女御の御呼び
青の単、紅の薄様という五つ衣、それから白の袿に紅の唐衣を纏って裳を着ける。なんとも可愛らしい色合いの春の装いだ。しかし仕事をするのに何故こんなに動き難い格好をしなければいけないのか理解出来ず、咲子は恨めしく思いながら裾を上手くさばきつつ歩いていた。
咲子が宮仕えを初めてから一週間、初日に二宮こと敦史に命じられた通りに、彼の前には一度も姿を見せていない。それでも彼に命じられなくとも仕事はあるので、咲子は忙しくくるくると働き回っていた。
「玉梓さん、ちょっとこちらも手伝って。」
「あ、はい。…って衛門さん、大丈夫ですか!?」
あいたたた、と腰を擦る初老の女房は上げかけの格子戸の下で蹲っている。咲子は慌てて駆け寄ると、衛門の手を引いて円座に座らせた。
「私がやりますから、衛門さんは少し休んでいらしてくださいな。」
「ごめんなさいねぇ…ありがとう。」
つい先日も腰を痛めて寝込んでいたらしい。本来ならこんなことまでしなくていい身分の女房であるし、なんなら出仕も控える年ではあるが、気難しい二宮に仕える新しい女房を選ぶのが大変なので衛門は下がることが出来ないという。…なんだか気の毒だ。
ひょいっと格子を上げると、局の中に日射しが入ってきた。
光は良い。凝っていた悪しき気配が霧散するのが見える。それに風が気の流れを良くする。ふうっと息をついて、後宮の優雅な庭を心地よく眺めた。すると、さやさやと涼やかな、しかし慌ただしい勢いで衣擦れの音が聞こえてくる。
「あっ、玉梓さん玉梓さん、探していたのよ。」
「駿河さん、どうしたんですか?」
三十路半ばの優しげな女房が、玉梓の姿を見つけると急ぎ足で寄ってきたのだ。
「…はい、これ。」
彼女は手に持っていた文を玉梓に渡した。とても上質の透かし紙で出来た紙である。桃色と紅で重ねられて結ばれている様子はまるで恋文のようだが、その文に染み込んだ香の薫りで、玉梓はこれが誰から来たものなのかを察した。
「少し…おつかいをしてきても宜しいでしょうか?」
「えぇ、急いで行っていらっしゃい。」
駿河が頷くのを見て、玉梓は急いで梨壺から出た。
向かったのは藤壺であった。
後宮の中でも極めて帝の御座所・後涼殿に近く、皇后や中宮、もしくはそれに準ずる扱いを受けている女御が暮らすことが慣例となっている。
この場所の現在の主が、咲子を呼び出したのだった。
「…お呼びの文を受け取り参上致しました、玉梓にございます。」
御簾の外から声をかけると、聞きなれた声が返事をする。二人の女房が掲げた御簾をくぐると、昼の座所に腰をおろして優雅に寛ぐ高貴な女人の姿があった。
「お久しぶりね、咲子。」
嬉しそうな笑みが、女人の美しさに愛らしさを増してみせる。つり気味の目が柔らかくなり、絶世の美貌から光が放たれているようであった。以前会ったときよりも綺麗だと感じるのは、きっと気のせいではないだろう。大切にされているようで、少し安心した。
「お久しぶりでございます、女御さま。」
藤壺の主、左大臣家長女にして今上帝の女御である藤原綵子へ、長年の友に会ったかのように無邪気に笑った。事実、二人は幼い頃から気心が知れた仲である。
咲子が五歳、綵子は九歳の頃だ。あやかしに憑かれ、発病した綵子を助けるために左大臣が陰陽師を呼んだ。彼は、そのあやかしを祓うために一度、憑坐にあやかしを移す必要があるからと言って一人の娘を連れてくる。それが彼の娘である咲子だったのだが、それでは自分より四つも幼い咲子が苦しむことになるのか!と綵子が怒った。もちろん陰陽の才がある咲子には、憑坐になるということはたいしたことではなかったのだが、あまりに綵子が拒むので、陰陽師はやむなく自分にあやかしを寄せ、なんとたった五歳の娘に祓わせたのだ。以降、陰陽道安倍家の娘の名が左大臣によって広まることとなる。
あやかしに憑かれたことで、綵子には見鬼の才が宿った。見鬼の才はあるが祓う力がない綵子のために、左大臣は咲子を守り役として側に召し上げたのだ。それ以来、綵子が女御となるまで仕えていた咲子に格別の扱いをしてくれている。
「どう?二宮さまのところでは上手くやれているかしら?まあ、あなたのことだから心配していないけれど。」
「はい。先輩方にも親しくさせていただいております。」
「それなら良かったわ。そうそう、今日はあなたに差し上げたいものがあったのよ。」
そう言うと綵子は側にいた女房二人に合図を出す。すると、その女房たちは大きな櫃を運んできた。
「わたくしのおさがりだけれど。」
女房たちが櫃を開けると、咲子などでは一生着れないであろう高価な織物が詰まっていた。濃き紅の唐衣、藤色の袙、夏物の浅葱の単に、豪華の金糸の刺繍が施された小袿まで。さまざまな衣装が並んでいる。
「あなた、着るものに無頓着なんだからどうせたいした着物を持ってないのでしょう?わたくしはもう着ないものたちだから、あなたが着てあげてちょうだい。そのほうが衣装も喜ぶわ。」
「えっ、こんな高価なものを、こんなにたくさんですか…!?」
無頓着…は図星だが、流石にこれほどの好意をただで受けとるわけにはいかない。というか、このお姫様のことだからきっとただではないはずなのだ。
「代わりにと言ってはなんだけれど…」
やっぱり、と咲子は頭を抱えた。伊達に幼少期をともに過ごしていない。美しく可憐な見た目はまさしく深窓の令嬢のくせに、ずる賢さすら天下一品なのである。
「な、なんでございましょうか…?」
にっこり笑う綵子に怯えながら、咲子は聞いた。
「宴よ、宴。咲子にも出て欲しいなって。」
「……は?」
そういうわけで、咲子は綵子主宰の和歌読みの宴に招かれることとなったのだった。