炎花の宴(1)
和歌は雰囲気ということで…
風の涼やかな春の夕べ。
今上帝の藤壺女御である藤原綵子のもと、藤壺では和歌読みの宴が開かれた。
招かれた者はごく身内だけで、藤原左大臣家の嫡男であり綵子の兄の光彬、宮家出身の麗景殿女御由子女王、東宮妃の藤原大納言の娘と今上帝の兄にあたる先帝の二の姫宮である。綵子の友人という建前がなければ、本来ならここに居並ぶことすらゆるされない咲子は明らかに浮いていた。今上帝には綵子と由子の他にも妃はいるが、今回は不参加ということがまだ救いである。
高貴な方々との宴に慣れていない咲子は、先日綵子から貰った唐衣を纏い、まるで借りてきた猫のように円座に腰を下ろしている。衣は咲子が未だかつて着たことがないほどの着心地のよさと絢爛さだった。
蓬色のような青の単の上に、濃淡を重ねた山吹の匂襲、打衣は薄紅で表衣は白、それから桜色の袿に薄紅の唐衣を纏って裳をつける。あまりの衣の多さに、何故姫君たちはこんな格好をしてあのように優雅に振る舞えるのか、咲子は疑問思った。
(でも袖の中でこっそり印を結べば、妖が現れても大丈夫そう。)
咲子の本来の役目は二宮の監視と護衛であるが、そもそも陰陽師の娘としては何かあったときに高貴な方々を守らなければならないと意気込んだ。
今宵も美しい綵子は、咲子が逃げずに出席したからか、悪戯が成功した子どものように満足げな様子で微笑んでいる。この殿舎の主である彼女は、正装の唐衣裳ではなく小袿だった。しかし、それさえ普段咲子が着ているものと比べるのもおこがましいほどの上等さである。金糸が織り込まれた濃き紅の小袿が、驚くほど綵子に良く似合っているのは、それが帝からの下賜品であるからだろうか。彼の寵愛を受け今をときめく綵子だが、それを誇るでもなく淡々と受け入れる様は、まるで一時の遊びを楽しむかのようである。
「それでは皆さま、初めの題は『宵の香り』です。どなたからに致しますか?」
綵子の言葉に、皆が譲り合うように目線を泳がせる。この中で一番身分が高いのは皇族の由子女王だが、実質は綵子のほうが上だ。その次の東宮妃は、こちらも左大臣家と宮家の姫である。決めかねている様子の女性たちを見かねてか、すっと手を挙げたのは光彬だった。
「では僭越ながら、私から。」
綵子の兄ではあるが、母違いであるから容姿あまり似ていない。綵子が華やかではっきりとした顔立ちなのに対して、光彬は可愛らしく柔和である。彼をまるで子犬のように愛でるご婦人は多いが、それを嫌がる様子もない。ご婦人はそれさえ好ましく思っているようだが、咲子は彼のそれが計画的かつ腹黒いものであると知っていた。そしてその点だけは、綵子と光彬は本当に似ているのである。
こほんとわざとらしく咳払いをして、光彬は歌を口ずさんだ。
春の夜に誘われ花を摘みまほし
色こそ見えね香やは隠るる
「まあ!お兄さまったら」
綵子が咎めるような声をあげた。光彬の歌があまりにも直接的な内容だったからだ。
「花を摘みたいだなんて…」
「でも光彬さまったら可愛いわ。」
女房たちがひそひそとさざめき合う。──春の夜に誘われて花のような貴女を奪ってしまいたいなぁ。その姿こそ見えないけれど、芳しい香は闇に隠れないのだから。
「…本歌取りとも言えないほどの下手くそですわね。」
凡河内躬恒が歌った「春の夜の闇はあやなし梅の花色こそ見えね香やは隠るる」から引用した光彬を、綵子は鋭い目で見た。
「情緒が!台無しですわよ、お兄さま!」
バシッバシッと、綵子の手の中で扇が鳴る。扇が可哀想だなぁと思いながら、こうなっては誰も止められないので咲子はじっとしていた。
「いやあ、私が歌詠み苦手なの知ってるでしょう?女御さま」
「じゃあ口出さないでおだて役だけしとけばいいでしょ!?そのために呼んだのだから。」
「あ、やっぱりそのためだったんだね…」
堂々の戦力外宣言に少ししょんぼりとした光彬を、女房方が可愛い可愛いと囁きあっている。彼の腹黒本性を知っている咲子としては、騙されている彼女たちに教えて差し上げたいくらいなのだが、そうすると光彬に何をされるかわからないので──おそらく社会的に抹殺されるので──黙っていようと腹に決めていた。
「……女御さま。」
乳母君が綵子を小さな声で嗜める。綵子もそれ以上文句を言う気はなかったようで、大人しく引き下がった。が、少し不機嫌だ。そりゃあ、心を尽くして自分が計画した宴を初っ端から台無しにされたようなものだから仕方ないと言えば仕方ない。
はぁとため息を溢して、咲子は口を開く。
「春の夜の……」
空気のように気配を消していた咲子が、突然声を出したので皆一様に驚いた顔で咲子のほうを振り返った。
列席する者の中では最下位の咲子が、上位の者の許しもなく詠みだしたことへの戸惑いもみられる。しかしそんなことは今、大した問題ではなかった。
「春の夜の…闇に隠るる花あらば姿をな見そ失うまじくば」
せっかくの綵子の好意を無駄にしてはいけないので、おそらく咲子への皆の評価を上げるために用意されたのだろうこの機会を利用して場を収めようと詠う。
──春の夜の闇に隠れた、恥ずかしがりや女の子の姿は見ちゃいけないわ。その子を失いたくないならね。
秀歌ではないが、その場しのぎの返歌としては上出来だろう。しかも元の歌があれなのだから。
「……玉梓の君、ごめんなさい。」
浮気がバレた男のように肩を落として光彬が謝罪した。別に諌めたつもりはなかったのだが、彼はどうも咲子の歌詠みを一目置いているらしく、歌に関しては咲子の前で素直だった。
「ふふふふ、流石だわ!」
綵子が扇を広げて顔を隠しながら笑っている。もしこれば人前でなければもっと声を出して笑っていたのではないかというくらい、綵子は上機嫌になっていた。
「恐れ入ります。」
そもそも下級貴族の端に位置する陰陽道の家系の咲子が、何故上位貴族の優雅な遊びに加われるのかと言えば、それはひとえに綵子のおかげである。幼い頃から綵子に仕えていた咲子は、綵子が手習いや歌、楽器の稽古をするときも側で同じように練習をしていたのだ。
女房の幾人かから感嘆と驚嘆、それから光彬をからかったことを面白がるような笑いが起きていた。まあ、綵子の思った通りであろう。恐らく綵子は、陰陽術を使う姫という色眼鏡でみられる咲子が自分と懇意であり、かつこのように学もあるのだと示したかったのだ。この魔窟──後宮で、主の確たる庇護を得られない咲子が生き残れるように。
その後、順に歌を詠み、筝を奏で、宴は和やかに進んでいった。