魔球
後書き参照です。
ポスッと、横で気の抜けたような音がして、俺はそちらで何が起きたのかを確認した。実際、確かめなくても何が起きたかは分かっている。ネットにテニスボールが引っかかって、コートの上を虚しく転がっていた。
またか、と俺は顔をしかめた。
「ゼロ、四! マッチポイント!」
高い審判席の上から、あと一ポイントでゲームが終了する知らせが飛ぶ。この試合、俺のダブルスはほとんど点を取れていなかった。
相手は強豪中学でもないし、俺の学校もそれなりに成績を収めるところだから、圧倒的な試合運びにはならないはずだった。自惚れじゃないが、俺も部員と肩を並べて打ち合える実力は持ち合わせているつもりだ。少なくとも、こんな相手にボコボコにされるような部活はしてきていない。
けど、現実として、俺のダブルスはほとんど一方通行の試合だった。
「わりぃ! こんなつもりじゃなかったんだけどなぁ」
後ろ――つまり後衛の選手――からそんな間抜けたセリフが飛んできた。
名前は赤石慎二と言って、俺のクラスメートであり友人、そして何よりもダブルスのパートナーだ。赤石はネットの付近に転がったボールを拾って、ユニフォームのポケットに突っ込んだ。
「お前、今フラットボール打とうとしただろ」
「あ、ばれた? いや、今のは痛烈な打球でストレートを抜くべきかなぁと思ったんだ」
「フラットボールなんて打てないくせして、試合中に無理すんじゃねえよ」
「入ったらカッコいいじゃん」
「入らなかったろうが。……ったく、一体何度目だ。出来ないことをしようとして凡ミスして、見ろよ、マッチポイントじゃねえか。くそっ」
心底気分が悪いように、俺は吐き捨てるように言った。実際今のシーン、前衛が斜め前に先読みして出てきていたから、ストレートを抜くこと自体に反論はない。でも、打てないボールを打とうとしてミスで点を落とすのはあまりに痛い。そうなるくらいなら、ロブでもなんでも上げて俺にチャンスボールを任せてくれたほうがましだ。
「んまあ気にするなって、まっちゃん。ここから挽回挽回」
慎二は笑ってそう言う。既にファーストサーブのボールは拾ってきているのか、ラケットの上でボールを弄んでいた。俺はそれを見て、更に不快になる。
「一ゲームも取れてねえんだから、もう諦めたよ」
「まあまあ」
慎二はレシーブの位置につく。俺もそれを確認すると、小さくため息をついて自分のポジションに戻った。
相手のファーストサーブは正直に言って、ぬるい。山なりに飛んでくるわけじゃないが、コースも考えられていないし、打球の早さも回転もほとんどない。アンダーサーブがセカンドだから、とりあえずファーストは上から打っておこうという生ぬるい魂胆しか見えない打球だ。しっかりと距離を捉えてセンターにでも打ち返せばすぐに陣形は崩せるだろう。俺はラバーコートを靴の裏でしっかりと踏みしめ、腰を落とす。
サーバーがボールを天高く上げる。軟式の白球が背景の緑と重なってしっかりとした輪郭を持った。ラケットがボールを捉えた。右回転を微妙にかけるようなスライス球。打球が寸秒でこちらに接近してきた。
「フォールト」
副審が手を上げている。素人目から見ても明らかな線越えだ。バカの慎二も流石に手を出さなかったようだ。ワンバウンドした打球を見せしめに強く打ち返している。
次はセカンドサーブ。稀にセカンドもファーストと同じ形態で打ってくる選手はいるが、中学レベルであればほとんどいないはずだ。確実に入れるため、カットをかけてアンダーサーブを打つ。前衛が後衛の位置まで後ろに下がった。打球の威力が格段に弱まるため、サーバーは一気に後手に回らなければいけなくなってしまう。ここは前衛のバックハンドを狙うか、やはり中央で抜くか。
サーバーがセカンドサーブを放った。ボールは緩やかにネットを越え、サービスラインの内側に潜り込んでくる。次いで慎二のレシーブ。
俺はストレートのボールに気を付け、ラケットを構え、打球を待った。
「ライジングショットー!」
