SECT.15 軍神アレス
数十の騎馬隊が俺とマルコシアスを囲むようにしてずらりと並んだ。
そしてその中央には、ひときわ立派な体躯をした黒馬に乗った男性が絶対的な存在感を放っていた。
あれが軍神アレスだろうか。
漆黒の衣を翻し、深紅の髪を風になびかせながら、その男性は馬上から俺たちを見下ろした。
長い赤髪を左側だけ三つ編みにし、右は流している。しかし、顔立ちが非常に珍しい。リュケイオンでは、色が白く彫の深い顔立ちをした民族が大半だ。この男のように細くつり上がった目とすっきりとした目鼻は、典型的な東方部族の面立ちだった。
その隣にも、負けず劣らず立派な体躯をした茶色の髪の男が控えている。リュケイオンの人間らしい、彫の深い顔立ちと波打つようにうねる茶色の髪。そして、俺に向かって突き付けられたのはよく鍛えられた体躯に似合う大槍だった。
赤髪の方が主人なのだろうか、少し後ろに控えていた茶髪の方の男がすっと進み出て問いかけた。
「何者だ、貴様」
高圧的な態度も見た目通り。
「俺は故グリモワール王国のレメゲトン……アレイスター=クロウリーだ」
「レメゲトンだと?!」
周囲がざわめいた。
赤髪の男は、眉ひとつ動かさずにじっとこちらを見ていた。
確かに、この男からは天使や悪魔に似た不思議な力を感じた。
大槍を突き付けた男は、警戒を緩めず、続けざまに尋ねた。
「では、その狼は?」
「俺が召喚した悪魔だ……名はマルコシアス」
悪魔、と言った瞬間、周囲を囲んだ騎馬隊からさらなるどよめきがわき上がった。
ぽたり、と両腕の指先から血が滴り落ちた。
「闘う意思はない……何より、闘う力は残っていない。セフィラが襲ってこない限り、リュケイオンを荒らす気もない」
その言葉を信じてもらえる保証は全くなかったが、こうするしかなかった。下手に逃げようものなら、さらなる追手をかけられてしまう事になってしまう。
茶髪の男はじろじろと舐めまわすように俺とマルコシアスを観察した。
が、余裕がないのは一目で分かったのだろう。
「……セフィラに追われ、この地に逃れ着いたか。相当な深手を追っているようだな。闘う力がない、というのは信じてやってもいいだろう」
男は、指示を請うようにふっと赤髪の男を見た。
赤髪の男は軽く頷く。
「アレス様の許可が下りた。この場での処刑は見送る事にしよう」
男は槍を収めた。
「感謝する」
この場で殺されないと宣言されただけでもかなりほっとした。
たとえマルコシアスの加護があろうとも、この場から逃げる事ができるかどうかギリギリのラインだ。しかも、得体の知れぬ軍神アレスの事もある。
下手な抵抗はせぬ方がよいだろう。
茶髪の男はぎろりと睨みつけた。
「では、ただの不法侵入だ」
茶髪の男は、武器を収めたのもつかの間、そう言って周囲に合図を出した。
騎馬隊が一斉に各々の武器を構える。
「……!」
闘うか、従うか……?
迷ったのはつかの間、赤髪の男が細い目をさらに細めて指を空に振った。
そして、慣れない発音の単語を発した。
「捕獲」
自分の周囲に何かが広がった感覚があった。
「?!」
しかし、いったい何が起きたのかを理解する間もなく、意識がぶつりと途切れてしまった。
嗅いだ事のない香りに鼻腔をくすぐられ、意識が覚醒した。
これは何だ――甘く香ばしい、ねっとりとしたその香りは脳髄を麻痺させる。
ぼんやりと、ほんの少しだけ目を開いた。
「まだ起きるな」
甲高い少年とも、少女ともつかぬ幼い声がした。
まるで毒でも浴びたかのように、全身の感覚が全くない。
視界には辛うじて真っ赤な天井が映った。そこには、朱色に黒で染め抜いた見た事のない紋様が刻まれている。円と三角形を二つ組み合わせた図形を基調とする悪魔紋章とは趣の違う、くねくねとのたうつ蔦が絡まるような複雑な形をしている。
「起きるな」
有無を言わせぬ声に抑え込まれるように意識がまた落ち込んでいく。
その声の方向を見ようと首を回せば、そこにいたのは声に似合う、ちょうど年のころ10代の半分に至るほどの少女だった。高い位置で二つに括った燃えるような赤髪は、最期のレメゲトンであるライディーンを思い起こさせた。内に秘めた思いを燻らせている炎の色だ。
そのまなざしに籠る悲哀に、なぜか心が揺さぶられた。
「……お前、は……」
「寝ろ、アレイスター=クロウリー」
まるでその言葉自体に力があるかのようだ。
瞼が重くなり、視界がかすみ、意識が遠ざかる。
「まだ起きるな」
その声だけを聞き、再び意識を手放した。
次に目を覚ましたのは、全身を暖かな光が包んでいたからだった。
リュシフェルの力に最も似た癒しの力が全身の至る所から流れ込んでくる。
「アフロディテ、貴方の美しさと優しさに感謝します」
静かな声がして、光が徐々に引いていく。
甘いねっとりとした香りが鼻をつく。
「ミリア、もういいよ」
ぼんやりとした記憶の中のものと同一の朱色の天井が視界いっぱいに広がった。
「あ、気がつきましたか」
声の方を見ると、輝く金髪の少女がこちらを覗きこんでいた。少しウェーブがかかった金髪は肩にかかり、少女の動きに合わせて柔らかに揺れる。同じように、白の法衣がゆるく彼女の動きに揺れた。
「相当な深手だったのでアフロディテの癒しを施しましたが、まだ動かないでください」
「……君は」
「現職のオリュンポス第五番アフロディテ、ポースポア=エウカリスです。はじめまして、アレイスター=クロウリー伯爵」
伯爵、などという地位はグリモワール王国が滅びた時になくなったと思っていた。
「完全に回復するまで、もう少しお休みください。まだ芥子の麻酔も効いているはずですから」
芥子の麻酔。
そうか、この東方の薬のような、絡みつくような独特の香りは芥子を焚いた時の香りだ。
全身が痺れたように動かないのもそのせいか。
「明日にはおそらく動けるでしょうから、それまでは……」
「無理だ」
少女の言葉を、鋭い声が分断した。
曖昧な意識の中で聞いた、あの威圧感のある声だった。
金髪の少女が振り向く。
「どういうこと? ミリア」
「……ずっと芥子を焚いていたんだ。簡単に動けるはずがない」
「ずっと? ここへきてから三日もたってるのに、その間ずっと芥子を?」
「……」
「ミリア!」
まるで悲鳴のような声が耳をついた。
「そんな事をしたらこの人はっ……!」
「……大怪我だったんだ。私に治療する術はないし、痛みを和らげるにはそれしか」
「バカっ」
「だってアレスの時もそうやって」
「彼がどれだけ苦しんだか分かってる?」
それ以上の返答はなかった。
代わりに、金髪の少女は大きなため息をついた。
「僕がくるのを待っていてくれたらよかったのに」
金髪の少女の向こうに、赤髪を二つに括った少女の姿があった。
アフロディテを名乗った金髪の少女は、赤髪の少女を睨み、諭すような調子で呟いた。
「ミリア、またアレスを増やすつもりなんだね」