SECT.10 ロノウェ
こうなることが分かっていながらどうして悪魔を召喚してしまったのか。
それは、自分の考えなしにもあるし、もう一つ理由がある。
あのくそガキを逃がすためだった。
フェリスに発見された時点でマルクトが出てくるのは時間の問題だった。だからこそ、俺はフェリスを引きつけて悪魔を召喚するのは当たり前といえば当たり前の処置だった。
あいつが慕っているモーリとルゥナーの元へ行かせたのだ、おそらく彼らがくそガキに対して協力的に働いてくれるだろうことは予想がついていた。
きっとそういった理由に気づいたくそガキは憤然と抗議するだろうがな。
その時の表情を思い浮かべて唇の端で微笑んだ。
「まさかここへきて自ら悪魔を召喚するとはな。難攻不落だったはずのディファンクタス牢獄を破ってライディーン=シンを逃してから半年、セフィロト国中を逃げ回ったというのに、今になって何をそれほど生き急ぐ必要がある?」
マルクトの足元に転がっていたフェリスが、ふっと消失した。
おそらくマルクトが天使の力で転送したのだろう。
「悪魔騎士アレイスター=クロウリー……オレ自らの手で処刑してやろう」
すさまじい閃光と共に、マルクトの背には壮大な金冠が出現した。
いや、金冠ではない。数十、数百の翼が折り重なる様にしてまるで輪のように見えているだけだ。
セフィラ第10番目、王国の天使サンダルフォン。
天界の長と呼ばれる第1番目メタトロンと同等の力を持つというその天使を前に、思わず抜刀していた。
全身にマルコシアスの加護がいきわたっている。
手加減は不要。
「ハルファス! サブノック!」
さらに二人の悪魔を召喚すると、テントの中だというのにすさまじい風が吹き荒れた。
「ひゃははは! サンダルフォンか! 戦争以来だな! フラウロスにやられたんじゃなかったのか!」
風と共に舞い降りてきたのは、第38番目ハルファス。
戦争時から契約している、マルコシアスと並び称される戦の悪魔だ。さらに風を操る能力も有しており、同じ風の属性だった第8番目、栄光の天使ラファエルを吸収した今では完全体となっている。
10代半ば過ぎ程度の生意気な少年にしか見えないが、現在自分が契約している悪魔の中では群を抜いて強かった。
そのぶん、扱いづらい悪魔でもある。
「黙れ ハルファス」
甲高い少年の声を分断したのは、落ち着いた壮年騎士の声だった。
獣の頭部を象った兜とくすんだ青のマントを身に付けた彼は、第43番目サブノック。自分の剣ももちろんそうだが、ハルファスはじめ多くの悪魔に武器を鍛え、与えてきた武器の悪魔だった。
無論、本人も凄まじい腕を持つ剣士だ。
「久しいな クロウリーの若造 たまに呼び出したかと思えば ずいぶんと面倒事に巻き込まれておる」
ため息でもつきそうな勢いでサブノックは剣の柄に手をかけた。
「仕方あるまい もはや魔界の存続は見えぬが 最後まで主の酔狂に付き合うと言った その言葉を 違えるつもりはない」
剣の鞘からまがまがしい気が漏れだしている。
サブノックの剣は、傷口を腐らせるという。
そんなサブノックの様子を見て、マルコシアスも触発されたようだ。
「ふふ ならば我も 本気でかかろうか」
さらにマルコシアスがふわりと地面に降り立った。
第35番目マルコシアス、第38番目ハルファス、第43番目サブノック。
戦争前から共に闘ってきた3人の悪魔に囲まれ、俺は長剣の切っ先をマルクトに向かってつきつけた。
自分のすぐ隣には、マルコシアスが立つ。
魔界きっての剣の使い手は、王国の天使サンダルフォンを前にしてくっく、と楽しそうに笑った。
「我がこの姿になるのは 何時以来だろうな」
マルコシアスの姿がぼんやりと揺らいだ。
伝承には聞いたことがある。
第35番目マルコシアスは、翼の生えた狼の姿にも変化できるという。
だが、契約してから何年もたつが、その姿を見るのは初めてだった。
「ひゃはは! 初めて見た! 初めて見た!」
嬉しそうにハルファスが叫ぶ。
マルコシアスの体が見る見るうちに変化していく。両手にあった剣は消失し、人間の姿をしていた全身は大きく前傾してみるみる獣の姿になった。
頭上の金冠は消失し、背には純白の翼だけが残った。
「こうなれば もはや手加減は出来ぬぞ」
少年の声で、老獪な口調で、目の前に現れた漆黒の狼は告げた。
