炎花の宴(2)
そろそろ宴もお開きにしようか、そんな雰囲気になり始めた頃だった。
「おやおや、こんなに楽しそうな席に、私のことは呼んでくれなかったのかい?」
おどけるような声が聞こえて、若々しい萌黄色の直衣を着た若者が御簾をひょいっと捲り姿を見せた。傍らには、静けさを纏ってまるで萌黄色の直衣の若者に影のように従う、咲子の主の姿もあった。
「と、東宮さまっ…!」
東宮妃の一人、大納言の娘の瞳子姫が焦ったように夫の登場に声をあげ、咲子はその人物が誰であるかを知る。
突然の乱入者は、東宮敦範親王だった。正装の衣冠束帯が求められる後宮で普段着の直衣が許されるのはここに住む皇族男子のみ。その柔和な面差しや少し癖のある髪の様子などは、伝え聞く東宮そのものだ。
「皆が緊張してしまうと思ったのですよ。それにこれは公式行事ではなく私的な宴ですので。」
さっと扇で顔を隠して、綵子は澄まして答えた。今上帝の妃である彼女は、東宮にも臆する必要はない。そもそも二人は幼い頃から顔見知りであるはずで、年齢を考えれば綵子は東宮に入内してもおかしくはなかった。当人たちがどう思っていたかまでは知らないが、それなりに親しい仲ではあるだろう。その予想通り、東宮に対してつんっとしたままの綵子に敦範は肩を竦めただけだった。
「だったら尚更。私の妃たちもいることだし、遊びに混ぜて欲しいなぁ…ねぇ、敦史?」
急に話を振られて困ったのか、咲子の主は眉間です皺を寄せて兄東宮を睨む。
「…勝手に遊べばいいでしょう。私まで呼ぶ必要はない。」
心底面倒だとでも言いたげな弟の様子をさして気にするでもなく、敦範は上機嫌で、女房が慌てて持ってきた円座に腰を降ろした。 すると、ふいっと咲子の方を向く。
「見慣れない姫君。もしかして君が噂の、陰陽姫?」
予想外な展開に咲子は固まってしまった。まさか東宮にこの場で話しかけられるとは思わなかったのだ。
「左様にございます、東宮さま。」
慌てて敦範のほうを向き、頭を下げる。
「天文博士安倍吉昌が娘、玉梓と申します。」
「顔を上げて、玉梓の君。」
恐る恐る顔を上げると、敦範はにやにやと咲子を見つめ、何か思案しているようだった。
「噂以上の愛らしさだね。こんな子がずっと側にいるなんて役得じゃないか、敦史。」
「……ふざけたことを。」
「いやいや、君だって可愛いなくらい思ったでしょ。」
「こんなのにお守りされるほど私は弱くないとは思いましたが?」
「素直じゃないねぇ」
仲の良さげな兄弟を交互に見ながら、咲子は困り果ててしまう。こっぱずかしいことを言われているが、口を挟むことは出来ないので止められない。呆然とした様子の咲子を見かねて、綵子が扇を鳴らすと敦範のほうがはっとこちらを振りかえってへらっと笑いかけてきた。
「いやぁ、弟をからかうのが楽しくてね…」
まあ君も座りなよ、と敦範が敦史に隣の円座を示す。むっつりと黙ってしまった敦史が腰を降ろそうとした時だった。
風もないのに蝋燭の炎が揺れた。
「…二宮さま!」
反射的に敦史に駆け寄った咲子の、衣の袖に炎が灯る。女性たちの悲鳴が宵闇を切り裂くようだった。
燃え始めた衣を脱ぎ捨て、咲子は右手に印を組んで敦史を背に庇う。
「吽!」
見えない障壁が、飛んできた火の玉を撥ね付けた。
(あやかしはどこ?実体がないの?)
