海辺のコンサート 【月夜譚No.95】
優しく空気を震わせる、透明で清らかな歌声は、アカペラでこそ美しい。余計な伴奏がないからこそ、彼女の声は映えるのだ。
夕陽の沈みかけた、淡い朱に染まる海岸。穏やかな波を立たせる海原を背景に歌を紡ぐ彼女は、まるで陸に現れた人魚のようである。否、白いワンピースが潮風に広がる様は翼のようにも見えて、天使という表現も似合うだろう。
元々透明度の高い声を持っていた彼女だが、この歌声を完成させるまでには様々な苦難があった。けれど、彼女は挫けることなく難題に向かい、時間はかかったが、ようやくこの歌声を手に入れた。
だが、彼女はその声で表舞台に立つつもりはないという。一度メディアに取り上げられれば、瞬く間に時の人となるだろう。裕福な暮らしも夢ではないかもしれない。それでも、彼女はそれを望まない。
この歌声を手に入れたのは、その為に頑張ってきたのは、そんなことがしたいからではないのだ。
たった一人――今目の前にいるたった一人の大切な人の為に、この歌を聞かせたかった。それ以外に、理由などないのだから。