ポスッ。
打球は俺たちのコートの上で、無残に転がった。
「ゲームセット」
一日目の閉会式が終わる。夕日をバックにした式は、何より眩しかった。こんな地区の大会で泣いているやつはいなかったが、逆にやる気も無さそうに終わった終わったと息を抜いているやつは多かった。俺も普段は特に感慨もないものだが、今回ばかりはどうしてか気分が優れなかった。俺の個人戦ダブルスは、一回戦敗退という不名誉なものになった。授賞式では、うちのたった二人しかいない先輩が、二位を飾っていた。すげえな、と思いながらも、素直に祝福する気持ちにはなれない。
原因は言わずもがなだった。慎二の最後のプレイ。あれだけが許せなかった。
俺は閉会式が終わると、すぐさま慎二を呼び出した。
やってきた慎二は、近くの自販機で買ったアクエリアスを口に運びながら、自転車の鍵がないとぶつぶつと呟きながら歩いていた。
「おい慎二」
「あ、まっちゃん。俺の自転車の鍵知らねえ? スポーツバッグの中に入れたはずなんだけど、どこいったかなぁ」
「そんなことはどうでもいいだろ。お前、なんで最後のレシーブふざけたんだよ」
「え? いやだって、もう勝てる見込みなかったろ。ゼロ、四の二ゲーム差だぜ」
こいつは本気で言っているのか。本気なら一発殴ってやってもいい。そのくらい、俺はその発言に腹が立った。
「お前任せろって言ったじゃねえか。確かに勝てる気はしなかったけど、それにしたってお前のミスがほとんどじゃねえかよ!!」
腹の底から怒鳴っていた。慎二は萎縮したように肩幅を狭め、俺をなだめるように両手を突き出して「まぁまぁ」と、それでもお茶らけたように言ってきた。
「そりゃ俺のミスは多かったかもしれないが、全部が全部俺のせいにするのはちょっと虫が良いだろ。それに、俺の魔球完成の礎となった一戦だと考えれば、安いもんだろ?」
「魔球だって……?」
「そうそう。ライジングショットって言ってな、バウンド直後に打つとすげえのが打てるらしいんだ。こう、ババーンって感じにさ」
こいつ、どこまでふざけたことを言いやがるんだ。胸倉を掴んでやりたい気持ちを抑え、俺は自分の膝を一発殴って自己主張する。慎二は驚いた顔をしていたが、そんなことは知らない。
「お前、俺らはダブルスやってんだぞ? お前が素でミスっちまったんなら俺もとやかく言わないけどな、そんなくだらないことでポイント落として、ボロ負けしちまった俺の身にもなってみろよ」
「なんだよ。熱っつい青春でもしたいってのか? 別に良いじゃねえか。来年もあるんだし」
「お前なぁ……!!」
堪忍袋の緒が切れたと言わんばかりに、俺は慎二に掴みかかろうとした。しかし、慎二は持ち前の運動神経を生かして俺の腕をがっしりと掴んでしまう。こういう時だけ無駄に素早く動く。慎二の握力が容赦なく俺の腕に食い込むが、俺は負けじと睨みつけた。
「おいおい、勘弁しろよ。俺だって別にお前を怒らせようとしてやったわけじゃねえんだ。そんなにムカついてんなら謝るって」
俺よりも身長が高いために、向こうは謝っているつもりでも、俺は見下されたような気持ちになる。俺は嫌気が刺して、慎二の腕を振り払い、身を翻して、ポケットに入っていたものを後ろに投げた。
「……やってられっか」
チャリン、と音が鳴って、持ち主の下にそれが帰る。
「お、まっちゃん、鍵ぎ拾っててくれたのか。サンキュー」
お前が逃げないように、こっそり抜き取っておいたんだよ、バーカ。
二日目は、団体戦になる。二年レギュラーというのはありえないが、うちの学校では三年生がダブルスでいうところの一ペアしかいないので、二年が自動的に繰り上がることになる。しかし、もちろんその中に入れるのは二年の中でも一握り。俺と慎二はレギュラーではなかったが、準レギュラーという枠にいた。つまり、だれかが欠席でもすれば試合に出れるということだ。
「高橋が右足を捻挫してしまいまして……」
集合がかけられた後、チームメイトの一人が監督に向かってそう言った。高橋は二年の繰り上がりレギュラーで、実力もある男だ。監督と話しているのはそのペアの鈴木だった。
