SECT.22 天使ノ末裔
ぞわりと全身の毛が逆立ったが、芥子の気配は完全に消えていた。
朱色の天井と対照的に、柱や床は白い石で覆われていた。リュケイオン独特のその佇まいの中に、天蓋つきのベッドがひとつ。
「いま、ポピーが医者を呼びに行った。食事は後でもってくるが……食欲はないだろう?」
後ろからミリアの声が追ってきた。
「アレス、そいつは風呂場に放り込んでおけ。見るに堪えん」
ミリアの指示で赤髪の軍神アレスはこくりと頷いた。
確かにひどい有様だ。
マルコシアスに外された左肩は鈍い痛みを残していたし、肋骨も治っていないだろう。左手の傷には薄い皮がはっていたが、あまり動かさない方がいいだろう。
が、ここへ来るまでの間に嘘のように芥子の苦しみがひいていた。なんとか一人で動けるだろう。
「もう、いい。ありがとう」
その言葉にも軍神アレスからの返事はなかったが、彼はゆっくりと俺を離した。
右足にずきりと痛みが走った。
まだ完治はしていないらしい。
だが、動ける。
左手も時間はかかるだろうがまだ剣を握る事が出来る。
それだけで十分だった。
痛む体を抱えてなんとか全身の血を流し、部屋に戻るとポピーが待っていた。
先ほど軍神アレスがしていたように俺を支え、ベッドまで誘導する。
華奢だと思っていた体は思いのほか頑丈で、俺はようやく先ほどの違和感の正体を知った。
そうか、あれは少女が親友に向ける表情などではなかったのだ。『僕』という一人称も、少女に似合わぬものだと思っていたが――
気づいたからと言って何を言うわけでもない。
ベッドの脇には軍神アレスとミリアの姿はなかったが、代わりにアーディンと名乗る医者が待っていた。
くわえ煙草に薄汚れた白衣、とても医者には見えないが、この軍神アレスの居城で筆頭医師を務めているらしい。淡い茶髪の巻き毛をした青年に、簡単な診察を受けた。年齢は俺と同じか、それより下かくらいだろう。
しかしその歳でオリュンポスの一人、軍神アレスの居城の筆頭医師というのだから、見た目に寄らず腕は確かなのだろう。
「ポピーが治したんだろ? だったら、ほんの一週間も寝てれば治るはずだ」
その割にはそう言って肩をすくめ、とにかく寝てろ、と医者とは思えない診断を下したわけだが。
それより何より、彼から感じる気配は――
俺の動揺には気づいているだろうに、アーディンは煙草をくわえたまま淡々と続けた。隠しているのかは知れないが、わざわざ口に出す事でもないのだろう。
「芥子の要素の方がよっぽど深刻だ。気を抜くなよ。芥子の症状がアレで終わったと思うな」
「分かっている」
炎妖玉騎士団に在籍していたころ、芥子の中毒患者を見た事がある。そして、芥子の呪縛を決死の思いで絶った者たちのことも。
「ただ、俺はさぁ、こういうとこの務めだし、一般人ならあり得ねぇかもしんねぇが、オリュンポスと直接話す事も多い。だから、人外にはちぃっとばかし詳しいわけよ。んで、境界が曖昧なモノがいくらか現世界に存在するってことも知ってる。もしかしたら、アンタも知ってるかもしんねぇな」
アーディンの言葉に、俺は頷いていた。
向こうと似通ったものが現世界にもある、というのは世間一般的にも言われる事だ。半分は迷信混じりだが、すべてが嘘ではない事を俺は知っていた――新月の夜の狼、絹の毛並みの黒猫、欠けた角のヤギ、鏡のような湖、血の色をした薔薇。
そして。
「ああ、芥子はかなり魔界に近いものだと聞いた」
「そういうことだ」
アーディンは鷹揚に頷いた。
「アンタの血は悪魔のものだ。それは、否定しないな?」
「……それは」
「おっと、医者相手に嘘つくなよ……死ぬぜ?」
患者に向かって躊躇いもなく、死という言葉を出す医者がいるか。
ため息をついて正直に答えた。
「そうだ。俺の中には悪魔の血が流れている」
「宜しい。そうそう、そうやって正直に答えるんだぜ?」
この横柄な態度。
体調が万全ならば殴り飛ばしてやるところだ。
「さてと、話を戻そう。この世には、現世界に近いモノと人外の世界に近いモノがある。芥子は、どっちかっつーとあっち寄りだ」
煙草の煙をすぅっと細長く吐き、アーディンは言った。
「アンタの芥子の発作は普通とは違う気がする。ポピーから結界の中の様子は聞いた。あのミリアがあれだけ疲弊することがまずあり得ねぇからアンタの中に悪魔がいるってのは本当だろう。だから、たぶん、だがよ――」
鳶色の瞳に物騒な光を灯して、彼は俺の瞳をまっすぐに覗きこんだ。
「アンタの中の悪魔は、きっとまた顕在化するぜ?」
「……どういう事だ?」
眉を寄せると、アーディンは肩をすくめて見せた。
「気をつけろよ、その内なる悪魔が、大切な誰かを傷つけねぇようにな」
最後に、手にしていた煙草を床に落としてサンダル履きの足で潰して火を消すと、アーディンは立ち上がった。
「医者からの忠告。アンタ、聞きそうにねぇけど……大人しく、そこで寝てろ。せめて3日だ」
「分かった」
「剣の稽古もナシだぜ。本当ならその左手の指はもう無くなっててもおかしくねぇんだ。おい、ポピー、よく見張ってろよ」
「わかってるよ、アーディン」
ポピーが笑って見送り、俺はベッドに釘づけになった。
「申し訳ありません。アーディンはああいう性格なので」
「……体調が万全なら、何度か殴り飛ばしてやるところだ」
「ふふ、それは勘弁してください。アーディンは誰より僕らのことを一番わかってくれる医者ですから」
「そうだろうな」
あの、アーディンという青年。
ただの医者ではない。
あの距離ならば、いかに感覚に疎い自分といえども気づけることもある。
「あいつからは、天使の気配がした」
「……やはり、お気づきになられましたか」
ポピーは困ったように笑った。
「セフィロト国やセフィラとは関係がありませんから、どうか警戒なさらないでください。ただ、グリモワール王国に悪魔の血を継ぐクロウリー家があるように、天使の血を継ぐ者も存在するのですよ」
「……だろうな」
しかし、先ほどの様子を見るにとても天使の血が入っているとは思えない。
あれではむしろ――
「『孤高の伝道師』か」
「内緒ですよ? クロウリー伯爵と違って、アーディンは親の名がとても嫌いなんです」
ポピーは苦笑交じりに答えた。