桜木の精(4)
一人にして欲しい、という敦史を残して、玉梓と景親は部屋を出て釣殿まで歩いていた。
「…私の出る幕はなかったなぁ」
「私の出る幕もありませんでしたよ、お兄様。」
苦笑する兄に笑みを返して、咲子は池に手を翳す。
広がる波紋から、ぱしゃりと水飛沫が上がった。現れたのは、水が形作った闇色の魚だ。
「お父様に報告してきて。」
咲子の声を聞くと跳ね上がり、夜の空へ消える。それを二人は静かに見つめていた。
先に口を開いたのは景親だった。
「しかし不思議なんだ。」
「…はい。」
咲子も頷く。
「確かに、人の念はモノに魂を宿らせることがある。とても稀に、ね。それの多くは、不完全なあやかしとなり、人の心の少しの揺れで悪霊と成り果てるだろう。しかしあの桜木の精は……」
「まるで神霊のようだった…?」
口ごもった景親の言葉を接いだ。景親が頷く。
「珍しいこと、と終わらせるのは躊躇われる。二宮の力に…関係があるのではと。」
景親と目が合う。この兄が考えていることを、咲子は全くわからない時がある。今も、それに似ている。
それはあまりに恐ろしく、咲子は兄から視線を反らすことが出来ずに固まった。
「…わからないわ、そういうことは。お兄様のお仕事でしょう?」
「ふっ、そうだな。」
景親の表情が和らぐ。咲子はようやく金縛りが溶けたような気がした。
「……私、二宮さまのご様子を見てくるから。」
「ああ、頼んだぞ。」
──しっかり監視しろ。
別の言葉が確かに聞こえたと思った。
「…宮さま、お話があって参りました。」
「下がれ。今は誰の顔も見たくない。」
御簾越しにそっと声をかけると、ぴしゃりと拒絶の言葉が帰ってきた。足音や気配から咲子だと分かっていたのだろう。他の女房よりも咲子に対する当たりがきついのは、最近は初めて会ったときよりは少しましになったと思っていたのだが。
「…お酒をお持ちしました。召し上がりませんか?」
「酒……」
入るなとは言われなかった。咲子は一度酒を床におろして御簾を掲げる。中程までで止めると、足元を月明かりが照らした。
「失礼致します。」
敦史は単に袿を一枚羽織っただけのしどけない姿で脇息に寄りかかっていた。薄暗い部屋の中、ぼんやりとした灯りが、彼の気だるげな雰囲気を怪しく魅せている。呑まれるな、と咲子を自分を戒めた。
「…そこへ置け。特別話すこともないが、酒に付き合うくらいは許そう。おまえ、飲めるか?」
「嗜み程度に……」
「良い。」
杯に少し酒を注ぎ、敦史に差し出す。彼はそれを受けとると一気に飲み干した。
黙々と空になる杯に酒を注ぎながら、咲子は一方的に話しかける。
「……母君さまは、主上と二宮さまを大切に思っていらっしゃいました。それは間違いございません。」
だからこそ、彼女の魂はこの世に留まった。
「二宮さまは、母君さまがお嫌いですか…?」
「嫌い、というわけでは……」
返答があった。
咲子は小さく微笑んだ。
「なら良いではありませんか、母君もわかっていらっしゃいますよ。」
そう言うと敦史が咲子を睨んだ。
「なぜ分かる。」
「分かりますとも。だって……」
咲子は、先ほどの櫻子を思い出す。優しく、懐かしいような声。母が子を思う言葉。
「あの子のことを頼みます、と私に仰られたのですから。」
瞠目する敦史の手から、杯を奪う。流石に飲みすぎだと注意した。
「…たま、ずさ。」
「はい。」
泣きそうな顔の敦史の前で礼をとる。これで彼の顔を咲子は見ることが出来ない。
「玉梓は、二宮さまを必ずお守り致します。」
こんなにも脆く、危うい人を放ってはおけないと思ってしまった。
「………好きに、しろ。」
「承知いたしました。」
そのまま酒と杯を持ち、咲子は敦史の顔を見ずに部屋を出た。今、彼と顔を合わせることは出来なかった。──赤く色づいた頬を、見られたくなくて。
お仕えし始めて、今日初めて許されたのだ。傍にいることを。