「仕方ないな……。おい、松井、赤石。お前たちの出番だ」
「あ、本当ですか」
半ば予想できていたことだが、嬉しいのかそうでないのか心情は微妙だった。反して、慎二は嬉々としてその知らせを聞いたようだ。
「昨日は一回戦敗退だったからな。持て余した体力を存分にぶつけてくれ」
「分かりました」
「了解っす!!」
俺と慎二はそれぞれにラケットを取り出し、アップするために予め分け与えられたコートに向かう。隣のコートでは、二回戦目に戦うだろう強豪の中学が練習をしていた。中には、昨日慎二が失敗したフラットボールを悠々と打っている選手もいる。フラットボールは打ったときに快音がなるが、まさにそれが飛び交っていた。横を見ると、慎二がそれを羨望の眼差しで見ていた。口元がにやけているのが分かる。あれを打つ自分の姿でも想像しているのだろう。慎二のくだらない考えは手に取るように分かった。
「おい、見てないで向こう側行けって」
「あ、了解、了解」
慎二が走ってコートの向かい側に着く。俺はテニスボールをポケットから取り出し、ギュッと一度握った。弾力を確かめ、空気がきちんと入っているかを確認するためだ。公式と違って、軟式のボールは空気が異常に抜け易い。確認しておかないと、不規則にバウンドするボールになったり、明らかにおかしい回転をする打球が生まれたりする。
ボールの弾力は良好。日差しも弱く、天気も良い。
俺はファーストサーブを打った。腕を振りぬき、相手のバックハンドを狙う。ボールはネットを越え、相手のサービスラインに入った。慎二はそれを難なくバックハンドで打ち返し、わざと俺の打ちやすいところに落としてくる。俺もそれをラリーを続ける気で軽く打ち返した。
何十回かラリーを続けると、大抵どちらかが痺れを切らして強打してくる。案の定、慎二はきっちり十球目にコースを狙って打球を打ち返してきた。ほとんど失速せず、逆にバウンドと同時に若干加速するようなドライブ回転の球だ。俺も軽いステップを踏みながらボールに追いつき、クロスで打ち返した。
慎二は上手い。余計なことさえしなければ、部の中でもフォームは一番綺麗だし、外しがちなファーストサーブを外すことも滅多にない。稀に本気で打ち返してきた球は、腕にずっしりと来るような重みを持っていたりする。それだけ上手いからなのか、どこからか驕りが来て、結局ダメな選手になってしまっているわけだ。
「おーい、そろそろ先輩が交代しろってさー」
柵越しに人の良さそうな先輩の姿が見える。知らないうちに何分か打ち合っていたようだ。十二分とは言えないが、身体の中から熱を感じるくらいにはアップが出来た。俺は慎二に頷き返して、ポケットに入っていたボールをコートのバックライン付近に置いて、コートを後にした。
後ろから走って追いついてきた慎二が、俺の横に来た。ラケットのガットをいじって、ガチガチと音を鳴らしていた。
「お前さあ、普通にやってりゃ強いんだから、いつもああいう風にしてろよ」
俺が唐突にそう言うと、慎二は心底嫌そうな顔をして言う。
「いや、そんな挑戦心のない保身派は嫌だね。俺は全盛期野球選手みたいな魔球を生み出して、日本を震撼させる」
「まだそんなこと言ってんのかよ……」
昨日の今日で、俺もいちいち怒るつもりは無かったが、試合には集中して欲しい。
「フラットは、こう、振りぬくようにだな……」
フォームの確認をしているようだったが、俺は無視することにした。俺も手持ちぶたさになったので、ガットをガチガチといじってみる。ガットがずれていると球に変化が生まれるわけではないが、几帳面でなくてもなんとなく気になってしまうものだ。
そうこうしているうちに、試合の時間になった。
一回戦目は、特に名前も聞かない中学。団体戦は基本三ペア対三ペアの勝負になる。たとえ最初の二戦を取っても、最終戦が無くなることはない。この構図で行くと、三戦目に一番強いペアを持ってくるのはなんとも言えないと思うだろうが、うちの中学は三戦目を決して落とさないことで定評があった。よって、三年ペアが三戦目につくことになり、二年は実力順になって、俺と慎二のペアは二戦目に持っていかれた。
