14 父が逃亡しましたので
シュナイフォード邸へ戻った翌日、僕は父の執務室に呼び出されていた。
記憶の中の父の机には、書類が積み上げられていることが多かった。
けれどどうしてか、今日は綺麗に整頓されていて、紙の束が数個あるのみだ。
少しは疑問に思った。でもまあそういうこともあるか、と深くは考えずに流す。
「ジークベルト」
「はい」
どっしりと腰掛け、机に両肘を置く父と、少し離れた場所に立つ僕。
父の表情は真剣そのもので、土産話を聞こうって雰囲気じゃない。
重い空気の中、父がゆっくりと話し始める。
「私はね、早く引退して、フロレンティーナとゆっくり過ごしたいのだよ」
「父上……。僕は成人し、学園も卒業しました。努力し、立派な跡取りになってみせます。ですから……」
「お前なら、そう言ってくれると思っていた。早速、来週からお前に任せよう」
「今しばらく……お待ちいただければ、と……」
僕の父・エーレンフリートと、母のフロレンティーナは、政略結婚だったとされているものの、非常に仲がいい。
だから、二人でゆっくり過ごしたいと言われることは、想定の範囲内だった。
けど、ちょっとよくわからなかった部分がある。父上、来週、と言いましたか?
いつかは交代のときがくると、わかっている。
これから父の下で学び、一人前の男となって、家もアイナも任せてもらえる男になろうと考えていたのだ。
父もそのつもりだと思っていたから、「来週から任せる」と言われるなんて夢にも思っていなかった。
「ち、父上……? なにかの冗談ですよね……?」
「こんな冗談を言うものか。お前がアイナ嬢と過ごしているあいだに、引継ぎの準備はしておいた。来週から、この部屋はお前のものだ」
「えっ、あの……。えっ? 本気ですか」
「だから、そう言っている」
絶句する僕のことなんて無視して、父は「これに目を通せ」「この件については彼に聞くといい」と、どんどん話を進めていく。
「私がいるうちに色々覚えられるよう、頑張りなさい」
「は、はい……」
有無を言わさぬ態度に、首を縦に振るしかなかった。
そこからの1週間、僕は鬼のような忙しさに襲われるのだった。
***
「そ、そんなことが……」
「遠くないうちに、とは思っていたけど……。まさか今すぐだとはね……」
シュナイフォード家の執務室にて。
このまま消えないんじゃ、と思わせるほどにくっきりとした隈を作ったジークベルトが、革張りの椅子に腰かけてうなだれていた。
この椅子は、今の彼には立派すぎる。
つんつんと隈をつつけば、彼は疲れた様子で「はは……」と笑う。
私は、今日、初めてこの部屋に入った。
以前は彼のお父さんのものだったし、ここに入れるのはごく近しい人だけなんだから、当然だ。
私たちがそれぞれの家に戻ってから、1週間と少しが経過していた。
そのあいだ、彼から連絡があったのは1度だけ。帰宅した当日、「僕も家に着いたよ」と手紙をもらったきりだ。
こちらから手紙を出しても、返事はなし。不思議に思ってシュナイフォード邸に来てみれば、疲れ切ったジークベルトにこの部屋へ通され、経緯を説明された。
一か月ほど彼と二人で暮らしていた私でも、こんな姿を見るのは初めてだった。
聞けば、彼のご両親はすでにお屋敷を去ったあとだとか。
言いたいことも聞きたいこともたくさんあったけど、今の彼を質問攻めにするわけにはいかない。
「ねえ、ジーク。ちょっとだけ後ろに下がれる?」
ジークベルトは素直に椅子を後ろへ引く。私は椅子と机のあいだに身体を滑り込ませると、疲れきったその人を、ぎゅ、と正面から抱きしめた。
「お疲れ様。頑張ってたんだね」
彼の顔が胸にあたっているけど、それくらいで恥ずかしがる仲じゃない。
よしよし、と頭を撫でてみると、ジークベルトは私の背に腕をまわし、ほう、と息を吐いた。
「……疲れたよ。アイナ」
疲れたと素直に言ってもらえたことが、嬉しかった。
エーレンフリート様がいない今、ジークベルトはそう簡単に弱音を吐けない立場にある。
そんな彼の弱い部分を、今度は私が受け止めたい。泣きたいって言われたら、涙が枯れるまでそばにいる。
「……しばらく、胸を貸してもらっても?」
「もちろん。手でも胸でも、好きなだけ」
「ありがとう。そうさせてもらうよ」




