SECT.17 魔界ノ存続
純白の翼を翻したマルコシアスを目の前にして、俺は紡ぐべき言葉を選びあぐねていた。
立て続けに起きた出来事に、いったい何から問いただすべきなのか分からなかったのだ。
そして、沈黙を破ったのはマルコシアスの方だった。
「多くを知りたがる者の 目をしているな アレイ」
「そうですね。知りたい事は多くあります」
「さて 何から話したらよいのやら」
マルコシアスは背の大きな翼を一振りした。
その威圧感と翼の大きさで惑わされがちだが、人型のマルコシアスはそこそこ小柄だった。真っ直ぐに向き合えば、オッド・アイは見下ろす位置にある。
少年の声で、老獪な口調で。
「さて 最も気になっておるのは グラシャ・ラボラスの 事であろう」
マルコシアスの言葉に、先ほどまでの狼の姿を思い出し、唇を引き結んだ。
滅びの力を持つ有翼の狼。
「アレイ こちらへ」
マルコシアスに導かれるまま、目の前の大きな階段を上っていった。
まるで貴族の屋敷のようなこの玄関ホールには見覚えがある。この広い空間も、中央に坐するリュシフェルの像も。手摺の装飾は多少違っているが、それは瑣末な違いだった。
「マルコシアス、ここはいったい何処なのですか?」
階段を上りきったマルコシアスは、そのまま廊下を歩みだした。翼が左右につっかえそうな狭い廊下の屋敷は、マルコシアスのために作られたものではないらしい。
もしここが王都ユダのクロウリー家と同じ造りなら、廊下の突き当たりには、バルコニーがあるはずだ。
「此処が何処か と聞いたな」
予想通り現れたバルコニーへの扉を開き、マルコシアスは振り向いた。
扉の向こうからは生命の気配のない、ひやりとした風が吹き込んできた。
マルコシアスの純白の翼が翻る。
「此処は」
翼の向こうに、荒涼とした大地が広がっていた。
この景色には見覚えがある。
もうずいぶん昔になるが、マルコシアスと契約した時に見た景色と同じだった。
「魔界だ」
マルコシアスは、魔界の大地を背景にバルコニーの手摺に腰かけた。
「或る時 天界に 悪魔が誕生した」
普段なら師匠の声を聞けば緊張するというのに、静かな語り口は不思議と耳に心地よかった。
それは、唐突に始まった魔界創生の物語だった。
「悪魔は数を増やした そして天使は 悪魔を滅ぼさんとした」
童話のように曖昧に、実際の歴史を目撃したはずの堕天の悪魔は淡々と語った。
「悪魔の滅亡に心痛めた我が主は 圧倒的な力で以て 魔界を創造し 悪魔と天使を別ったのだ」
「魔界を創造する……そんな事ができるのですか? たとえリュシフェルの力を以てしても並大抵のことではないのでは?」
そもそも、世界と言うのは創造できるものなのだろうか。悪魔の能力のように、人間の思考では及びもつかない何かが働けば可能であるのだろうか。
なにも分からなかった。
しかし、現に魔界は在る。
「我が主の力を以てしても すでに限界なのだ …… いや とうに限界は越えたやも知れん」
「それは……何度か聞きました。そして、それを防ぐための何かに、俺とあのくそガキが……グリフィスの末裔が関わっている、という事も」
「柱」
マルコシアスが口にした言葉にどきりとした。
「我の口からは 語れぬのだよ すまぬ アレイ それは世界の理なのだ」
「では、いったい誰に尋ねれば教えていただけるのです?」
「それを口にしていいのは 世界の創造主である 我が主 もしくは 同じ柱だけだ」
「他にも柱が存在するという事ですか?」
さらに尋ねたが、マルコシアスは悲しそうに微笑んだだけで答えてはくれなかった。
世界の理。
いったいそれは何なのだろう?
