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SECT.21 解放

 マルコシアスはその爪を掻い潜って腕の付け根を抑え込み、そのまま肩関節をはずした。

 肥大した爪は空を切り、左腕はぶらりと体の横にぶら下がった。

 左掌の傷はぱっくりと割れている。

 もしマルコシアスが止めていなかったら、とうに左手の指は切断されていただろう。

 ほとんどぶら下がるように先がつながっている。ただ、それだけだった。

「駄目だ 動かすな」

 マルコシアスの手が俺の左手首を捕えた。

 する、と彼の腕に巻いていた包帯が解けて俺の左手に絡みついた。

 じわりと包帯に鮮血が滲む。

 それ以上動かさないようにと、左手首を強く掴まれ、巧く力を利用してうつ伏せに拘束された。

 背に膝が乗っている。

 体重をかけて抑え込まれ、いくらもがこうとも逃れられなかった。

 全身が痺れる。

 震えが止まらない。

 吐き気と頭痛がいっぺんに襲ってきて、凄まじい衝撃が全身を駆け抜けた。

「それ以上 傷つけるな」

 マルコシアスの声が途切れそうな意識をつないでいる。

 逃れようとしたがかなわず、がっちりと抑え込まれた左手の指が辛うじて床を引っ掻いた。

 指が動いているという事は、まだ神経がつながっているのだろう。

 自分の心臓の鼓動と呼吸が、ひどく速く、大きい。

 それより何より、体の芯から捩り上がってくる渇望が休ませてくれはしなかった。

 喉の奥から咆哮があがる。

 意味のある言葉は紡がれなかった。

 全身ががくがくと震え、陽炎が立つように視界が曖昧だった。

 いっそこのまま意識を絶ってしまえば楽だろう。

 それすらもさせない苦しみが憎かった。

「それ以上 傷つくな」

 がっちりと固めるマルコシアスを跳ね飛ばして、この爪で自分の喉をかき切ってしまいたかった。

 それでも、強く握り締めるように左手を抑えたマルコシアスの腕も震えていた。

 魔界の性質を持つ芥子によって誘起され、奥底で眠らせるようにと覆いかぶさっていた理性が引き千切られ、俺の躰の底から具現化した悪魔の力と拮抗しているからだ。

 数百年、クロウリーの血の中に抑圧された悪魔の力は、ようやく手に入れた自由を謳歌したいようだった。

 芥子の禁断症状が薄らぎ、徐々に理性の糸がり合されていくと、少しずつまた奥に押し込められていくときに、力は奥底に閉じ込められる事を抵抗した。

 外に向けられていた破壊衝動が自分の中で暴れ狂って、胸の中心がかっと熱くなる。

 喉の奥から吐きだしたものには、血が混じっていた。


 それでも、少しずつ、ほんの少しずつ理性が帰ってくる。

 同時に、痛みと苦しみは自分の感覚としてリアルに蒸着していった。

「随分 暴れたな アレイ」

 ようやく落ち着いた自分の様子を見て、マルコシアスはごきり、と俺の左肩の関節をいれた。

 あまりの痛みに失神しそうになる。

 陽炎のように薄らぐ視界の中に、師匠の姿を見た。

「……マルコ……シア……ス」

 喉の奥から、ようやく自分の『声』が出た。

 額から血を流し、息を乱したマルコシアスは、ようやく拘束を解いた。

 いつものように不敵な笑みで自分を見下ろした師匠を見て、ようやくほっとする。

 何もかもを破壊したい衝動はおさまっていた。

 代わりに襲ってきたのは自らがつけた傷の痛みだった。

 咳き込むと、胸のあたりがずきずきと痛んだ。どうやら肋骨も何本かやってしまったらしい。

 マルコシアスの手を借りて、壁際にもたれかかった。

 床は血まみれだった。

 投げ出した右足がおかしな方向に曲がっている。痛みはあるのだが、他にも痛む箇所が多すぎて把握しきれなかった。

 何より、どくりどくりと血を吐きだす左手は、自分の意思で動く気がしない。

 先ほどマルコシアスが巻きつけた白の包帯は深紅の布になっていた。

「アフロディテ」

 マルコシアスが呼ぶと、何もない空間にふっと金髪の少女が現れた。

 血に染まった部屋を見渡し、酷く悲しそうな顔をした。

 そして怪我を負ったマルコシアスを見てかなり驚いたようだ。

「マルコシアス様、お怪我を……それはクロウリー伯爵が?」

