桜木の精(2)
敦史は馬車に乗り、景親と咲子は徒歩で二条の屋敷へ向かった。
広い二条大路と烏丸小路の交わるところから少し入ったところにある、その屋敷は安倍家のものよりは大きく藤原左大臣家に比べると質素であった。しかし門構えや庭は丁寧に手入れされており、主不在の屋敷とは思えないほどだ。家令がしっかりと管理しているのだろう。垣根に巻き付く蔦が趣を感じさせる。
今をときめく藤原氏に押されてしまっている源氏も、元は皇族の家柄であるのだ。敦史は両親のどちらからも神の血を引いているということになる。このあやかしを呼び寄せる不可思議な力は、その血の先祖がえりなのだろうかと咲子は考えているが、それにしても腑に落ちないことばかりだ。
車止めに牛車を止めて敦史が降りてくると、図ったかのように初老の男性が一人、屋敷の中から顔を出した。
「二宮さま!お待ちしておりました。」
使いふるされてはいるが、決してくたびれてはいない直垂が、彼そのものの性質を表しているようだ。生真面目そうな面持ちの、物静かな男性である。おそらくは彼が、この屋敷の家令だろう。
「久しいな、高時。しばし世話になる。」
珍しく敦史が優しい笑みを見せた。彼にとって家令は、信頼に値する人物なのだろうと思う。どこか照れ臭そうな表情は、久方ぶりに会った人への親愛を醸し出していた。
「お久しぶりでございます。とんでもありませんよ。ここは貴方の家なのですからね。」
そう言って柔らかく微笑むと、家令の高時は敦史や咲子たちを部屋の中へ案内した。
夕餉を頂いたあと、家令の高時を交えて咲子たちは母屋の敦史の部屋に集まった。
もう日は暮れていて、年老いた女房が燭台に明かりを灯してくれる。宵の口にはまだあやかしの気配は感じなかった。
「私が初めてそれを見たのは先月のことでございます。」
高時は床に視線を落として、うつむきながら話始める。皆が静かに聞いていた。
「真夜中過ぎ、かたかたと格子を揺らす音がして私は目を覚ましました。それは西の対屋から聞こえてくるようでしたので、まさか盗賊かと思いながらも足音を忍ばせて見に行ったのです。」
蝋燭を一つ手に持って、床を軋ませないよう気を付けながら。今の季節としてはおかしな、暑く湿った風に冷や汗をかいていた。
「そもそもいくら私たち使用人の住むところが西の対屋に近いからといって、音までもが聞こえるはずがないのですが、何故かあちらに行かなければと思いました。」
本来なら主人の子どもなどが住まう西の対屋である。主人不在で住む者のいないこの屋敷は、どこもかしこも無人。これほど無用心で、その実屋敷の持ち主は皇子という身分の高さ。確かに盗賊が入ってもおかしくはない。
「正直に申しまして、盗賊でしたら手も足も出ず、この老いぼれは死んでしまうところでしたよ。」
ふっふっと笑いながら高時は肩をすくめてみせた。
「それで西の対屋に来てみると、何者かがいる様子ではない。部屋の中を隅々見ても何も変わったことはないので、風でも吹いたのかと納得して戻ろうとしたときでした。あの木に、桜の木の下に姫君を見つけたのは。」
まるで舞を舞っているようだったという。薄紅の袿を羽織った、長く豊かな黒髪の美しい女性。ゆらゆらと揺れるその姿は、ひとしきり桜の下を周ったあと闇夜に溶けて消えた。
「顔はよく見えませんでしたが、漂ってくる香が姫君が好んでいたものでしたので。それに以前西の対屋を使っていたのは姫君でした。」
高時は敦史の母を姫君と呼ぶ。彼女が生まれた頃、既にこの屋敷に仕えていた高時の中では、いつまでも小さな姫君のままなのだろう。
「何か災いが起きているわけではありません。恐ろしいとも思いませんが、死してもなお彷徨っておられるなんて、あまりにも姫君が哀れで……」
高時はうつむいていた顔を上げ、咲子と景親を見つめた。
「どうか姫君を、救ってあげて欲しいのです。」
咲子たちは頷く。
「大丈夫です。私たちに任せてください。」
更けて行く宵は色に、微かな悲しみと恋慕が漂っていた。
咲子は一人、西の対屋にいた。格子を上げ、御簾も掲げる。今宵は満月であった。
「確か、月の美しい夜に限って現れるのよね…」
この一月の間、高時が毎日見張ってそれに気付いたという。
「風流な方なのかしら。それとも…」
月の妖力を必要としているのか。それがないと動けないほど、弱い弱いあやかしが。
「……姫さま。」
突然、咲子を呼ぶ声があった。しかし咲子は慌てずに振り返る。
「青藍、緑青、久方ぶりね。」
そこにいたのは咲子の式神だった。二匹の白狐は、行儀よく前足を揃えて座っている。ゆらりと立ち上る青い炎は、妖力が溢れているのだ。そしてそれもするりと消えて、白狐からあやかしとしての気配がなくなる。
「…姫さまの主どのが、敏いもののようでしたので。」
「若殿さまのもとへ行っておりました。」
若殿さま、とは景親のことである。
「そう、そうなのね。気を遣ってくれてありがとう。」
敦史に初対面で式神のことを言い当てられたことを、この二匹も聞いていたのだろう。
「ところで姫さま、あれは珍しいものですよ。」
青藍が庭の桜の木を指して言った。例の、敦史の母君らしき女性が現れる桜の木だ。
「やっぱり分かる?私も初めて見たわ…」
「今のところ恐ろしいものではありませんが、このまま放置はよくないので、祓うのは宜しいかと思います。」
「でも、と言いたそうね。」
険しい表情の青藍に、咲子は苦笑を返した。青藍がため息をつく。
「あれは神とも言えるもの。穢れ祓いは良いとしても、あれ自体を祓うのは……」
「あら、分かっているわ。最初からそのつもりよ。」
初めに敦史からこの話を聞いたときから、だいたいの予想は出来ていたが、はたして何故このようなことが起こったのかはわからない。故に、すべてを祓ってしまうことは、逆に危険だろうと思っていたのだ。
夜風がそよそよと入ってくる。気持ちのよいものではない。そろそろか、と庭へ視線を移したその時だった。
(あっ……!)
咲子の横を、甘い香の薫りがすり抜けた。
青藍と緑青が、警戒するように咲子の両脇についた。
「緑青っ、お兄さまのもとへ…!」
「承知!」
緑青が狐の姿を消して、すっと景親のもとへ飛んでいく。咲子は青藍を伴って庭へ出た。
───櫻子、櫻子
桜の木が淡く発光していた。宵闇の中、そこだけが異世界のようであった。そうして、そこから誰かを呼ぶ声がする。
───曙の君
ふわりと現れた美しい女性が、桜の木の下で舞っていた。
(違う…やっぱりあれは霊じゃない…)
「あれは……」
「幻、だね。玉梓?」
「お兄さま…!」
気がつくと咲子の背後には、景親と敦史がやって来ていて、息を殺して庭の妖しい光景を見つめていた。
「さあ、謎解きといこうか。」