SECT.20 隠サレタ能力
自分の力と、別の能力が混ざり合う。
人間の血と悪魔の血が混ざり合う。
自分の意識と、別の意識が混ざり合う。
自分の感情と、別の感情が混ざり合う。
自分の魂と、よく似た魂が混在する。
不思議な感覚。
投げ捨ててしまった理性だけが冷静に事を見つめていた。
目の前にいるのは、黒髪の間から短い角を飛び出させた長身の男だ。瞳の色は赤に近い紫色に染まり、口元には長い犬歯が伸びている。その手に握られているのは、深紅の刃だった。服が裂け、左胸の傷の上に覆いかぶさった悪魔紋章が黒々と輝いていた。
左手で抜き身の刃を握りしめ、その手からは血が流れている。
「覚醒したか アレイ」
自分の意思と関係なく、喉から声が漏れた。
よく聞きなれたその響きは、どこか悲哀を含んでいた。
目の前に立ち塞がる男はひどく苦しげで、その苦しさを周囲すべてに発散しようとしていた。
視界の隅を純白の翼が過った。
両手に色違いの剣を一本ずつ、なるべく切っ先を目の前の男に向けぬよう気をつけているのが分かる。
ああそうか、これはマルコシアスの意識だ
ぼんやりとそんな事を思った。
だとしたら、目の前にいるアレは――俺自身だ。
マルコシアスの力も借りずに悪魔の姿をしている。
「芥子の性質は 魔界に近い 我を目の前に こうなる事は 分かり切っていた筈だ」
目の前にいる自分の体が、咆哮を上げる。
ああ、アレが本来の俺の姿なのだな。
壮絶な様相で抜き身の刃を握りしめ、理性の欠片もなく目の前の敵を倒そうとする悪魔の姿をしたイキモノ。
そのイキモノは、一足でマルコシアスへと飛びかかってきた。
かわすのは簡単だろうに、マルコシアスは相手の握る刃が自身を傷つけぬよう、柔らかな動きで受け止めた。
それでも、目の前にいる俺の左手からはおびただしい量の血が流れ出した。
痛みなど感じていないかのように、さらに横薙ぎの攻撃を加えてくる。
「剣を 握れなくなるぞ」
飛び散った血がマルコシアスの頬にかかる。
生ぬるいものがそのまま頬を伝う感触があった。
マルコシアスの頭上から大量の血と共に抜き身の刃が降ってきた。
「己の指を 捨つる気かっ」
珍しく語気を荒げたマルコシアスが、自らの武器を放棄し、両の掌でぱぁん、と刃を横から挟みこむようにして受け止めた。
白羽取り。
無論、相手の手に負担をかけぬよう、ほんの少しだけ刀身と速度をずらし、体の側面に受け流した。
それでも、つながっていないはずの肉体の、左掌に食い込む刃の感覚が、意識を己の肉体に引き戻した。
今度は、マルコシアスの姿が目の前にあった。
目まぐるしく変化していく意識と感覚に、ついていけない。
まるでこの空間全体で、現実の肉体が、意識の境界が、魂の境界が曖昧になってしまったようだ。
と、その瞬間、爆発するような衝動が意識の中に入り込んできた。
どれだけ自らの身を削ろうと、剣を振り回していないと狂ってしまう感覚――いや、すでに狂っているのか。
痛みも苦しみも、何もかもが一つになって襲ってくる。
ここから逃れたい。
もがく願望に任せて剣を振り回す。
が、そこまでだった。
マルコシアスが両手を地面につき、一瞬にして狼の姿へと変化した。
見上げる位置にある炎妖玉の瞳が煌めくと同時に刃が消滅する――マルコシアスの滅びの力。
マルコシアスは瞬間、人型に戻って俺の左腕をとる。
刹那、戦の悪魔の姿は左腕を捻り上げるようにして背後に回っていた。
拘束される恐怖を覚え、反射的に右手の拳を握りしめ、我武者羅に背後の敵に向かって振り回していた。
手ごたえがあり、左腕の拘束が解かれる。
「いつものように 一筋縄では いかぬか」
