19 半人前以下の私たち
ジークベルトが当主代理となって、1年ほどが経過した。
1年ぐらいで戻るという話が本当なら、彼の両親は、そろそろ帰ってくるはずだ。
届くのは絵葉書だけで、危険を知らせるようなものは送られてこない。
なにかあれば、流石にこちらにも知らされるはず。
だからきっと、二人は無事に帰ってくる。私は、そう信じたい。
「アイナ」
「んむ」
隣に座るジークベルトに頬をつつかれる。今は、休憩中の彼と並んでソファに座っているところだった。
彼が子供のころから使っているこの部屋には、私との思い出の品が散りばめられており、なんだかくすぐったい気持ちになる。
感触が気に入ったようで、ジークベルトは本格的に私の頬をいじり始める。
「ジーク?」
「気持ちよさそうだったから、つい」
「実際に触ってみて、どうでしたか?」
「ぷにぷにしてたよ」
「もう……」
ジークベルトは冗談めかして笑う。きっと、不安が顏に出ていた私を気遣ってくれたんだろう。
相変わらずよく気が付く優しい人だ。
「えい」
こちらからも、ほっぺたを触り返す。私は彼と違って遠慮がないから、ぐに、と掴んでいけるところまで伸ばしてみた。
男の人のわりに、意外と伸びるのだ。
いつもかっこいい人の、ちょっと間抜けな顔。こんな顔を見ることができるのは、私だけ。
「ふふっ……」
「いひゃいよ……」
「こうすると、顔のよさも台無しだね」
くすくす笑っていると、されるがままだった彼が、急にむすっとした顔になる。
……もしかして、やりすぎた? 怒らせてしまったのだろうか。
そろそろ手を離そうかと考え始めたとき、彼の手が、私の腰にまわされた。
そのまま私をクッションに沈め――
「休憩時間は残ってるんだよ、アイナ?」
「……!」
勝ち誇ったような笑みを浮かべた。
これはまずいと直感する。ジークベルトのスイッチを入れてしまったようだ。
「ま、待ってジーク。今、昼間……」
「待たないよ」
ジークベルトはにこにこといい笑顔をするだけで、どいてくれそうにない。
こうなった彼から逃げることはできないって、私はよく知っている。
私も嫌ではないし、覚悟を決めてしまおう。彼を受け入れるつもりで背に手を伸ばそうとした、そのとき――
「ジークベルト様!」
勢いよく扉が開かれる音と、男性の声が耳に届いた。
シュナイフォード家の使用人が、ノックもなく私室のドアを開けたのだ。
許可を得る余裕すらないことが起きたのだと、すぐに理解できた。
「どうした」
ジークベルトの声は、いつもより低い。
彼はいつの間にか身だしなみを整えて立ち上がっており、きりっとした顔つきになっていた。
さっきまで私を押し倒していたくせに、この切り替えの早さは流石だ。
私も衣服を整えて、身体を起こす。
息を切らせた使用人は、乱れた呼吸を整えながら、絞り出した。
「旦那様と、奥様が……」
続く言葉は、いい知らせか、悪い知らせか。一瞬の静寂が、永遠のように感じられた。
「お二人が、無事に戻られました……!」
無事に、戻ってきた。今、確かにそう聞こえた。
「ジーク……!」
喜びのままに、大好きな人の名前を呼んだ。
名前を呼ばれたその人は、深く息を吐き、どかっとソファに腰掛けた。
「ジーク、よかっ……」
よかったね。言い切る前に肩を引き寄せられ、言葉が途切れた。
私からも彼に寄り添うと、向き合う形になって抱きしめられる。
「よかった……。本当に、よかった……」
彼の手も、声も、小さく震えていた。
この人は、いつだって優しく微笑んで、冗談を言って、私に触れて……。
そうやって過ごしていたって、本当は不安で仕方なかったはずだ。いっぱい甘えてくる夜だってあった。
家族の無事を祈りながら過ごす日々は、彼の心にたくさんの負荷をかけていたはずだ。
ジークベルトは、ようやくその苦しみや痛みから解放されたんだ。
私を抱く腕には、少し痛いぐらいに力が込められている。
優しい彼にしては珍しいことだった。それだけ、今はなにも考えられないんだろう。
「ジーク……。もう大丈夫。大丈夫だからね」
私も、いつもより強く彼を抱きしめた。
彼の力には及ばないけれど、少しの痛みは与えているかもしれない。今はきっと、痛いぐらいでちょうどいい。
その方が、私がここにいるって、確かに伝わるだろうから。
どのくらいの間、そうしてくっついていたんだろう。
知らせを聞いただけで胸がいっぱいになってしまった私たちは、二人の世界に突入しかけていた。
彼のご両親が帰ってきた、ということは……つまり、二人ともこの家にいるわけで。
