桜木の精(3)
「二宮、あれを持ってきて下さいましたね?」
「ああ、これだ。」
景親に声をかけられて、敦史は手に持っていた箱の中から一枚の袿を取り出す。その香から、持ち主がもともと誰であったのか咲子にも分かった。
「これは二宮さまの母君のものですね。私はこれを纏えば宜しいのですか?」
「正解。はい、玉梓。」
景親は咲子の肩に袿をかけた。芳しい薫りとともに、ふっと暖かな何かが咲子の頬を撫でる。咲子は肩口に寄せられた小さな声に頷いた。
「…行って参ります。」
咲子は桜色の袿をひらめかせながら庭へ降りた。
──櫻子…?櫻子なのか?
聞こえる、というよりは頭の中で響くような、そんなふうな声だ。
「…お久しぶりね。」
咲子は答える。
幻の姫君は消えていた。その代わりに今度は、桜の木の影から一人の男性が現れる。恐ろしいほどに美しく、人形のような生気のない瞳の男だ。
「会いたかったよ…櫻子。」
「曙の君…」
咲子は、咲子の意思ではなく動いていた。ゆらりと形の朧気な男に抱き締められ、咲子は躊躇いがちに抱き締め返す。体温などは感じない。まるで実体のないような気がした。
「また会おうと言ったのに、十年経っても君は来ない。だから私はこうして君を呼んだのに、なかなか来てくれないのだから……」
「ごめんなさい…わたくし、わたくしはね…」
「ああ、もう何も言わなくていい。君も同じ気持ちなのは分かっているから。」
恍惚とした表情の、人ならざる男が恐ろしい。それなのに咲子は動けなくて、されるがままである。唇が触れそうなほどに顔が近づく、見ていられなくて目を閉じようにも閉じられない。
「嫌っ…!」
その時、ようやく咲子は拒絶の言葉を言うことが出来た。腕を突っぱねると、突然のことに油断していたのか、するりと抜け出せる。
「よく、見て……?わたくしはもうどこにもいないのよ。わたくしは、死んでしまったのだから…」
咲子は──いや、咲子に憑いた敦史の母、櫻子はじっと男を見つめた。
「何を言っている?」
男が眉をひそめる。
「お前はここにいるではないか。」
男の言葉にため息をついて、櫻子は自分の体を指差した。
「ここにいるのは、わたくしの魂だけよ。この子はわたくしに器を貸してくれているだけ。」
「器……」
男の視線が舐めるように咲子の体を見回す。何か理解するところがあったのか、小さく頷いた。それから首を傾げる。
「……何故死んだ?私との約束を忘れたのか?」
「それは……予期せぬことだったの。わたくしだって死ぬなんて思わなかった。でも、あの子を守るためにはああするしかなかった。」
「あの子…?」
「息子よ。」
櫻子の言葉に驚いて、男は目を見張った。それから怒気を顕にする。
「…お前は子を産んでいたのか。誰の子だ。私の櫻子を奪ったのは誰だ!」
「落ち着いて。」
櫻子は心苦しい、というような表情だった。
「もともと貴方のものでもなかったわ。…わたくしは帝の妃になったの。あの子は帝の子よ。」
「…なん、だと。」
その時、咲子の意識の中に、櫻子のものか男のものか判別のつかない記憶が流れてくる。咲子と同じくらいの年の櫻子とこの男が、桜の木の下で仲良く語らっている場面。櫻子が琴を奏で、男が笛を吹いている場面。もう会えないと泣く櫻子と男が約束をする場面。
二人は恋人ではなかった。しかし友人でもなかった。櫻子とこの男──いや、桜の木に宿った霊は、曖昧な関係のままに再会の約束をしたのだ。
「私は、お前が……」
男は戸惑い、瞳を揺らす。その様子を櫻子は静かに見ていた。
「ごめんなさい。でも、もう大丈夫だから。」
家族にかえりみられず、寂しいと泣いていた幼い少女はもういない。ここにいるのは、人並みに恋をして、夫に愛されて子どもを持った女。
「わたくしのせいで貴方が生まれたの。わたくしの願いが、この木に魂を宿らせた。だからね、曙の君、わたくしと一緒に行きましょう?」
男が泣きそうな顔で小さく頷く。
ふいに咲子のなかから、櫻子の意識が消えた。
白い光に包まれた桜の木の下で、男と櫻子の霊が寄り添う。それは恋人のようでも、姉弟のようでもあるような距離だった。
