SECT.5 カイン=ウィンクルム
「ご名答」
うす暗い路地裏で、ようやく相手の姿を視認した。
聖騎士の正装に身を包んだ、年の頃20半ばの男。青年と言って差し支えない容貌の騎士は、長剣を一振りして鞘に納めた。
その一連の動作は、何百何千何万回と繰り返してきたのだろう。流れるように美しかった。
「何の用だ……カイン=ウィンクルム」
今の剣劇で乱れた衣服を簡単に整えた聖騎士は、口の端に軽く微笑みを乗せた。
「君は僕の事を、その名で呼ぶのですね。ケテルと呼ぶ気はないのですか?」
「俺にとってケテルは、戦場で見えたあいつ一人だ」
東の都トロメオを陥落させ、ねえさんの命を奪い、俺とくそガキを瀕死の重傷にまで追い込んだあのケテルだけ。平和の中で幸せに暮らしていた俺たちを見つけ出し、再び戦場へと放り込んだあのケテルだけ。
「それでも、ですよ」
自嘲の混じったその言葉の意味が理解できずに眉を寄せると、彼は鋭い視線をくれた。
「僕は君を捕えに来たつもりはありません。もちろん、天使を召喚するつもりもない」
これ以上攻撃をしてくる気配はなかった。
しかし、全く理解できない。
新たに就任したセフィラが、現在進行形で指名手配中のレメゲトンを発見したというのに、天使を召喚するどころか、捕えるつもりもないというのだから。
それどころか、数合打ち合っただけで分かるほどの実力は、今の自分とほぼ互角。セフィラになる前は聖騎士団副団長だったという経歴は詐称でも誇大広告でもないらしい。天使など召喚せずとも有る程度に俺を消耗させ、セフィロト国に引き渡すのは簡単なはずだ。
現に俺は、俺は悪魔の高ぶりを抑えるだけで精いっぱい、目の前の敵に集中する事が出来なくなってきている。
本気の戦闘になってしまえば、俺だけでなくあのくそガキも巻き込んで、街の安否を気遣う余裕のない最悪の戦いが勃発してしまう。
言葉の通り、目の前の聖騎士から敵意は感じられるものの、闘気は収束してはいるのだが。
疑いを残したまま、剣を収める。
しかし、右腕と左胸に刻まれた悪魔の刻印は今も落ち着かない。
「先程言いました。僕は君に会いに来ました。そして君は、僕の事を知りながら『カイン=ウィンクルム』と呼びました。君はおそらく、きちんと二つの世界と可能性を認識している」
「……?」
「僕はセフィロト国に生まれ、天使の加護のもとで育ちました。無論、契約したメタトロン様を敬誰よりも愛しています」
揺るぎない蒼穹の瞳に迷いはない。
「でも僕は言われたままじゃない、僕が見て、僕が聞いて、僕が感じて、僕が考えた事を信じたい」
「いったい、何を言っている……?」
「アレイスター=クロウリー。君はまだ、世界の理を知りません。ですから、ここで君を捕えるのは公平ではないと思います」
世界の理。
いやというほどに聞き覚えのある言葉だ。
「世界の理を知ってください。君自身の為に、君が抱える悪魔たちの為に、君が大切に思うすべてのモノの為に。何故マルコシアスが人間と交わったのか、魔界の王が人間の子を欲したのか」
「カイン、お前は世界の理を知ると言うのか?」
悪魔が何度も繰り返すその言葉の真意は、未だに分からない。
ただ分かるのは、その理に従って天使や悪魔が存在し、天界や魔界が存在し、国があり、信仰が在るという事だけだ。
そして、その理に従って、マルコシアスやリュシフェルが俺とくそガキに何かを求めようとしている事も。
「僕は当事者ではありませんので、君に世界の理を説く事はできません。しかし、メタトロン様は決して君たちにその事を告げたりはしないでしょう」
「何故だ。マルコシアスも、リュシフェルでさえ世界の理に関しては口を噤む」
「それはおそらく、彼らに後ろめたいところがあるからでしょう」
「後ろめたい? マルコシアスが俺たちに?」
「僕は部外者ですからそれ以上聞かないでください。僕も、世界の理に真っ向から立ち向かいたくはありません」
真摯な言葉と真剣な態度は、これまで、どのセフィラを前にした時とも違っていた。
ティファレト、ネツァク、ゲブラ、コクマ、ビナー、ホド、ケテル、マルクト。
ケセドとイェソド以外のすべての神官とは一通り相見えたが、その中に剣士は、ましてや騎士は一人たりとも存在しなかった。
新しいケテル――カイン=ウィンクルム。
過去を持つセフィラ。
彼はいったい何者だ? いったい、何が目的だ?