息子の出迎えがなかったら、向こうから様子を見に来るのは当然のことだ。
「ジークベルト」
咳払いとともに、落ち着いた男性の声が耳に届く。
この家で、当主代理を呼び捨てにできるのは当主ぐらいのものだ。
「父上……」
抱き合ったまま、二人揃って顔を上げた。
そこには、なんとも難しい顔をしたエーレンフリート様と、嬉しそうに口元を抑えるフロレンティーナ様の姿があった。
「いつまで経っても出迎えに来ないから、こちらから来てしまったぞ」
「も、申し訳ありません……」
バツの悪そうな顔をして、ジークベルトが立ち上がる。
「おかえりなさい。父上、母上」
「ああ。ただいま、ジークベルト。お前を待つあいだ、少し話を聞かせてもらった。よく頑張ったな。だが、まだまだ半人前以下だ」
「帰ってきて早々手厳しいなあ……。そもそも、父上が急にいなくなるからではありませんか」
後半は、明らかに拗ねた声色だった。そのまま父と息子の言い合いが始まる。
私がそこに混ざれるはずもなく。ジークベルトの後ろに控えて、成り行きを見守った。
互いに言い尽くした頃、エーレンフリート様が少し胸を張り、ジークベルトにまっすぐに向き合う。
「私が帰ってきたからには、今までのようにはいかないぞ。この家を背負える男になるまで、厳しく指導してやる。覚悟しておくように」
「……はい!」
ジークベルトの声には、喜びの色が滲んでいた。
――よかったね、ジーク。
姿勢を正す彼の背中に向けて、心の中でそう言った。
場が落ち着いた頃を見計らって、フロレンティーナ様が私に近づいてきた。
「アイナさん」
「は、はい」
「あなたがジークベルトを支えてくれたのね。ありがとう。二人で一緒に住んでいることも聞いたわ」
フロレンティーナ様の言葉にはっとする。
すっかりシュナイフォード邸の住人になっていたけれど、ご両親の許可は得ていないのだ。
彼の家族が帰ってきた今、私はラティウス家に戻るべきなのかもしれない。
「あの、フロレンティーナ様。私、実家にもど……」
戻る、とは言っていない。戻ったほうがいいでしょうか、と聞くつもりだった。一応、これでも婚前なのだ。
「アイナ!?」
言葉の途中で、ジークベルトがぐるんとこちらに顔を向ける。即座に距離を縮め、私の前でぷるぷる震え始めた。
「ア、アイナ、今なんて……。も、もど……」
「えっと……」
「アイナ……」
黒い瞳を潤ませ、眉を下げ。
彼の顔が上にあるはずなのに、上目遣いで見上げられている気分になってくる。
今、私の目の前にいるのは、当主代理? 王位継承権を持つ人? 理想の王子様みたいだと評判の男性?
……どれも違う。甘えん坊で寂しがり屋な、ただのジークベルトだ。
今も昔も、私はこの子犬のような顔に弱い。
「アイナさんがいなくなったら、ジークベルトがダメになりそうねえ」
「ダメになります」
「あら、即答」
「アイナ……。ずっと一緒にいるって……。そばにいるって言ってたじゃないか……」
「あらあら」
ジークベルトは、すがり着くように私に抱きついた。自分の両親に見られていることなんて、おかまいなしだ。
大丈夫だよ、一緒にいるよ。そう言ってあげたいけれど、私に決定権はない。
頷くことはせず、彼の背を撫でるにとどめた。
エーレンフリート様たちが、小声で話しているのがわかる。
話がまとまったのか、お二人はこんな風に言ってくれた。
「……アイナさん。君さえよければ、これからも息子と一緒にいてやって欲しい」
「一緒に暮らすなら、本邸より離れの方が落ち着くんじゃないかしら?」
「父上、母上……。アイナ、どうかな?」
そう聞いてくる彼は、どこか不安そうで。
私は、バカね、と思いながら、いつだかと同じ言葉を繰り返した。
「……嫌だって言われても、一緒にいるよ」
***
こうして、私とジークベルトは離れへ移動し、引き続き一緒に暮らすことになった。
エーレンフリート様に厳しく指導されているようで、彼は疲れた顔で戻ってくる。
けれど、なんだか嬉しそうにも見えた。
私は私で、フロレンティーナ様による奥様教育を受けている。
二人揃ってくたくたのこともあるけれど、一緒に溜息をつけば、くすくすと笑い合えた。
自分たちの力のなさにしょんぼりする日もあった。たまには喧嘩もした。
そうして、少しずつだけど、確実に成長していた。
一人前と認められるまで、あと何年かかるかわからない。
けれど、そう遠くないうちに、認めてもらえるって信じてる。
それまで……。ううん、それからも。
ずっとずっと、二人で歩み続けるんだ。




