリゾーント全体を……?」
「ガリゾーント全体だとしたら、シドが重症の今、あのフェリスというヤツの独壇場だ」
歌劇団ガリゾーントの事情は分からないが、本気でフェリスがガリゾーントをつぶそうとしているなら、シドがいない今、簡単だろう。
それを聞いたくそガキの表情がみるみる強張った。
「戻ろう、アレイさん」
しかし、その推測は外れていると思う。
フェリスが狙っているのは歌劇団ではない。さらにシドの懐からグリモワール王国時代の騎士団紋章が出てきたことで確信していた。
フェリスの敵は、俺たちだ。
「……その必要はない」
「え?」
なにしろ、今この瞬間に殺意が向けられているのは俺とこのくそガキだからだ。
顔を上げれば、そこには、先ほどシドに重傷を負わせたばかりの黒ニットの男がにやにやと笑いながらたたずんでいた。
「二人で揃っていてくれると、オレっちとしては非常に嬉しいねえ」
先ほどまで隠していた殺気を垂れ流しにしている。
思わず、くそガキを背に庇い、立ちあがっていた。
先ほどまでの将軍の衣装は着替えてしまっている。黒ハイネックにカーゴパンツ、黒ニット帽を深くかぶっていた。瞳の色は、まるで北方の湖のような深いセルリアンブルー。
背後に庇ったくそガキが震える声で呟いた。
「フェリス」
右手で細身の銀ナイフを弄び、少し反る様にしてその場にゆらりと立ったそれは、人間を狩る気まぐれな獣だった。今にも俺たちから意識を外し、気まぐれに広場の人間をその牙で襲いそうな、そんな快楽を求める肉食獣。
「何の用だ」
問うと、フェリスという男は、セルリアンブルーの瞳をきゅっと細めた。
「ごめんねー、グレイス。かわいい娘は好きなんだけど、オレっちの世界で一番大切なヒトは、グレイスが大っきらいなんだよねー」
その言葉で、ほとんど確信する。
こいつの狙いは、俺たちだ。
「……俺たちが何者か分かっているような口ぶりだな」
「あったり前じゃん?」
肩をすくめて、ナイフをくるくる回しながら。
「いつから? いつからおれが……『ラック=グリフィス』だって知ってた?」
くそガキの声は震えている。
「んー、最初は半信半疑だったんだけどね。でも黒髪の二人組って時にちょっと疑っててさー。確信したのは手合わせした時かなぁ? 強かったのさぁ。オレっちが思わず本気出しそうになるくらいに」
ぴっとナイフの先を付きつけて、フェリスは笑う。
「じゃあ、フェリス。なんで、シドを刺したの?」
「それは簡単さぁ。アイツもグレイスの正体に気づいちゃったからだよー?」
アイツ。胸元にグリモワール王国騎士団の紋章を抱いたシドという藍色髪の青年。
もともと騎士団にいたというのなら、くそガキの正体に気づくことも有り得るだろう。
それにしても。
「行動が軽率だな、くそガキ」
「ご、ごめんなさい、アレイさん」
まったく。
おそらくモーリとかいう歌劇団の団長も気づいているだろうし、この分では歌姫も気づいているかもしれない。
大きくため息をつきたい気分だった。
「しかもこれ以上、この歌劇団にいるのは危ないから、また寄生する相手を探さなくちゃいけなくなっちゃったじゃん。ここ、結構居心地よかったのに。ルゥナーかわいいし。もう、どれもこれもグレイスのせいなんだよ!」
不機嫌そうに言い放ったフェリスは、ずっと手の中で弄んでいたナイフを収めた。
「だからー、オレっちは今から『アレイスター=クロウリー』と『ラック=グリフィス』の死体を持ちかえって、褒めてもらうことにしまーす」
その瞬間、相手のスイッチが切り替わったのが分かった。
来る。
いつでも抜刀できる態勢になり、構えた。
くそガキが震える声でフェリスにたずねた。
「じゃあ、最後に聞いていいかな、フェリス」
「んー? なにー?」
「フェリスはおれたちの死体を持ちかえって、誰に褒めてもらうの? 王様? それともケテル?」
「違うよ。オレっちを育ててくれたのはシアさんだよ。シンシア=ハウンド。えーと、役職名はなんだっけ……?」
シンシア=ハウンドという名には、覚えがあった。確か戦争時、くそガキと共に騎士団で剣を学んだ友のはずだ。
しかし、彼女は正体を隠し、グリモワール王国に入り込んだ密偵だった。
「マルクトだよ。シンシア=ハウンドの本当の名前……一緒に剣を学んだ、おれの友達だ」
「あ、そうなの? 言われてみればシアさん、何年か前にリュシフェルの抹殺の為に悪魔の国に潜んでいたことがあるんだよなぁ。その時かなー?」
軽口を叩きながらも、両手にずらりと銀色のナイフを並べたフェリスを見て、判断した。
このままでは周囲に被害が出てしまう。それだけは避けねば。
「場所を変えるぞ、くそガキ」
咄嗟にくそガキの手を引いて、その場を駆けだした。