現在の問いへの答えの代わりに、マルコシアスは別の答えを口にした。
「魔界の滅亡を防ぐには 必要な手順がある 一つは アレイ お前と幼き娘が背負うもの」
「他にもあるのですか?」
「二つ目は 天界の力を 魔界へと移動する事だ」
言葉の意味が分からずに首を傾げると、荒野を背景にしたマルコシアスは真剣な眼差しで告げた。
「つまりは 天使の片割れを 魔界側へ 吸収する事だ」
「……!」
声を失った俺を見て、マルコシアスは目を伏せる。
「何を言えばよいのか 見当もつかぬ」
長きにわたって人の世を見守ってきた堕天の悪魔は静かに目を閉じた。
まるで懺悔をするかのように、祈りを捧げるように穏やかに、しかし、その顔には悔恨が満ちていた。
戦の悪魔マルコシアス。常にまっすぐ自分を導いてくれた師匠のこんな姿を見るのは初めてだった。
「……マルコシアス」
師匠の名を呼ぶのに、声が震えた。
もしかすると、初めて人間らしい姿を見せた悪魔に、改めて畏れを抱いたのかもしれなかった。
「貴方は、悪魔でありながら悪魔のグラシャ・ラボラスと対になるという。それは何故なのですか?」
「我が 対の悪魔を持ちながら 魔界へと下ったからだ」
「それは、グラシャ・ラボラスが誕生してからマルコシアスが悪魔になった、と言う事ですか?」
「そうだ」
マルコシアスは鷹揚に頷いた。
「悪魔は様々 全て合わせれば 五つに分けられる」
マルコシアスは体格の割に大きな手を目の前に広げた。
「まずは 天界で生まれた悪魔 堕天と混同される事もある 原初の悪魔」
「リュシフェルが魔界を創造する切っ掛けになった悪魔ですね」
「メフィストフェレス バアル・ゼブル ベルフェゴール などは 原初の悪魔に入る」
そうそうたる名が並んだ。
マルコシアスは、目の前に広げていた指を一本、畳んだ。
「グラシャ・ラボラス フラウロス ハルファス レラージュ ヴァレフォール」
次にマルコシアスは、5つの悪魔の名を挙げた。
「これらは 我が主が魔界を創造した折に 魔界で生まれた者たちだ」
マルコシアスは二本目の指を折る。
その名前の並びに、心の端がちりりと燃え上る感情を覚えた。
「彼らは 片割れを持つ」
「レラージュも片割れを……?!」
第14番目レラージュは破壊の悪魔とも呼ばれる強力な悪魔だ。そして、自分たちの後輩にあたる最期のレメゲトン、ライディーン=シンが使役する悪魔でもあった。
グラシャ・ラボラスとフラウロスはあのくそガキの手元に、ハルファスは自分が、そしてレラージュをライディーンが。
魔界存続の危機にあたって、レメゲトンがみな鍵となる悪魔と契約している――これは偶然なのか、それとも運命なのか。
残りの第6番目ヴァレフォールだけが未だ所在の知れぬロストコインだった。
「そして 次に生れたのは 我やクローセルのように 天界から移り住んだ 堕天の者」
マルコシアスは3つ目の指を折った。
「その後も多くの悪魔が魔界で誕生した」
4本目。
「では、あとひとつは何ですか?」
「それは 何時か知る事になるだろう」
答えを言わず、マルコシアスは指を折った。
おそらくこれ以上は聞いても無駄なのだろう。マルコシアスは悪魔、世界の理を知り遵守する、そして気が向いた時に講釈し、飽きれば終いにする。
最期の一つを口にしなかったのが気まぐれなのか世界の理なのかは分からなかったが。
マルコシアスが口を閉ざしたので、ゆっくりと今の話を噛み砕いていく。
グラシャ・ラボラスとマルコシアスは片割れ同士。そして、マルコシアスは天使だった時に片割れを得たらしい。
そこでふと疑問がわき上がる。
では、もし二つがぶつかり合い、マルコシアスが相手を吸収した場合、それは魔界の力になるのだろうか……?
恐ろしい想像を頭の中からかき消した。
魔界の存続のためにマルコシアスが消えねばならないなど、そんなことがあるはずがない。
あっていいはずがない。
すべても振り切って、まったく別の質問をした。
「そういえば、何故、俺はここにいるのです? マルクトを振り切り、ウリエルに助けられ、軍神アレスに拾われたものと思っていたのですが」
「芥子の所為だ」
「!」
「あれは 人間界より 魔界に近い性質を持つ ゆえに 魂が 魔界に引きずられたのであろう」
芥子とは麻酔に使われる植物の一種であり、赤の鮮やかな花をつけ、大きな果実をつける。少量ならば沈痛・麻酔作用があるが、大量に摂取すると昏睡状態に陥る。
また、芥子には強力な中毒性がある。
自らの意思にかかわらず、体が芥子の毒素を求める事になってしまうのだ。酷い中毒者になると、芥子を与えられなければ狂い死ぬほどの苦しみに襲われるという。
人間界にあるであろう自分の体がどんな状態になっているのか、考えたくもなかった。
暗い考えを振り切るようにぶんぶんと頭を振った。
「魔界にはこのように人間界の建物があるのですか?」
「これは我が 創ったものだ レティが生前過ごした 館に似せて」
レティ、とマルコシアスが呼ぶのは、初代クロウリー家当主にして初代炎妖玉騎士団長を務めたレティシア=クロウリーの事だろう。
女性の身で有りながらマルコシアスが認める剣士であったレティシア=クロウリー。彼女がいったいどんな人物であったのか、今では数少ない建国当時の文献と、悪魔に関する伝説の中にしか残されていない。
興味がわいた。
「マルコシアス、その、レティシア=クロウリーという方は、いったいどんな方だったのですか?」
そう問うと、マルコシアスはふいに柔らかな笑みを見せた。
「レティは お前によく似ていたよ アレイ」