一戦目は、二年の中でももっとも強いペアだった。ほとんど三年と変わりない実力者だったために、実に余裕という感じで敵中学の上級生を打ち負かしていた。
「頑張って来いよ、松井、赤石。あいつら別に強くないぜ」
だらだらに流れた汗を肩で拭いながら言われても説得力に欠けたが、満足しきったような笑顔は確かに余裕を感じさせた。
「さて、行くぞ慎二」
「任せとけ」
俺と慎二は、先鋒と入れ替わりになって、コートへと足を踏み入れた。
昨日のこともあってか、慎二はかなり自制してプレイをしているように見えた。一ゲーム目は難なく奪取し、二ゲーム目はデュースの乱戦の果てに、ゲームを取られた。ラリー戦になるとどうしても二年のこちらのほうがミスが目立ってしまう。スタミナ勝負なんて、中学には通用しないために、長期戦は本当に実力次第だ。一ゲーム目は、ほとんどお遊びだと言われたくらいに、二ゲーム目の相手は粘り強かった。
もう一つ原因があった。コートチェンジを行った後から、日差しが逆光になっていた。ロブを上げられた時に、反応がかなり遅れてしまう。俺は帽子を被らない性質なので、余計に被害が大きかった。今回ばかりは俺のミスも目立ってしまう。その度に「ドンマイ」と言ってくれる慎二は、こういう時だけ心強いと感じた。
五ゲームの勝負において、軟式テニスでは二ゲームずつ奪取すると実質上のタイブレークに突入する。俺たちは乱戦の末、タイブレークまで持ち込んだ。しかし、このことはあまり有利とは言えない。接戦はもっとも燃える場面でもあるが、長い試合は体力的にも精神的にも、やる気を奪っていく。このことは俺には適応されないが、問題は慎二だった。
明らかに気だるそうなか表情を浮かべ、先ほどからサーブの威力も落ち、上げるトスはどうにも適当な感じがする。それでもミスはないので文句はないのだが、ファイナルゲームとなった今、それが目に見えてきた。
「慎二、大丈夫か」
「ああ。超ダルイけどな。さっさと終わらせたいってのに、ネチネチ粘りやがって」
「あんまり攻めのプレイヤーじゃなさそうだな。でもあと少しだ、気張っていこう」
「……おうよ」
それだけ言葉を交わすと、慎二はサービスの位置につく。
タイブレークは先に七ポイント奪取したほうの勝利となる。さらに、サーブレシーブは右側と左側を終えると各選手がぐるぐる交代するようなシステムになり、コートチェンジの回数も多くなる。なんとしても逆光を浴びないほうでキープしたいところだが……。
慎二がトスを上げる。俺は真っ直ぐ前を見て、打球に備える。
「フォールト」
実質上はレットのような際どい位置で、打球がネットの内側に落ちた。この試合、初めてのファーストサーブ失敗だった。
「…………」
俺はそれでも黙って前を見た。今俺は前衛としては限界の位置まで前に出ている。反射神経は良い方なので、例えドストレートに返してきても打ち返せる自信がある。流石に取れない球もあるだろうが、この試合の相手の球はほとんど取れると経験から言っていい。
正面の相手プレイヤーがふぅ、と息を抜いた声が聞こえた。気合が入った証拠だ。少し後ろに下がったほうがいいかもしれないと思ったが、その時には既に慎二のセカンドサーブが放たれていた。
視界に球が入ったとき、嫌な予感はした。まさにストライクゾーンど真ん中と言えば良いのだろうか、相手が構えているベストスポットにボールがバウンドした。そして、ラケットを振りぬいた。
「……ッ!?」
快音がしたかと思うと、俺は自分の左側、つまりバックハンドの方向を見事に抜かれていた。フラットボールだった。受けたことのない異様な速度に、俺がボレーに出したラケットの面は宙を切っていた。後衛の慎二が追いつけるはずもなく、ボールは柵に当たってガシャン、と無機質な音を立てた。
