6 私の全部を包むもの
「……落ち着いた?」
「うん……」
優しいこの人にべったりとくっついて、ひたすら泣いて。
涙がとまった頃、優しい言葉が降ってくる。
そっと身体を離してみたら、白いシャツがぐちゃぐちゃになっているのがわかった。
これだけ濡れていたら、肌までびしょびしょだろう。
「ご、ごめんなさい……」
「ん?」
「びしょびしょにしちゃった」
「んー……。確かに濡れたけど、嫌じゃないよ。むしろ誇らしい」
「誇らしい?」
「大切な人の涙を受け止めた、男の勲章みたいだなって」
ちょっとおどけて。けれど嬉しそうにそんなことを言うものだから、また涙が溢れてきた。
泣き顔を見られたくなくて、もう一度、彼の胸に顔を突っ込んだ。
「じーく、昔から、ずっとやさしい、よね……。なんでそんなに、やさしいの……?」
「えっ、あー……。まあ、君がそう感じるなら、優しいって見方も、間違ってはいないのかもしれないね」
「……? 優しいんじゃ、ないの?」
「えーと……。いや、そうだな……。とりあえず、少し休もうか。飲み物を用意してくるよ。君は座ってて」
「んん……?」
そんなやりとりをすると、リビングのソファに座るよう促された。
2つのカップを持って彼が戻ってくる。
普段は身の回りの世話をしてもらえる私たちも、ここにいる間は自分たちで動かなきゃいけない。
さっきまでどこかバツが悪そうだったジークベルトは、いつもの雰囲気に戻っている。
手渡されたカップを覗き込むと、ふわりと甘い香りが漂った。
「ココアだ……。ありがとう、ジーク」
「どういたしまして」
ローテーブルを挟んで向かい側に、彼が腰掛ける。
作ったばかりだから、ちょっと熱いかもしれない。そう思いながら、カップに口をつけた。
牛乳がたっぷり使われたそれは、すぐに飲める温度に調整されていた。
こういった気遣いをしてくれるこの人を、大好きだなあと思うし、やっぱり優しい人だと感じる。
「……ジークって、ほんとに素敵な人だよね」
「そう思うかい?」
「うん。優しいし、いつも助けてくれるし、一緒にいると安心できるし……。なんでこんなにいい人なんだろうって、たまに思うな」
ジークベルトは少し考えるようなそぶりを見せた。小さく息を吐いてから、ゆっくりと話し始める。
「君がいるからだよ」
「え?」
「君がいたから、そうなったんだ」
「私が、いたから……?」
私の記憶の中の彼は、今も昔もあまり変わらない。
見た目は違うし、ちょっと意地悪なときもあるけれど、黒い瞳にたたえた優しさは、ずっとそのままだ。
6歳や7歳の頃からそうだったはずだから、私の存在なんて関係なく、彼は素敵な人なのだ。
そんな気持ちが顔に出ていたのか、ジークベルトが苦笑した。
「……好きな女の子の前ではいい男でいたいし、嫌われたくもないものなんだよ。少なくとも、僕はね」
「そうなんだ……?」
「うん。そうなんだよ。僕の優しさの大部分は、君への下心でできてる。だから、君が思っているほどいい人間ではないと思うよ」
「し、下心って……。でも、小さい頃から優しかったよね?」
「君に対しては、ね。アイナのことが好きだって自覚したのは……7歳の時だったかな。でも、それより前から、僕は君に好かれたくて頑張ってたんだろうね」
なんでもないことのように語られる、衝撃の事実。
こんなに素敵な人に自分なんて釣り合わないと、今も心のどこかで思っていた。
そう感じていたから、彼にふさわしい人になろうと自分なりに頑張っていたのだ。
なのに、ジークベルトは、
「振り向いてもらおうと頑張った甲斐があったよ」
「あの日から10年以上経つんだな……」
「ずっと好きだったし、可愛いと思ってたけど、僕に向ける瞳にはっきりと好意が宿った頃から、前よりずっと愛おしくなって……」
