SECT.13 国境ヲ越エテ
ああ、そうか――
マルクトの言葉で、さまざまな出来事がすべて腑に落ちた。
セフィラにとって、王とは人間のネブカドネツァル王を指す言葉ではない。
「なるほど、『セフィロト国』と『自分の意思』をしきりに分けたがるわけだ……」
彼らの指す王とは、『天界の王』――すなわち、メタトロンの事なのだ。
それはそうだろう。彼らがしきりに名を口にし、従う『王』というのが、あれほど稚拙で、感情をむき出しに分かりやすい現王ネブカドネツァルのはずがない。
旧グリモワール王国のゼデキヤ王を、そしてミュレク殿下を思い出す。
お二方と、遠縁というだけで空座だった王位についたネブカドネツァル王を比べる方が失礼だ。
それでもグリモワール王国が戦争に負けたのは、ネブカドネツァル王よりも絶対的な王がその頂点にいたからなのだろう。
「すべてはメタトロンの意思か」
慈悲と称して魔界を滅ぼそうとするのも、俺をこの場で殺さずに公的に裁こうというのも、旧グリモワール国土に厳しい悪魔崇拝禁止令を出したのも。
そして天使とセフィラは、メタトロンの名に従ってすべての行動を決定している。
セフィロト国は天使の国。
それは、嘘でも誇大でも何でもない。
「オレの力は――サンダルフォンの能力は強すぎて、うまく使えないんだ」
左腕に次々ナイフが突き刺さる。
「ぐっ……」
いつでも俺たちを殺す事が出来る、と言ったのは本当なのだろう。
最も、そんな簡単にやられてやるつもりもなかった。
マルコシアスの加護を確認し、剣を鞘に収めた。
左腕は体の横にだらりとぶら下がる。
サンダルフォンが持つ能力は『創造』。その力は、何の前触れもなく訪れる。まるでそう、滅びの力のように――
「ハリネズミにしてやろう」
左腕の次は右腕。
「ぐあぁっ」
鋭い痛みが両腕を貫いた。
痛みの中で、呼吸を整える。
集中しろ。
悪魔の力を感じ取れ。
「次は足だ。動けなくして、全国民の前に引きずり出してやる」
両腕は動かせる状態ではない。
しかし、俺にはマルコシアスの加護がある。
背の翼を大きく広げた。
感覚を最大限に開く。
人並み外れた五感を持つあのくそガキではないが、感じて、避けるしかない。
「上だ アレイ」
背後から降ってきた声に反応して、反射的に急上昇した。
次の瞬間には、先ほどまで自分がいた空間に数十本の刃が出現していた。
「マルコシアス!」
「全く 見ておれん」
漆黒の毛並みの狼が庇うように立ちはだかった。
「構うな 飛べ 東へ向かえ」
「はい」
マルコシアスの声で弾かれるように飛んだ。
「逃げるのか、アレイスター=クロウリー」
逃げる、という言葉に敏感に反応した俺を、マルコシアスの厳しい言葉が止めた。
「死ぬぞ アレイ」
はっとした。
必ず、生きてリュケイオンで会おう――そう伝えたのは、他でもない自分だから。
しかし、一瞬の躊躇がまずかったのだろう。
次の瞬間には左足に鋭い痛みが走っていた。
「止まるな アレイ」
すでに両腕と左足をやられている。
これ以上に傷を負い、血を流すわけにはいかない。
マルコシアスと共に、戦線を離脱した。
飛び上がると、完膚なきまでに破壊された広場が見えた。あちらこちらから悲鳴と泣き声のような叫びが上がっている。
「振り向くな」
マルコシアスの厳しい言葉に、俺はそのすべてに背を向けた。
「留まるな」
マルコシアスの声を聞きながら、ただ、国境線だけを目指した。
国境に連綿と続く壁からは、文字通り雨のように国境警備兵たちからの矢の嵐が降ってきた。
「逃さんぞ、アレイスター=クロウリー。戦争で止めを刺し損ねた、今度は確実に捉える」
マルクトの声が追ってきた。
出血と痛みで意識が一瞬薄らいだ。
が、五感とは違う、俺の中を流れる悪魔の血が教えてくれる。
マルコシアスの血に直接流れ込んでくる悪魔の気配を、天使の気配を読んだ。
「避けろ アレイ」
無意識のうちに重心をずらし、マルクトの攻撃を避けていた。
「振り返るな」
揺らぐ意識の中に、マルコシアスの声だけが聞こえる。
今度は頭上に気配が追ってきた。
マルクト本体か?!
「見上げるな」
無数の天使の気配。
これは――矢?
国境壁から降り注いだ矢と、天空から襲ってきたマルクトの矢。
周囲を囲まれた?!
「臆するな」
マルコシアスの声にはっとする。
「真っ直ぐに 進め」
真っ直ぐ。
目の前には視界を埋めるほどの矢が迫っているというのに、マルコシアスは、この矢の嵐に突っ込めという。
しかし、躊躇はなかった。
誰よりも信頼する師匠の言葉だから。
「退くな アレイ」
再び前を見つめ直し、国境へ向かって矢の嵐へと突っ込んでいく。
その瞬間、降り注いだ矢が一瞬にして消滅した。
マルコシアスの滅びの力だ。
その隙をつき、マルコシアスと共に国境線を越えた。
国境を越えたからといって攻撃がやむわけではないが、心のどこかで安堵した。
――必ず、生きてリュケイオンで会おう
背後からはまだ矢の雨が追ってくる。
「留まるな 退くな 進め」
マルコシアスの声と共に、すべてが消滅する。
「まだだ 止まるな サンダルフォンが 追っている」
国境を越えて、壁から離れてさらに飛ぶ。
が、負傷でかなり速度が落ちている。このままでは追いつかれるのは時間の問題だ。
しかも――
マルクトの気配と反対側から新しい天使の気配が近づいていた。
「新手か」
マルコシアスが呟いた。
「ケテルか……それともティファレトか……っ」
いずれにせよ、このまま挟み打ちだ。
絶体絶命。
「来るぞ」
マルコシアスの声で空中に停止した。
ぽたぽた、と指先から血が流れ落ちた。
背後から金冠を背負ったマルクトが、そして、その逆から純白の翼を翻した天使がやってきていた。
四枚の翼を広げ、純白の天使に似合わぬ漆黒の衣をまとった天使が、俺とマルコシアスの目の前に降臨した。
天使らしい、見事な金髪。しかし長く伸ばした前髪がその顔の上半分を隠していた。
辛うじて見える口元が笑みの形に歪んだ。
それは慈悲深い天使ではなく、あたかも何か面白い事を見つけた悪魔のようで。
「そろそろやめろヨ、サンダルフォン。ここはリュケイオンだぜ?」
天使と呼ぶにはあまりに砕けた口調で。
天使らしくない姿をした天使は、金髪の間から深紅の瞳をちらりと覗かせた。