「他に 誰がおる」

 マルコシアスの言葉に、ポピーは眉をひそめてそっと呟いた。

「僕だけじゃ無理だ。ミリア、アレスを呼んで」

 床に届く長さの白い法衣の裾が血に染まるのも気にせず、金髪の少女は俺の隣にしゃがみこんだ。

「左手と右足だけでもこの場で治療します」

 ポピーは長い金の髪を一本引き抜き、俺の左手首に巻き付けた。

 両膝をつき、祈りを捧げるように手を組んだ彼女は、静かに目を閉じた。

 すると、彼女の全身から眩い光が放たれた。

「ポースポア=エウカリスの名のもとに、アフロディテの力をこの場所へ」

 初めてここへ来た時と同じ、癒しの光が全身を包み込んだ。

 この光は、リュシフェルの銀色の光ととてもよく似ている。そのせいなのだろうか、傷の癒える感覚と共に、心が安堵するのが分かる。

「アフロディテ、貴方の美しさと優しさに感謝します」

 アフロディテの賛美で最期を飾ったポピーは、柔らかに微笑んだ。

「山は越えたようですから、ゆっくりと休めるお部屋を用意します。マルコシアス様はどうなされますか?」

「我は戻る アレスの結界の外では 長くおられぬ故」

「分かりました。クロウリー伯爵の事はお任せください」

「アフロディテ 協力を 感謝する」

 マルコシアスが俺の左手に巻かれていた布をするりと解く。

 重くなるほどに血を吸ったそれを再び自らの腕に巻きなおすと、いつもの不敵な笑みを湛えた。

「精進せよ アレイ」

 いつもと同じ台詞で。

 何の前触れもなく、マルコシアスの姿はかき消えた。



 代わりに現れたのは、リュケイオンに入って最初に見た赤髪の男だった。どうやら、この男が軍神アレスらしい。

 典型的な東方部族の面立ちは、この場所に相応しいと言い難かった。

 赤髪の男は黙って俺に手を貸した。

 半ば担がれるような形で立ちあがったところで、目の前の景色が揺らいだ。

「ミリア、もういいよ。結界をといて」

 ポピーがそう言いながらさっと手を振ると、ただ白い壁と柱が並んでいた空間に、扉が現れた。

 その扉が外から開かれる。

 扉を押しあけたのは、ミリアだった。額に玉のような汗をかき、息を乱している。高い位置で二つに括った赤い髪が揺れた。

「お疲れ様、ミリア」

「……くっそ……ふざけんな、さんざん暴れやがって……最硬度にした私の結界をぶち破る気か……っ」

「もしクロウリー伯爵がここを破ろうと思って暴れたら、とてもあんなものじゃ済まなかったよ。マルコシアス様に感謝する事だね」

「貴様、本当に生身の人間か……っ!」

 ミリアが荒い息で睨みつける。

「……さぁ、な」

 そうとしか答えられなかった。

 比喩でなく半分悪魔の力を継いだ自分は、もう人間ではないのかもしれない。

 確か、戦争の時にも同じことを思ったな、などと回想しながら。

「あとはアレスと僕がやるよ。僕はアーディンを呼んでくる。アレスはクロウリー伯爵を部屋に。ミリアはもう休みな。もう随分寝てないでしょ?」

 ポピーはぽん、とミリアの頭に手を置いて笑った。

 その仕草と表情に、なぜか違和感を覚えた。いったいそれが何なのか分からなかったが。

 誰かを呼んでくると言ったポピーと逆方向に向かい、赤髪の軍神アレスの肩を借りて歩きだした。

 かなり鍛えてあるだろう、身長も体格も俺と同じくらい、視線の配り方や動きからも明白だが、この赤髪の男はかなりの手練である事が分かっていた。

 確かに軍神アレスの名に合う。

「すまない、軍神アレス。世話をかける」

 そう言うと、すっきりとしたアレスの目が俺を見た。まるでマルコシアスのような炎妖玉ガーネットの瞳だった。

 しかし、彼は何かを口にすることもなくそのまま視線を正面に戻した。

 無愛想なヤツだな、と自分の事を棚に上げた感想を抱く。

 そのまま無言で部屋に運ばれた。

 天井の複雑な文様に見覚えがあった。最初に芥子を焚いていたあの部屋だった。


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シリーズまとめページはコチラ
登場人物紹介ページ・悪魔図鑑もあります。
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