9 全てのものが、今までより色づいて
「ジーク……」
両腕を使って抱きつき、彼の肩に顔を埋め、大好きな人の名前を口にする。
あったかくて、いい匂いがして、なんだかすごく幸せで……。ずっとこうしていたいと思えるぐらい安心できた。
どのくらいのあいだ、ふわふわした心地でいたんだろう。
数秒だったような、何分も経ったような。全然わからないけど、あるとき、急に冷静になった。
「あ、あれ……?」
私は、一体なにを……?
この人のことが好きだと自覚して、勝手に盛り上がって、急に飛びついて、そのままぎゅうぎゅうと抱き着いて……。
飛びついたとき、彼は両手で私を受け止めてくれた。
でも、今はこちらが一方的に抱き着いている状態で、彼の手は私に触れていない。
「えっと……。あの……じー、く……」
ジークベルトの様子が気になって、恐る恐る顔を上げる。
彼なら、この状況をなんとかしてくれるかもしれない。そう期待していた。
急にどうしたんだい、とか。元気でよかった、とか……。
いつもの感じでそう言って、何事もなかったように対応してくれるんじゃないか、って。
私の瞳に映った彼は――口を半開きにして、頬を染めて硬直していた。
「っ……!」
そんな反応をされると、こちらも更に恥ずかしくなってくる。
どうしよう、なにか言って欲しい。行動でもいいから、とにかくこの状況を変えて欲しい。
例えば……。
「ジークからも、ぎゅって抱きしめるとか……」
抱きしめ返してくれれば、私が一方的にくっついてるわけじゃなくなって、恥ずかしさもまぎれるかも。
そう思ったら、何故か口に出ていた。
「……!? ごごご、ごめんなさい! 私、突然なに、を……」
あまりのことに今すぐ離れようとした、その瞬間。
彼の腕が腰に回され、ぐいっと引き寄せられる。
離れようとしたのに、くっついてる箇所が増えてしまった。
動揺して少し暴れてしまったけれど、彼はびくともしない。
「あの、ジーク……?」
困って彼の名前を呼んだって、返事はない。代わりに、優しく頬ずりされた。
離してもらえそうにない。そう理解して観念し、こちらからも身体を預けてみる。
先に抱き着いたのは私なのに、負けた気持ちになるのも変な感じだ。
少し経つと、アイナ、と小さく名前を呼ばれた。
ちょっとだけ身体を離して、すぐ近くにある彼の顔を見上げる。
なあに、って気持ちを込めて、軽く首を傾げる。
前髪をかき分けられ、額に、柔らかいなにかが触れた。
顔を上げていたからわかる。彼は、私の額に唇を落としたのだ。
「っ……!」
彼の目を見ながら、口をぱくぱくさせる。色々起こりすぎて、なにも言葉にできない。
視線を落とし、さまよわせてから――もう一度、彼と視線を絡ませた。
黒い瞳が愛おしそうに細められたものだから、つられてふにゃりと笑ってしまった。
目の前の彼が、ひゅっと息を飲んだのがわかる。
どうしたんだろうと思っていると、腕に力が込められて、そのまま潰されそうになった。
「ジーク、いたい……」
彼は慌てて私を解放し、ごめんと謝ってくる。
きっちり離れてくれたから、もう痛くない。……痛くはないけれど、完全に離されてしまうと、なんだか寂しい。
……もう一回、抱きついてもいいかな。一歩離れた場所に立つ彼と見つめ合う。
どちらともなく前進し、手を伸ばし、再び身体が触れ合いそうになったとき――
「んふっ……」
どこからか、女性の笑い声のようなものが聞こえた。
嫌な予感がして後ろを見れば、ぷるぷると身体を震わせるお母様の姿があった。
これ以上ないほどに嬉しそうで、にやけるのを必死にこらえている感じだ。
「おかあさま……?」
「ごめんなさい、邪魔をする気はなかったのよ? ジークベルト様が到着されたと聞いて来てみたら、あなたが幸せそうにしていたから、声をかけるタイミングを失って……」
「じゃあ、ずっと、見て……」
見られた……? 親に、異性と抱き合っているところを……見られた……?
「あ、ああ……ううっ……。じーくぅ……」
「はは……」
すぐそばに立つ彼に助けを求めても、苦笑されるだけだった。
***
今日の昼食も、いつも通りに私が用意した。
食休みまで済んだら外に出て、二人で庭を歩く。
「今日のこと、お父様にまで知られたらどうしよう……。そんなことになったら、恥ずかしすぎてもうこの家を出るしか……」
「君に家を出られたら困るなあ」
「……困る?」
「そりゃあね。君が公爵家の人じゃなくなったら、色々大変だから」
……それは、今から新しい婚約者を探すことになるからだったりする?