燃え落ちた御簾の向こう側、夜の闇の中に一組の目を見つける。あそこだ。
「発!」
呪符に霊力を乗せて飛ばした。すると呪符は小さな鳥の形になって、あやかしに飛びかかる。
「………!!」
あやかしが何か言葉を発しながら、火花とともに闇の中に散り失せた。
一瞬の出来事に、集まる人々は呆然としていた。唯一すべてが見えていたであろう綵子は、難しい顔をして咲子と、それから敦史を見ていた。
「…ご安心下さい。もう大丈夫です。」
咲子がそう声をかけると、人々から安堵のため息が溢れる。それから咲子へ恐れるような目を向けた。いつもの事ながらのそれに、少々のやるせなさを感じるが気にしてもしょうがないことだ。
「二宮さま。」
咲子は敦史のほうを向いた。怪我がないことを確認し、その青白くなってしまった顔を覗き込む。
「大丈夫ですか?もうあやかしはおりませんよ。」
咲子の声に虚ろだった目がはっと見開かれて、敦史の手が咲子の肩を強くつかんだ。
「お前こそ!怪我はないか?火が…火傷をしているのでは…!?」
咲子の身体を見回し、それから傍らに落ちている焦げてしまった咲子の唐衣や袿を見て、焦った声で敦史が問い詰める。
これまで咲子の姿が目につくのも嫌だというようだったのに、急な変化に驚いてしまい咲子は戸惑った。
「だ、大事ありません。」
「本当か!?」
血走った目で見られ、咲子はこくこくと激しく頷く。
敦史は自分の直衣を脱ぐと、白小袖と緋袴姿になってしまった咲子に羽織らせた。
「あ、ありがとうございます…申し訳ありません。」
「構わない。」
大丈夫だと言ったのに、敦史はまだどこか不安そうに咲子を見つめている。
「玉梓、大事ありませんか。」
綵子に声をかけられ、咲子は綵子に向き直ると小さく頷く。
「大事ありません。ありがとうございます。」
「なら、良かったわ。」
綵子がほっとため息をついた。
「予期せぬ穢れにあってしまいました。宴はここまでといたしましょう。皆、今日は集まってくれてありがとう。楽しい夜でした。」
締めくくりの挨拶ののち、居並ぶ妃たちは順に下がる。先程の恐怖のためか腰が抜けて、女房に支えられながらふらふらと歩くものもいた。敦範は自分の東宮妃たちに寄り添って帰っていく。部屋には最後に光彬と敦史、咲子が残った。
「玉梓、こちらへ。」
綵子が咲子を手招きする。光彬も敦史もいるので少し躊躇ったが、咲子はそろそろと綵子に近寄った。
そんな咲子の手を取り、綵子は優しく微笑む。
「ありがとう。あなたがいてくれて助かったわ。」
「いえ…私は私の仕事をしたまでですから」
ふるふると首を横に振って、咲子は綵子に微笑み返す。実際、あの程度の小物は咲子の手を煩わせるほどではなかった。
「それよりせっかく女御さまが下さった衣を駄目にしてしまって…申し訳ありません。」
そう言って項垂れた咲子に、綵子は何言ってるの!っと声を荒げる。
「衣があなたを守ってくれたのだからそれでいいの。むしろあなたが無事で本当に良かったわ。」
「ありがとうございます。」
こくりと頷いた咲子に、満足そうに綵子は笑った。咲子を慈しむ心が滲み出ている。幼い頃からともにいた二人は大きな身分差がありながらも、お互いに友人であり姉妹のような存在だった。
綵子は、今度は光彬と敦史のほうを向く。
「お兄さま、内密に陰陽寮のほうへ報告へ行っていただけますか。玉梓をあちらへ行かせるのは危険なので。」
「分かっているよ。玉梓の兄君のところへ向かうね。」
そう言うと光彬はさっと立ち上がって部屋を出ていった。おっとりそうなのは見た目だけ。彼の頭の中では素早く問題解決への方策が練られているだろう。
「…二宮さま。」
ただじっと静かに座り、咲子の焦げた衣を抱えていた敦史を呼んだ。
「あなたのせいだと決めつけることは致しません。」
綵子の言葉に敦史の表情が固まる。
「けれど、これだけは覚えておいてください。わたくしは玉梓を大切に思っています。」
「…私は」
「二宮さま。」
敦史が何かを言いかけたのを遮って、綵子は鋭い視線を敦史に投げる。
「今日はこの子を連れてお帰りになって。」
「……わかってる。」
敦史は無表情のまま頷いた。