SECT.16 アフロディテ
驚くほど体が重かった。そして、思考がうまく働かなかった。
しかし、気絶する前に負っていたはずの怪我の痛みはなかった。それが麻酔のせいなのかどうかはわからなかったが。
「申し訳ありません、クロウリー伯爵」
目の前には、ひどく悲しそうな顔をした金髪の少女がいた。
先ほど名乗った名をぼんやりと思い出す。
「……アフロディテ、だったな」
「ポースポア=エウカリスです。みな、ポピーと呼びますからどうぞその名で」
「では、ポピー。いくつか尋ねたい事がある」
「何なりと」
ともすれば停止しそうになる思考を必死で抵抗させながら一つずつ頭の中を整理していった。
「ここはどこだ? リュケイオンか?」
「はい。セフィロト国との国境を守る、軍神アレスの住まう都市『ミュルメクス』です」
そうか、なんとかリュケイオンに入る事には成功しているようだ……目の前にいるのがオリュンポスである、という点を除いて。
「この場所は……」
「軍神アレスの居城です」
「俺をセフィロト国に引き渡すのか?」
「いいえ、セフィロト国は我が国との不可侵協定を反故にしました。政治上の理由で、貴方は絶対にセフィロト国に渡しはしません」
断言する口調。
オリュンポスの一人、アフロディテの言う事だ。信じてもいいだろう。
「そうか、感謝する」
ならば、多少ゆっくりと休んでもいいだろうか。
「最後に一つだけ聞く」
「はい」
「俺と同じレメゲトンがセフィロト国に捉えられたという噂はないか?」
「ありません」
それを聞いて、心底ほっとした。
世話を頼んだルゥナーとモーリのおかげか、あのくそガキは大人しくしていたようだ。
あとはもういい。
騒ぎが落ち着いたところで国境を越えてきたアイツと合流すればいい。
――必ず、生きて、リュケイオンで会おう
「俺の体が異常に重いのは、芥子のせいなんだな?」
そう聞くと、ポピーと名乗ったオリュンポス『アフロディテ』は暗い顔で頷いた。
「……はい」
「そうか」
これからの事を思い、気が滅入ったが、あのくそガキがセフィロトにつかまっていないのならば、いまはそれだけでいい。
思わず唇の端を上げて微笑していたらしい。
ポピーの向こうにいた赤髪の少女が不機嫌な表情で俺を見下ろした。
「何がおかしいんだ?」
「可笑しくはない……安心しただけだ。アイツが無事ならそれでいい」
それを聞いた赤髪の少女は眉を寄せた。首を傾げると、大きく二つに括った髪がゆらりと揺れた。
「……変なヤツ」
ふい、と目をそらした。
ポピーはくすくすと笑った。
「凄まじい精神力ですね。芥子の事を知らぬはずがないというのに……さすが、悪魔騎士アレイスター=クロウリー伯爵。僕も貴方のお噂は多く耳にしています」
金髪を揺らし、ポピーは微笑んだ。
「ミリアが迂闊な事をして本当に申し訳ありませんでした。必ず貴方を元気な姿でラック=グリフィス女爵のもとへお送りしましょう。そのために、僕も協力を惜しみません」
「ポピー、必ず返すって……っ!」
「ミリア、反省して。いい機会だからアレスにも謝るんだ。もうこんなことはおしまいにしよう」
ぴしゃりと言い含めたポピー。
「ご安心ください。僕はこれでもアフロディテですから、それなりの権力を持っています」
「……なぜ、俺に加担する?」
「そうですね、貴方がこれまでに聞いた噂どおりの人物だったからでしょうか。僕が信じて、加担するに値する人格の持ち主だという事です」
「……?」
いったいどんな噂だ。
眉を寄せると、ポピーは笑った。
「まあでも、一番の理由を言うならミリアの為ですけどね」
「……ミリア?」
首を傾げると、赤髪の少女はむすっとした顔でぼそりと言った。
「……私の名だ。ミリアリュコス=エリュトロン」
天井の紋様に似た複雑な装飾を施したセパレートの上下、腰に漆黒の布を巻き、鋼のサックを手に装備した姿はまるで拳闘士のようだった。左わき腹、臍の横あたりに同様の紋様を象った刺青をしていた。
彼女は何者だ?
考える前に、ポピーは笑った。
「眠ってください、クロウリー伯爵。本当なら意識を保っているのだってやっとのはずだ。お願いですから、もうお休みください」
正直、ポピーの言うとおりだった。
芥子のねっとりと纏わりつくような香りが全身に絡みついて強く縛りつけている。
「ミリア、真言を」
「……」
ポピーの呼びかけでミリアと呼ばれた赤髪の少女がすっと進み出た。
「……寝ろ、アレイスター=クロウリー」
ぐわん、と頭の中に声が響き渡った。
「こ、の、声……何を……」
「眠るんだ」
強力な力を持ったその声は、俺の意識をはるか奥底へと叩き込んでいく。
完全に沈みこむ前に、ポピーとミリアの会話がわずかに鼓膜を揺らしていた。
「ミリア、これからの話をしよう。アレスを呼んで」
「嫌だっ。アレスは私のものだ!」
「ミリア!」
「嫌だ……もう絶対に、嫌なんだ」
「……」
「失望されるのは、もう嫌なんだ……」
ふ、と夢の中だという事に気づく時がある。
現在もその感覚だった。視界ははっきりとしているのに、聴覚が半分麻痺したように現実から遠い感覚。
目の前には、吹き抜けのホールとリュシフェルの像、そして豪華なシャンデリア。
この景色には見覚えがる。
足音もなく、ふいに背後に気配を感じて振り返った。
「……マルコシアス」
自分の声が、壁一枚を挟んだ向こう側で響いているかのように遠かった。
「ここで会うのは 二度目だな」
音もなく背後に佇んでいたのは、魔界屈指の剣士だった。
「そうですね」
一度目は、再契約の時だった。
どこか、旧王都ユダ=イスジュデッカにある自分の実家に似た雰囲気のこの場所がいったいどこなのかは知れなかったが。
炎妖玉と碧光玉のオッド・アイが、ほの暗い薄明かりの中で揺れていた。
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