マルコシアスの額につぅ、と血が滴った。
第35番目、戦の悪魔マルコシアスが傷を負っている。
そんな姿を見るのは初めてだった。
何しろ、彼は悪魔なのだ。人間である自分の力で触れる事はもちろん攻撃が当たる事も、ましてや、傷つけることなど到底出来ないはずだった。
昏々と湧き上がる自分の中の何かが、それを可能にしていた。
刃をかなぐり捨て、拳をきつく握り締めてマルコシアスに飛びかかっていった。
もはや苦しみ以外の何物も伝えない躰は、完全に目の前の存在を敵と認識している。
これを排除すれば苦しみから逃れられると言わんばかりに、すべての敵意をマルコシアスに向けた。
到底剣士が二人闘っているようには見えず、それどころか人間同士の戦いではなかった。
獣同士の争いだ。
喉の奥から咆哮が上がり、獣のように自らの爪で相手に向かっていく。
「一つずつ 潰させたもらうぞ」
マルコシアスの対処は冷静だった。
まるで狼の姿をしている時のように両手を床につけ、低い体勢で間合いに飛び込んできた。
迎撃に左足を蹴りだしたが、完全に読まれている。
紙一重で避けたマルコシアスは、純白の翼を消し、全身を使って軸足に飛び込んだ。
ぐらりと体勢が傾いたところにさらに足を絡め、関節を固めた。
間髪いれず力を込め、右足の関節を逆に折る。
ごきりと鈍い音がしたが、苦しみと痛みが全身を支配する今、一つくらい痛む箇所が増えたからといってどうという事はなかった。
マルコシアスを足に絡ませたまま、両腕のばねを使って上体を逸らして足を持ち上げ、そのまま壁に振り下ろした。
マルコシアスは凄まじい勢いで壁に叩きつけられたにもかかわらず、壁からは破片の一つも落ちてこなかった。
叩きつけられた衝撃で一瞬だけ動きを止めたマルコシアスは、すぐに額の血を拭いながら立ち上った。
それを見た自分も立ち上がろうとしたが、うまくいかなかった。
右足が完全に折れてしまったせいだ。
「全く ここまで鍛えたのは 我の責任なのだが」
圧倒的な力でいつも自分をいなすマルコシアスが苦戦している。
何故自分がこれほどまでの力を発揮しているのだろうか。
いや、発揮しているというよりは、これまで眠っていた能力が外に飛び出したような感覚だ。
芥子で魔界に引きずられ、禁断症状で意識が混濁し、魂が肉体から離れかけているこの時だからこそ奥底から具現化した能力。
微かな記憶をたどり、その答えを導き出した。
レティシア=クロウリーの瞳を受け取った事で半減したマルコシアスの力の片割れ、俺の中にある悪魔の能力が顕在化している。
何しろ、マルコシアスの力の半分は|クロウリーの血の中にある《・・・・・・・・・・・・》。
先ほど見た紫水晶と呼ぶには毒々しい、赤紫色の瞳がその証拠だ。
意識でそこまで理解していも、肉体は止まらない。
半減した力と力は、互角だ。
右足の分を補うように両手をつき、獣のようにマルコシアスを威嚇した。
だらだらと口から涎が出ているのが分かる。左手が裂けかけて、どくりどくりと血を吐きだしているのも分かる。右足が折れて力を込めようとしても動かないのも分かる。
それより何より自分の中にあふれているのは、奥底から引きずり出された悪魔の力と――苦しみだけだった。
「自身を呪うべきか お前を湛えるべきか」
不敵な笑みがマルコシアスに戻ってきた。
「これ以上 傷つけさせぬよ」
この苦しみをどうにかしたかった。
何処でもいい、誰でもいい、すべてを発散したかった。
その欲望に反応するように、両手の爪が形を変えた。
肉食獣か猛禽を思わせるその鋭い爪を、衝動に任せて、マルコシアスに向かって振り下ろした。