闇を思わせる漆黒の毛並み、それと不釣り合いな純白の大きな翼。口元から覗いた歯は鋭い。漆黒の中に、炎妖玉と碧光玉の瞳が煌めいていた。
その姿に見覚えがある気がして記憶をたどった。
そして、答えに気づいて愕然とした。
「マルコシアス、その姿は」
すべてを言う前に、狼姿のマルコシアスは純白の翼をばさり、と一振りした。
「アレイ 我は剣技以外にも力を有している その力とは」
頑強な獣の姿をした第35番目の悪魔マルコシアスは、炎妖玉の瞳に哀愁の光をこめて、こう告白した。
「『滅び』だ」
全身が総毛だった。
滅びの力――その名は忘れることも出来ない。
あのくそガキの左腕を喰らい、元東の都トロメオを崩壊寸前まで導き、ディファンクタス牢獄を完膚なきまでに破壊した第25番目の悪魔グラシャ・ラボラス。
そして、ねえさんを殺し、たった一人でトロメオを陥落させ、さらには自分とくそガキを平和な生活から引き剥がした神官の一人ケテルが召喚する天界の長メタトロン。
双方が共通して持つ最強の能力が『滅び』だった。
殺戮と滅びの悪魔の名を出した時のマルコシアスの嫌悪の表情、そして瓜二つと言ってもいい狼の姿、そして滅びの能力。
――まさか
最悪の事態が脳裏をよぎる。
「アレイ」
優しい声が狼姿の悪魔から漏れる。
「おそらく 考えている通りだ」
その言葉に、最悪の予想に裏切られなかった事を知る。
「何故です、マルコシアス。何故悪魔でありながら悪魔の片割れを――」
「すまぬ アレイ」
悲痛な謝罪は心を抉った。
「いつか 話さねばならぬと 思っていた」
しかし、漆黒の獣は口を開こうとしてやめた。
「長い話になる 今は生き延びる事のみを 求めよ」
「……分かりました」
なぜ悪魔であるマルコシアスが、同じ悪魔のグラシャ・ラボラスと同じ姿をしているのか。
それは、相手が片割れであるからに他ならない。
しかし本来片割れと言うのは天使と悪魔であるはずだった。少なくとも、これまで出会ってきた悪魔たちはそうだった。
フラウロスとカマエル。
ハルファスとラファエル。
彼らは互いを消す存在として認識し、激しく反発しあうのだ。
自分の中にあるマルコシアスの血。くそガキの手に埋め込まれたグラシャ・ラボラスのコイン。
今になってモーリの言葉がよみがえる。
――貴方達の魂を握るのは、その性質が同じでありながら、全く正反対のモノです
もしかすると、あの言葉は的確に真実を射抜いていたのかもしれない。
思わず、右腕に刻まれた紋章契約悪魔の名を呼んでいた。
「……ロノウェ」
とたんに、周囲に風が吹き荒れ、目の前に一人に悪魔が下りてきた。
複雑な模様が入った長い尾を振り、全身に刺青をいれた細身の少年は、額に大きな赤い目をもっていた。大きなサングラスで本物の目は隠している。
「なんですかぁ 僕に何の用ですかぁ 僕 戦いとか無理ですよぉ」
「違う。伝言を頼みたい」
「またですかぁ 最近 僕 働きすぎな気がするんですけどぉ」
第27番目ロノウェ。疾風の速度で遠く離れた人間にメッセージを届ける事の出来る悪魔だ。
普段から義兄上や陛下、革命軍への伝達に利用していた。
「ロノウェだ! ロノウェだ! 相変わらずひょろっちぃな! 自分の風で飛ぶんじゃないのか! ひゃはははは!」
「ハルファス 煩いんだけどぉ お前みたいな野蛮なヤツとぉ 一緒にしないでくれるかなぁ」
「ひひひ! こっちから願い下げだ!」
同じ風の属性だというのに、ハルファスとロノウェは仲が悪かった。
とはいっても、喧嘩を始めるという事はなく、ハルファスが一方的にロノウェをバカにするという構図だが。
はぁ、と一つ溜息をついてから、ロノウェに『3人分』の伝言を頼む。
「分かったけどぉ まぁ イってくるよぉ」
とん、と地を蹴ったロノウェは、次の瞬間に消え去っていた。
「別れのメッセージは送り終わったか? アレイスター=クロウリー」
ロノウェに伝言を頼む間律義に待っていたらしいマルクトがどこかバカにするような口調で言った。
「ああ、十分だ」
敵はサンダルフォンを召喚した神官、マルクト。
その力の正体は知れず、ただ強大だという事だけが伝承に残っている。
自分の力でどこまで戦えるか。
左手で剣を握り直し、切っ先を突き付けた。
「手加減はしないぞ、マルクト」
するとマルクトもにやりと笑った。
「最初から全力で来い、レメゲトン」
国境都市リンボで、戦いの火ぶたが切って落とされた。