「甘えてもらえたんだなと思えて、今日は本当に嬉しかったんだ」
熱っぽくこんなことを言う。
私なんかでいいのかな。王族の妻として振る舞える人の方がいいんじゃないのかな。
そんな風に考えて、ジークベルトから離れようとした時期もあった。けれど、彼のこの様子を見た今、はっきりとこう思う。
「アイナ・ラティウスとして、あなたの隣にいられてよかった……」
ラティウス家の娘であり続けたことが、彼のためにもなったのだと思えた瞬間だった。
私の言葉には、8年分の想いがこもっている。
「…………アイナ・ラティウス、か」
さっきまで上機嫌にお喋りしていたジークベルトは、それだけ呟いて黙り込んだ。
「ジーク?」
「……学園を出たら、ちゃんと言おうと思ってたんだ。君のことが、ずっと前から好きだったって。婚約を取り付けたのは、僕らの両親だ。でも、僕は……婚約するなら、君じゃなきゃ嫌だって思ってた」
ジークベルはそこで言葉を切り、困ったような顔をする。
「本当は、雰囲気とか時間とか、もっと色々考えてたんだけど……」
ゆっくりと瞳を閉じ、少し経ってからまぶたを持ち上げた。
そうして現れた黒い瞳は、ひどく真剣に私を見つめていた。
「アイナ。今、伝えたい」
「は、はい」
「これからも、君を大切にする。君が泣いていたら、今日みたいに受け止める。多くの時間を一緒に笑って過ごしたいし、そうできるよう、努力する。……僕と結婚してください」
「……!」
これは、既に婚約している彼からの、改めてのプロポーズ。
目をそらすことなく、まっすぐに伝えてくれた。
ちょっと恥ずかしいけれど、私も、彼に応えたい。
「ジーク」
「うん」
「私も、あなたのことが好き。他の人に取られたくない。あなたの隣にいたい。だから……アイナ・ラティウスじゃなくて……アイナ・ラティウス・シュナイフォードとして、そばにいさせてくれる?」
「……! もちろん!」
たくさん泣いた私の目は、きっと、赤くてはれぼったい。
ジークベルトのシャツだって、まだ濡れていて、うっすらと肌が透けて見える。
昨夜、彼が眠れなかった理由は、プロポーズ前夜で緊張していたからだったのかもしれない。
雰囲気や時間も考えていたと話していたから、本当は、夕日を背景に砂浜で……みたいな計画だったのかな。
それなのに、こんな状況で。かっこいい人だと思っていたのに、どうにもしまらない。
「ふふっ……」
「アイナ?」
くすくすと笑い出した私を見て、彼は不思議そうにする。
こういうことは意外と下手なんだね、とは言えなくて、こうごまかした。
「ううん。なんでもない。やっぱり大好きだなあと思っただけ」
今までも彼のことが好きだったけど、今日のあんまり格好つかないプロポーズで、更に好きになった。
好きな子の前でかっこつけていたって話も、最初はびっくりしたけれど、愛おしく思えて仕方がない。
この人になら――私の色々なものを預けたいって思えるし、預けて欲しいとも思う。
***
日は沈み、窓からは月明かりが差し込むだけとなった。
大好きな人と同じベッドで、一枚の毛布を一緒に使い、内緒話をするみたいに顔を近づけて話す。
二人きりだから、誰かに聞かれる心配なんてないのに、なんとなく、そうしたいと思った。
「ねえ、ジーク」
「なんだい?」
「一緒に頑張ろうね」
「うん」
「でも、王族の妻って、やっぱり大変なんだろうなあ……。あなたと一緒にいたいけど、妻としては、まだ不安かも」
「ああ……。正直、僕も次期当主としてはまだまだ不安だね。君も同じなら、そうだな……家に戻ったら、二人まとめて僕の両親に鍛えてもらおうか」
「そうしよっか」
そうやってくすくす笑い合ううちに、だんだんまぶたが重くなってきて、いつの間にか眠っていた。




