SECT.19 衝動
体が重い。
分かっている。芥子の所為だ。
「大丈夫です。ここは、ミリアが強力な結界を張りました」
誰かの声が辛うじて聞こえた。
「外には何の影響もありません。暴れても、破壊しても、悪魔を召喚しても――死んでも」
視覚も聴覚も辛うじて働いている。
触れた床が冷たいのも分かった。
「健闘を祈ります」
足音が遠ざかっていった。
ここが何処なのか、いま何時なのか、自分が何者なのか。
一つずつ噛み砕き、少しずつ現実を把握していく。
サンダルフォン、ウリエル、軍神アレス、アフロディテ、ポピーとミリア。
少しずつこれまでの記憶を掘り起こしていく。
右腕に刻まれた悪魔紋章と左胸にあるマルコシアスの契約印を確認し、壁にもたれかかるようにして座りこんだ。
驚くほど何もない部屋だった。しかし、広かった。
床も壁も天井も、何もかもが白い。そして、飾り気のない柱が何本か壁に埋まるようにして立っているだけ。
「……感謝する、アフロディテ」
ここは、俺に与えられた戦いの場だ。
一瞬の安堵が包み込む。
そして全身から、渇望が漏れ出している事にも気づいていた。
手が震える。
抑え込もうとした手も同じように震えていた。
ここからの戦いは独りだ。
「……ラック」
いま、あいつはいったいどこにいるんだろう。
まだセフィロト国で立ち往生しているのだろうか。それとも、とうにリュケイオンへきているのだろうか。
あいつをセフィロト国に置き去りにしてから、いったいどのくらいの時間が経っているのだろう?
俺にはあいつのように並はずれた感覚はないから、遠くにいる相手の気配まで読むことは到底不可能だった。
だからこそはやく探しに行きたい。
きっと、勝手な行動で無理に国境を越えた俺の事を怒っているだろが、弁解の余地ない叱責を甘んじて受け入れてやろう。
大丈夫。俺だけはお前の傍からいなくなったりしない。ずっとここにいる――そう誓ったはずなのに、いま、あいつの隣にいてやれない。
震えが酷くなってきた。
胸の底からわき上がる渇望を抑え込むように、目を閉じ、息を止めた。
時間の感覚はとうの昔に消失している。
断続的に襲ってくる芥子の禁断症状を抑え込みながら、目を閉じ、世界を遮断した。
これはいったい、何時まで続くのか。
気の遠くなるような孤独の中で、ただあいつの姿を思い浮かべていた。
また、一人で泣いてやしないだろうか。
会いたい。
会いたい。
今すぐにあいつのもとへ駆けて行って、何もかも忘れて抱きしめてやりたい。
「ラック……」
本来なら、こんなところで歩みを止めている場合ではないのだ。
契約印の多く刻まれた右腕を見れば、マルクトの攻撃痕が残っていた。アフロディテが治癒したとはいえ、ちょうど傷と重なったロノウェの契約印は、ほんの少し歪んでいた。
再びあいつにメッセージを送るか……? 無事であることだけでも伝えた方が……
「!」
その瞬間、これまでとは比べ物にならないほどの衝動の波が襲ってきた。
ここからが本番というわけか。
全身の血が沸騰するようだ。
理性で抑え込んできた渇望が抑えきれなくなっている。自らの意思で縫いつけていた全身が、今にも暴れだしそうになっている。
徐々に昂ぶる衝動が身中を暴れまわった。
とてもこの場にじっとしていられない。
全身からあふれ出る渇望に任せ、拳で床を叩きつけた。
痛みは、より強い衝動にかき消された。
「……く……ぁ……」
思わず床に突っ伏した。
額を摺りつけるように全身に力を込める。
喉元を掻き毟りたい。
喉の渇きと、飢えと、吐くほどの気分の悪さ、暴れまわりたい衝動。
何もかもが一度に襲ってきた。
そこから逃れるように立ち上がり、全身を強く壁に打ち付ける。
それでは足りず、何度も何度も壁に向かって突進した。
壁が赤く染まり、額から流れ出した血が目の中に入り込んだ。
あるはずのない武器をとろうと左手が彷徨う。
苦しい。
欲しい。
芥子の快楽が欲しい。
何かを探すように部屋中を這いずり回った。
もう一人ではこの渇望に耐えきれない。
「……マルコシアスっ」
無意識のうちに、師匠の名を呼んでいた。
目の前に現れた戦の悪魔は、大きな純白の翼を静かに折りたたんだ。
「アレイ」
悲しむでもなく、蔑むでもなく。
マルコシアスは、稽古をつける時と同じ強い瞳で俺を見た。
しかし、普段の流れるような動きとは全く違う、相手を無理に抑え込む力で俺の両肩を壁に縫い付けた。
「それ以上 自らを傷つける事は 赦さぬ」
全身の感覚が鈍いのは、酷く昂ぶっているからなのか。
自分がマルコシアスを魔界から召喚したのは、止めてほしかったからか。それとも、発散する先を物ではなく敵に変えたかったからなのか。
それとも――
自分を押さえつけたマルコシアスの腹部に、蹴りを叩き込んだ。
普段なら絶対に攻撃を受けないマルコシアスが、まともに喰らって後ろ向きに吹き飛んだ。
胸の底から熱い何かがせり上がってくる。
苦しい。
自分の喉の奥から咆哮が響き渡った。
すぐに立ちあがったマルコシアスは、一瞬で俺を地に伏せた。
叩きつけられた床の感触が柔らかく感じるほどに皮膚の感覚がなくなっている。
代わりに、自分の血に、肉に、そして何よりこの瞳に宿る何かが、皮を突き破って外に出ようと足掻き、もがいている。
もはや何も分からない。
全身の血が沸騰するほどに熱かった。
痛みも怒りも渇望も熱さも衝動も、感覚と感情が混ざり合った何かが暴れ狂い、外に出ようともがいている。
「アレイ」
マルコシアスの声がする。
きっとすぐ、この声がマルコシアスである事さえ分からなくなるはずだ。
苦しくて、苦しくて、ただ苦しくて。
無意識のうちにその苦しさを周囲に発散しようとしていた。
自分を抑え込んでいる存在に、敵意が向く。
駄目だ。
辛うじて残った理性が、それを抑え込む。
よく知る気配が、俺の中で膨れ上がっている。
「解放せよ アレイ」
まるでマルコシアスは、俺が何かを抑え込んでいるのを分かっているかのようだった。
心臓の音が耳元で響いている。
内側から、何かが叫び声をあげている。
熱い。
マルコシアスの契約印と、目の奥がひどく熱かった。
「アレイ」
師匠の声がする。
駄目だ。
それだけは、駄目だ――
胸の内に澱んだ何かが暴れ狂い、衝動を突き上げる。
何もかもが遠ざかる。
ぷつり、と理性の糸が切れた。