「ゼロ、一」
これは明らかに俺のミスだった。初めて真正面から受けるフラットボールに、俺の心臓は微かに高鳴っていたが、それよりも慎二に申し訳ないことをしたと後悔の念が先立った。
「悪い。判断ミスした」
俺はボールを取りに行った慎二の傍まで行き、そう声をかけた。
「構わねえよ。さっさと終わらせちまおうぜ」
そうそっけなく返されると、慎二は二回目のサーブのために位置についた。
まさか前衛側までフラットを打ってくるとは思わないが、先ほど受けた球を思い出して、自然と後方に位置して腰を落とした。明らか様に怖気づいているのを俺は気付かなかった。
慎二のファーストサーブが入ると、相手は偶然か、バックハンドの裏面を使ってカットボールを繰り出してきた。しかも、かなり絶妙な位置だ。威力に押されたせいもあったのか、ほとんどネットスレスレだ。俺は飛びつくように駆け出したが、カット回転がかかったボールはラバーコートに体を弾ませると、一気に失速する。必死にラケットを伸ばし、せめてフレームに当たらないものかと救うような動作で迫ったが、結局先に当たっただけで、俺の身体だけがネットに突っ込んだ。腹部にネットが食い込み、うっ、とくぐもった声を漏らしてしまった。
また俺のミスだ。唇を噛み、向こうのコートに届かなかったボールを拾ってポケットに入れた。今度は俺のサーブになるからだ。
「ほれ、ボール」
慎二がセカンドサーブをしなかったために持て余していたボールを俺に放り投げた。ラケットの面でキャッチして、手に収めた。
「挽回するから、フォロー頼む」
「……あいよ」
「……」
コートチェンジを行い、運悪く俺は逆光を浴びることになる。
トスを上げた。
「くっそ……!!」
打ったボールは入らないどころか、ネットに届く前にバウンドしてしまう暴投だった。いくら太陽がまぶしいからと言って、これは無かった。
瞬間、俺の心臓が急に跳ねた。口内が乾き、一度深呼吸をせざるをえなくなった。緊張しているのか、どうなのかは分からないが、あまり良くないコンディションだ。ボールを何度か握って、気持ちを落ち着かせる。
セカンドサーブを打った。アンダーは外さない。
「ダブルフォールト」
……届かなかった。無常にもネットにぶつかり、ボールは俺たちサイドに落ちる。相手プレイヤーは安心したように肩を降ろし、野次馬が「ラッキー!」と叫んだのが聞こえた。
「……っ」
身体の中に、言いようの無い冷たさが走った。熱を持っているはずなのに、確かに寒気がした。風邪なんて引いているわけは無い。頭の中でその正体を探ったが、思い当たる節は一つしかなかった。
「悪い……次は入れる」
「……おう」
トスを上げた。今度はきちんと決まったが、相手も難なくそれをレシーブしてくる。野次から「ナイスレシー!」と声が上がった。全然そんなことねえよと言いたくなったが、打球が返って来たので、返すのに必死になった。
そのポイントも取られ、ゼロ、四まで追い込まれた。タイブレークまで持ち込んでおいて、一点も取れていないことに俺は苛立っていた。そして、その点数がほとんど自分のせいで取られた点だということに焦りを感じていた。やけになりそうな気持ちを抑え、もう一度深呼吸をした。
サービスプレイヤーは変わり、相手からのサーブになる。
さっきのフラットボールを思い出す。後衛の打球はかなり強力だ。ファーストサーブが入る確率は低いが、万が一入ってしまったら返せる自信は無い。とりあえずは慎二にがんばってもらおうと思う。
「ゼロ、四」
主審の声がかかり、相手プレイヤーがトスを上げた。腰を曲げ、明らかにスライス回転をかけるフォームではない。打球が放たれると、それはネットスレスレを通ってインになった。主審の信号を見なくてもコースは完ぺきだと俺にも分かった。果たして慎二は、と慎二のをほうを余所見した。
「イン」
慎二は一歩も動かなかった。いや、目の前に迫ってきたボールを避けるために、一歩動いたかもしれない。あえて取れないと踏んでスルーしたのか?
