16 始まりの言葉も、終わりの言葉も、私が1番に
当主不在のまま、さらに一ヶ月ほどが過ぎた。
エーレンフリート様は「お前に任せる」「執務室はお前のものだ」と話していたそうだけど、正式に当主の座を譲り渡したわけじゃなかった。
今のジークベルトは、あくまで当主代理。
代理とはいえ、学園を卒業したばかりの彼には相当なプレッシャーだろう。
この日も、私はジークベルトの私室で彼に癒しを提供していた。
癒しと自分で言うのも恥ずかしいけれど、本人が「癒される」と繰り返すのだから仕方ない。
代理となってからのジークベルトは、とても忙しいし疲れている。
今日も相当お疲れなようで、私に膝枕されながら「あ゛あ゛……」と謎の呻き声を上げている。
これで少しでも彼が楽になるのなら。いつだって駆けつけて、助けになりたい。
でも、それぞれの暮らしもあるから予定が合わせにくいし、夜だって一緒にはいられない。
「いっそ、シュナイフォード邸に住んじゃおうかな……。婚約指輪のお返しは私、なんて……」
私がここに住んでしまえば、ちょっとした休憩時間や、朝と夜は一緒にいられる。
疲れて帰ってきた彼を、笑顔で迎えることだってできる。
婚約指輪のお返しがまだ決まっていなかったこともあり、冗談混じりにそう口にした。
前半はともかく、後半は冗談のつもりだったのに、ジークベルトは、がばっと起き上がって力強く私の手を握る。
「ほ、本当に……?」
「へ?」
「嬉しいよ、アイナ……!」
そのまま喜びいっぱいに抱きしめられ、「お返しはわ・た・し」が成立してしまった。
「ま、待ってジーク、今のは冗談みたいなもので……」
「じょう、だん……?」
「あ、えと、一緒に住んじゃおうかなーは本当にそうしたいと思ってて、『お返しは私』は冗談で……」
「じゃあ、ラティウス家……と、うちの許可が出たら、ここに住んでくれるのかい……?」
「う、うん」
「ありがとう……! 正直、帰ってきてからずっと寂しかったんだ……」
寂しかった。彼は確かにそう言った。
彼は、つい最近まで学生寮で暮らしていた。周りには、仲間がたくさんいたはずだ。
そのあとは、二人一緒の別荘暮らし。
実家に戻ってきたら、両親がいなくなり、一人になった。
ジークベルトには二人のお姉さんがいるけれど、既に嫁いでいて、この家にはいない。
使用人がたくさんいたって、彼らは家族や友人とは異なる存在だ。
そんな状況じゃあ、寂しくなるのも無理はない。
「最高のお返しだよ……」
ほう、と歓喜のため息混じりの言葉と、ぴっとりくっつきながらの頬擦り。
大好きな人にこんな反応をされたら、嬉しいやら恥ずかしいやらで、「んん……」みたいな声を出すことしかできない。
お返しが自分自身になってしまうだなんて、思ってもみなかった。
でも、ジークベルトがとても喜んでいるから、これでいいのかもしれない。
「あなたと一緒に、ここにいるね」
「うん……」
こうして、私たちは同じ家に住むことを決めたのだった。
とは言え、まだ結婚はしていないわけで。両親に反対される可能性も考えていたのに、あっさり許可がおりた。
兄は何か言いたげだったけど、反対はしなかった。
両家は、気軽に行き来可能な場所にある。シュナイフォード家に移り住んでからも、実家にはちょくちょく顔を出すつもりだ。
話がまとまったら、すぐに準備が始まった。
こちらは荷物をまとめ、シュナイフォード邸には私の部屋が用意された。
あっという間に迎えた引っ越しの日、ジークベルトは公務のために外出していた。
本当なら、当主代理である彼がいるときのほうがよかったのかもしれない。
でも、休暇や、在宅時間の長い日なんて、待っていられない。
自分は一人なんだって思うのは、とても辛いことだって、私はよく知っている。
だから、少しでも早く、「あなたは一人じゃないよ」って伝えたいんだ。
引っ越したといっても、正式に嫁いだわけじゃないから、荷物は少ないし、お客さん待遇みたいなものだ。
シュナイフォード邸到着後、すぐに暇になってしまった。
自分に与えらえた部屋で、どうしたものかと考える。
ぼうっとしていても仕方ないから、ジークベルトが帰ってくるまで、この家に仕える人たちの話を聞くことにした。
ジークベルトは、使用人からの評判もよかった。
当主代理の婚約者に嫌な話を聞かせるわけもないけれど、彼らの表情や話し方から、本当に慕われているのだと思えた。
今も昔も優しく穏やかで、聡明で。
愛らしさと凛々しさ、厳しさと親しみやすさといった、反対のように思える面を、どちらも持っている。
ここで聞いた話をまとめると、大体そういった感じだった。
そんなジークベルトでも、最近は疲れや苛立ちが表に出ることもあるとかで、みんなに心配されていた。
そんなとき、未来の妻が引っ越してきた。
聞けば、私と会ったあとのジークベルトは、かなりわかりやすく元気を取り戻しているそうだ。
私たちの仲をずっと前から応援していた人も多く、なんというか…………とても、とても歓迎されている。
もちろん嬉しいし、その方が過ごしやすいのだけど、ちょっと恥ずかしい。
お屋敷の案内を受けたりしながら過ごせば、ジークベルトの帰宅時間が近くなっていた。
まだ早いと知りつつ、玄関で待機する。本当に家族になったみたいで、なんだかむずむずした。
少し経つと、重厚感のある扉が開く。その先に立っていたのは、私の大好きな人。
「おかえりなさい」
はしたないとわかっていても、抑えることなんてできなくて。ジークベルトに駆け寄って、とびきりの笑顔を向けた。
「ただいま、アイナ」
彼は、ちょっと驚きながら笑って懐に私を招き入れる。
抱き寄せられた私も、自分から彼の胸に頬をすり寄せた。
***
当然、私の部屋にも立派なベッドがある。
でも、寝るときは、ジークベルトの部屋で、同じベッドに入ることにした。
別荘にいるあいだずっとそうしていたせいか、彼も私も、一人だと落ち着かなくなってしまったのだ。
「おやすみ、アイナ」
「おやすみなさい、ジーク」
手を伸ばせば、互いのどこにだって触れる距離。
こんな風に「おやすみ」の言葉を交わすのは、久々だった。
これからは、おやすみは一番最後に、おはようは一番最初に、この人に言えるんだ。