櫻子の視線が咲子の方を見る。
「ありがとう…あの子を、頼みましたよ。」
「…はい、お任せください。」
咲子の言葉に微笑んで、光が薄れるとともに二人の姿は消えていた。
振り返ると、呆然とした表情の敦史がいる。
「…部屋の中へ、二宮さま。ご説明致します。」
夜は深く、明けるまではまだ遠いようだった。
「では、順を追ってお話しましょう。」
咲子は敦史に向かって、静かに語りかけた。
「まず一番大事なことですが、二宮さまの母君さまは、この世を恨んでなどおりません。」
「…しかし。」
戸惑いを滲ませる敦史は、まるで迷子の幼子のような顔をしている。咲子の言葉を疑いつつも信じたい、そんな気持ちなのだろうか。
「人の念というものは、時折不可思議な力を産み出します。この屋敷にいた頃の母君さまは、とても寂しい少女だった。心の慰みはこの西の対屋から見える桜。春を待ちわび、一人語りかけ、そうして──古木であった桜に霊が宿ったのです。」
それは、或いは神が生まれるが如く。信ずる者の心に宿る御霊。その不可思議な力は彼女に幻を見せた。しかし幻でありながら、それは確かにここに在った。
「桜の霊との交わりは、母君さまの心を満たした。しかしそれは恋というよりは、足りなかった家族からの愛情に近いものだったのでしょう。嫌々ながら入内した母君さまは、そこで初めての恋を知りました。」
「父上…今上帝か。」
「はい。」
そうして、桜の霊という存在は、幼い頃の淡い思い出として徐々に櫻子の記憶からは薄れていった。桜の霊は「再び会おう」という約束を覚えていたのに。
「それに、母君さまが予想より早く亡くなってしまった。桜の霊はそれを知らなかった。」
溢れた想いが、桜の霊の力を増加させた。人の目にとまるほど。
「……なるほど、確かに私も、あの幻を恐ろしいとは思わなかった。それは恨みなどの悪意ではなく、ただ会いたいという気持ちだけだったから…か。」
「はい、さようにございます…」
桜の霊に、恋心と呼ぶほどのものが在ったのかはわからないが。
「しかし時間が経てば悪いものを呼んでいた可能性もあります。その場合、あれは神に近しい存在でしたから、祓うことは大変に難しく…いえ今回そもそも祓うことは予定していなかったのですが。何れにしても、結果はすべて母君さまのお力添えのお陰でした。」
「そうか…母上が……」
一通り話終えて二宮の表情を伺う。最後の一言を伝えるべきか、咲子しばし悩んだ。
「玉梓。」
「…お兄様?」
それまで黙っていた景親が突然口を開いた。
「全てを話して差し上げなさい。お前には…私にも見えなかったものが見えていたんだろう?」
「…っ」
流石に兄にはお見通しだったというわけか。
「……私にはずっと見えておりました。」
「何がだ…?」
敦史の問う声は、落ち着いていた。
「あなたさまを、見守る母君さまです。」
「…母上?」
傍仕えを始めて、しばらくは気が付かなかった。それはあまりにも瘴気が満ちている後宮のせいでもあるし、彼女の気配が薄すぎるせいでもある。
「確信を持って、そうだとわかったのは、このお屋敷の怪異のお話をお伺いしたときです。」
二宮の悪態を聞きながら、少し悲しそうにする櫻子の姿がぼんやりと浮かんでいた。小さく首を振って、違う、と口を動かしては、伝わらないことを理解しているが故に諦めたようにため息を落としていた。
「……母君さまは、ずっとあなたさまのことが気がかりでいらっしゃったのでしょう。」
言葉にするのは躊躇われた。きっと敦史が傷付いてしまうと思ったからだ。
「…だから、だから母君さまは……あなたさまの傍から離れられなかったのです。」
静かな部屋の中、敦史が息を飲むのがわかった。彼は必死に、何かを押し殺しているような様子だった。
「母上が、ずっと私を見ていたと…?」
「はい。」
「私のせいで母上は…」
矜持のある彼が、人前で泣くことはない。けれど咲子には、敦史の涙が見えるような気がした。
「あなたさまのせいではありません。母親とはそういうものでしょうから。」