「ありゃ取れないって。早い早い」
そうおざなりに言うと、さっさと後衛の次の位置に行ってしまう。確かにあの球はそう易々と取れるものじゃなかったと思うが、それにしたって諦めすぎだと俺は思った。
仕方なく俺もポジションに戻ると、腰を落としてサーブに備える。
「ゼロ、五」
ファーストサーブが来る。またもギリギリのコースでインになり、俺は体制をもろに崩されながらもガットに捉えることが出来た。しかし、その球はあられもない方向に飛んでいき、審判から「アウト!」と声がかかる。確かにあれは取れない。
「やばいな……ゼロ、六になっちまった」
俺はボールを拾いに戻りながら、慎二に言った。
「仕方ねえ仕方ねえ。あれ超早かったろ? ったく、温存しやがって。やる気失せるっての」
「上には上がいるっていうか、下にも上はいるって感じだな……」
「あーあ。勝てねえ勝てねえ」
「おい慎二……」
真面目にやってくれよ、と言おうとしたが、慎二は行ってしまった。
次は前衛のサーブだ。まさかこちらも隠し持っているとは思わないが、まさかのまさかでフラットサーブを打ってくるということは無いだろう。この点を取れば、モチベーションも次第に回復するだろうと俺は踏んでいた。
「ゼロ、六。マッチポイント」
けれども……。
「うらぁ!!」
叫びにも似た掛け声とともに、慎二のむちゃくちゃなレシーブが放たれる。それはホームランボールになって、柵の向こう側に飛んで行った。相手プレイヤーも何事かと呆けていたが、しだに自分が勝ったことを理解できたのか、綻んだ笑みを浮かべてゲームセットの知らせを聞いていた。
かくいう俺は、呆然としていた。なんというか、何も感じなかった。怒ったかもしれないし、哀しんだかもしれないし、呆れたかもしれないし、諦めたかもしれないが、その時はもう無心だった。
「あー、魔球、ハドウボール。成功しなかったかぁ」
慎二だけがおき楽に、そんなことを言っていた。
今度こそ、俺は慎二の胸倉を掴んでいた。人気のない駐車場まで呼び出して、公衆トイレの壁に慎二を押し付けた。
「昨日のことを忘れたのかよ」
思いっきり眉間に皺が寄っているのが分かる。慎二はそんな俺を目の前にして、何処吹く風といった感じで目を逸らした。バツが悪いわけじゃない。単純に反抗しているだけだ。
「確かにポイント差は激しかったかもしれないけどな、勝てるか勝てないかの勝負の前に、あれはねえだろうが」
「……うるせえな」
「あ?」
慎二が小声で言ったことが聞き取れず、俺はさらにガンをつける形になった。
「うるせえって言ったんだよ!」
「……っ!!」
押し付けられていたはずの慎二は、いつの間にか体制を入れ替えて俺を壁に押し付けた。背中にドンッと衝撃が走り、俺は咽こんだ。
「……さっきのファイナルゲーム。お前のミスで四ポイント落ちてるんだぞ。俺にとやかく言う権利がお前にあんのかよ」
「それは……」
前衛を抜かれ、ドロップに引っかかり、ダブルフォールトし、サービスエースを食らう。面目は丸つぶれどころか、最悪だった。今度は俺から慎二の視線を外し、奥歯を噛み締めた。
「お前だって調子こくのはいい加減にしろよ。何のシュミレートが頭ン中で起きてるのか知らねえけどな、前衛がセカンドサーブの時にあんなに前に出てるわけも無いし、ファーストサーブの時に後ろに下がってどうするんだよ。あげくの果てにはダブルフォールトだ? 俺だってフォローしきれねえ」
「悪い……」
「……まっちゃんさ、テニスやってて楽しいのか?」
「え?」
俺は突然の問いに、逸らしていた視線を慎二に戻した。慎二の目は貫く凶器のように鋭く俺を睨んでいた。
「いっつも試合中、何か考えてんだろ。ずっと難しい顔してるし、ミスすると異様に落ち込んだりする。んでも、まっちゃんが満足そうに、そう、さっきの先鋒たちみたいな顔をしたことは見たことねえぞ」
俺は言葉を詰まらせた。楽しい楽しくないの問題じゃなく、図星を突かれたのだ。俺は勝利に執着するような性質じゃあないが、かといって不真面目なプレイは許容出来なかった。そして、一球一球の読み合いをするようなプレイが好きで、いつもそうしていた。でもこれは、結構息の詰まるプレイで、どちらかというとストレスの溜まるものだった。特に慎二は真逆に位置するプレイヤーなので、試合中はいつもイライラとしていたかもしれない。
「思い返せば……そうかもしれないな。でも、だからってなんだってんだよ」