「先に進んでください。この国の、もっと先、世界の理を知る事の出来る場所まで」
「国を出ろ、というのか」
左胸が熱い。
これは警告か、それとも――
「君が大切にしているグリフィス家の末裔がティファレトに囚われる前に、急いでこの国を出た方がいいと思います。彼らは……彼は先日、グリフィス末裔の生存を知りました。追ってくるのは時間の問題でしょう」
「ティファレト? ティファレトは戦争時にアイツが加護印を焼いて契約が解消されたはずだ」
青みがかった銀髪と深い群青の瞳を持つ、好戦的な双子のセフィラ。
「彼らはまたティファレトになりました」
また。再び。再度。
――再契約
時を止め、不老の躰になる禁忌の術だ。
全身の毛が逆立った。
「君がティファレトとグリフィスの再会を望まないならば、急いだ方がいいと思います。もう時間は残されていない」
聖騎士カイン=ウィンクルムの言葉一つ一つが鼓動を誘発する。
ティファレトが復活した。
それは、あのくそガキにとってどれほどの意味を持つのか、考えずとも分かった。
「広く世界を、すべてを知ってください、悪魔騎士アレイスター=クロウリー。そして、願わくば僕の前に立ちはだからん事を」
まるで、あの時シルクハットを振った手品師のような言葉で。
ふいに純白の外套を翻した聖騎士は、その場から消え去った。
苛立ちが募る。
占いをしていたという歌劇団長モーリの不吉な言葉、突如現れた新しいケテル、聖騎士カイン=ウィンクルムの行動、そして再契約を行ったというティファレト。
世界の理。
何かが始まろうとしている事は分かるのに、それが何なのか分からない。
応えてくれ、マルコシアス。
先程あれだけの高揚を見せた刻印は、ひやりとしている。
「マルコシアス……!」
いったい、どうしろと言うんだ。俺とあのガキにいったい何を求めると言うんだ。
「アレイさん!」
宿の部屋で思索に囚われていると、突如として大声と共に扉が乱暴に開けられた。
顔をあげれば予想通り、息せき切ってあわてて飛び込んできたくそガキの姿があった。
「何だ、騒々しい。部屋に入る時くらい静かに帰ってこられんのか、お前は。今年で幾つになると思っている?」
「23歳だよ。いいじゃん、そんなこと! それより、もっと話したいことがあるんだよ!」
よっぽど急いでいたのか、答えながらずんずんと詰め寄り、顔を近づけた。
深い漆黒の瞳に先ほどからの思索ごと吸い込まれそうになって、どきりとする。
こいつは、ティファレトが再契約した事を知ったら、いったいどうするんだろう?
いつかのように会いたいと言うだろうか。それとも、戦争時のように苦しみながらもばっさりと切り捨てるのだろうか。
いったいどうしたら――
「何かあったの? アレイさん」
はっとすれば、すぐそこで首を傾げる幼い表情があった。
一瞬、また思索にはまりかけたらしい。
「……何もない」
「じゃあなんでそんなにも不機嫌そうなの?」
不機嫌なのはいつもの事だ、と言おうとしたが、もう何年も隣にいるコイツがそのくらいのことで口に出すはずはない。
表に出ないはずの苛立ちに感づくのは、コイツくらいのものだろう。
「本当にお前は……変な奴だな」
苛立ちが薄れていく。
不安も焦燥も、すべて見透かされて、そのまま昇華していってしまうようだ。
だから俺は、この少女の傍を今も離れられないんだろう。
ぽん、と黒髪に手を置いて、ぽつりと切り出した。
「つい先刻、『ケテル』と遭遇した」