そんなことを考えて、俯いた。
けれど、続く彼の言葉を聞いて、すぐに顔を上げることになる。
「君自身や親族を説得する、無理やり連れ戻す、君を追う……。君を諦める選択肢はないから、このどれかになるだろうね。どれも大変そうだ。君が出て行かなくて済むよう、気を付けるよ」
「う、うん。ありがとう……?」
「ところで、今日の昼食の話なんだけど」
「お昼?」
私が家を出たら、彼はどうするのか。
私にとっては重要なことだけど、彼からすればちょっとした雑談のようで。さらっと話題が変わった。
「君でも、失敗することがあるんだね?」
「う……」
今日の私は調理に全く集中できず、メインのお肉を盛大に焦がした。
彼はその件について言ってるんだろう。
何故か嬉しそうなジークベルトが「そのままでいい」と言ってきたから、作り直したりはしなかった。
「考え事でもしていたのかな」
「わかって言ってる……?」
「うん」
このタイミングで考え事といったら、そりゃあ、今日のあれそれについてだ。
ジークベルトだってわかってるくせに、わざわざ私に聞いて、ものすごく楽しそうにしている。
「学園見学のときもちょっと思ったけど……。ジークって、意外と意地悪?」
「そうかもしれないね」
「昔はもっと可愛かったのに……」
「昔って、いつ頃の話だい?」
少し考えてみる。10歳や12歳のときも可愛かったけど、私が知ってる中で、一番可愛かった時期は……。
「7歳ぐらい……?」
「7歳……。そりゃあ変わるよ。僕も来年には16だからね。……7歳のままの方がよかった?」
「そういうわけじゃ……」
「君は……」
話に夢中になっていた私は、木の根っこに引っかかって転びそうになり――隣を歩く彼に支えられ、事なきを得た。
「君は昔よりしっかりしてるかな? 目を離すと危ないのは相変わらずだけど」
「……それだけ? 別人だとか思わない?」
「変わったと思う部分はあるよ。でも、君は君だった」
10歳のあのときは、ちょっとびっくりしたけどね。そう付け足して、彼は微笑んだ。
彼の言葉に疑問が浮かぶ。
もしかして、この人の中の私って、あんまり変わってない……?
前世の記憶を取り戻したあの日から、「アイナ」は完全に別の人になったと思っていた。
彼の反応を見た感じだと、そうでもなかったみたいだ。
「あ、あの、ジーク」
「うん?」
「こんな人と婚約したはずじゃなかったのに……って思ったりしなかった?」
「え?」
「こんな風に変わるなら、違う人がよかったなあと思ったことはない?」
「え? え? アイナ? え? ない……ないよ? 寂しくなったことはあるけど、こんなはずじゃなかったとか、違う人がよかったとか、そんな風に思ったことはないよ!?」
「本当に……?」
「本当に!!」
力強い言葉と同時に、がしっと肩を掴まれる。
私を見つめる瞳は真剣そのもので、嘘を言っているようには見えない。
視線の高さまで私に合わせてくれている。
私はどこか変わったと、彼もわかっていた。
寂しい思いもさせてしまった。
でも、全く別の人になったとは思われていなかった。
私との婚約を、後悔していなかった。
昔とは違うことも理解したうえで、私が家を出たら連れ戻すとか追いかけるとか……私を諦めないと言ってくれたんだ。
「わかってくれたかな……?」
「……うん」
しっかり頷けば、彼は私を解放してくれた。
なんだろう、周りの景色がよく見えるようになった気がする。
いい気分のまま空を見上げ、呟いた。
「そっか……。そっかあ……」
私は、この人のそばにいていいんだ。
大好きな人の婚約者として、ここにいていいんだ。
「ジーク、ありがとう」
気がつけば、そんな言葉が勝手に飛び出していた。
晴れ晴れとした気持ちで彼に視線をやると、
「……ジーク?」
どうしてか、彼はお腹の痛みを我慢している人みたいな顔をして、少し離れたところに立っていた。
「どこか痛いの?」
「いや……大丈夫……。今の君にちゃんと伝わったなら、それで大丈夫」
「そう? 調子が悪いなら、無理しなくても……」
「うん。ありがとう……。でも大丈夫だから」
「ならいいんだけど……。あっ、もしかして、焦げたお肉のせい……!?」
「違う、本当に違うから……」
何度聞いても、彼は「大丈夫」「違う」と繰り返す。
心配だけど、しつこくするのもよくないかもしれない。
「じゃあ、いこっか」
気を取り直して彼の手を取り、私が先を進む。
行先は、私たちお気に入りの花畑だ。
お花は少ない季節だけど、なにもないわけじゃない。
それに、何も咲いていなかったとしても、私は今、あの場所に行きたいんだ。
私に手を引かれ、後ろを歩く彼が軽く息を吐く。
「こういう感じは、ずっと変わらないね……」
「ジーク?」
「君は君だなあって話」