「俺が楽しくねえんだよ。隣でチーム組んで共闘してるやつが、毎回そんな顔してみろよ、テンション下がるっての」
「それも、そうかもしれないな……」
素で申し訳ないと思う。自分がそんな顔をしているとは思わなかったのだ。
しかし、慎二は更に予想外の言葉をかけてきた。
「認めんなよ」
「は……?」
今度こそわけが分からず、俺は間抜けな声を上げた。反して慎二はさっきよりも鬼気迫る様子で、俺のぬ胸倉を締め上げる。俺は爪先立ちになって、それになされるがままになった。
「そうやってすぐに非を認めて、自分を通せないのもまっちゃんの悪いとこだ。心では反省してはいても、どうせプレイスタイルは変えるつもりないんだろう? とりあえず認めておいて、次に生かそうとか考えているだけで、自己完結とかしちゃってんだろ?」
「そんなつもりは……」
「まっちゃんは真面目ちゃんだからさ、そうなっちまう気持ちが分からないでもねえよ。でもさ、それにしたってもう少し楽しんでも良いんじゃないのか。俺は確かに遊びすぎかもしれない。でもな、まっちゃんがああいう顔してたら、俺がああしないと釣り合いが取れないんだよ」
ハハッ、と乾いた笑い声を上げて慎二はバツの悪そうな顔をした。俺は慎二の言葉を噛み締める反面、今の言葉は口からでまかせだなと思った。
「俺は、楽しくなさそうか?」
「そうだな」
「そうか」
なんだかショックだったのかもしれない。自分がやっていることが、自分にとっては楽しいことじゃなくて、さらには友人にまで迷惑をかけていた。俺は毎度のように慎二の行動に苛立っていたが、それは慎二も同じだったのだ。結局は、どちらも、どちらとも持っていないものに腹が立っていただけなのかもしれない。
でも、なんだか俺の内側はすっきりとしていた。いつも流れる風のように言葉を聞き流してしまうような慎二と真剣になったせいなのか、どこか突っかかりが取れた気がした。
これだったのか、と俺は認めた。俺がいつも苛々していたのは、この暗雲がいつも中にあったからだ。何か気に食わないことが起きるたびに雷を鳴らしていた。でもあいつは、本当に風みたいなやつで、どうにかして俺の暗雲を吹き飛ばしてやろうとしていたのかもしれない。
……そこまで考えて、俺は絶対にそんなことはありえないな、と自嘲の笑みを漏らした。
「笑ってんじゃねえよ」
「笑ってねえよ」
やっと慎二の太い腕が俺の襟首を解放する。踵がようやくといった様子で地面と対面し、俺は一息ついた。結局、慎二を叱るつもりが、逆に俺が反省させられる形になってしまった。
「まっちゃん」
慎二が俺の肩に手を置いてくる。
「なんだよ」
「今大会、俺たちはゼロ勝二敗だ。そろそろ勝たないと先輩にも先生にも申し訳が立たないと思わないか」
「そりゃあ、そうだろ」
「というわけで、次は必ず勝つぞ。俺も本気出してやる。だから、お前も本気を出せ」
まるで俺が今まで手加減していたかのような言い草で、俺の肩をかなりの握力で掴む。いてえよと言いたかったが、まずは慎二の提案に答えることにした。
「俺のハドウボール。解放しろって言ってんだろ」
二戦目は強豪中学だった。昨年、地区は優勝、県大会でも優秀成績を収めているだけあって、ラリーの練習をしているのを見ているだけでも気迫を感じてしまう。否応にでも緊張する羽目となった。俺と慎二も、負けじとラリーを続ける。相手に舐められてたまるかってんだ。
先ほどと同じ組み合わせでの団体戦。しかし、強豪中学の三年だけあって、一戦目、先鋒の同級生は呆気なく敗退してしまった。
「やべえやべえ。あいつら、コース狙っても普通にきっつい球で返してきやがる。油断するなよ」
俺は敗退したチームメイトの土産をしっかりと頭に叩き込んで、屈伸運動を始める。運動の必要は無い。ただ、身体をとにかく動かしておきたかった。
「勝とうぜまっちゃん」
慎二がそんな俺の横で、肩を回しながら言った。
「俺はいつだって勝とうとしてたさ」
「そうだったな」
相手選手との軽いラリーが終わる。準備運動はこれで終わりだ。ここからは本気の出番。
主審の声が上がる。それを合図に、相手の後衛がとサービスラインからトスを上げ、ラケットを振りぬいた。強烈な打球。素人目から見ても、今まで対戦してきた選手がいかにぬるかったかが分かる、速い球だった。
その瞬間だった。俺はよろけて打つ慎二の姿を想像して、若干後退しながらラケットを構えていたが、その懸念は一気に払われた。
慎二の打球は後ろに下がっていた前衛のバックハンド、つまり俺から見て右側のラインギリギリを物凄い速さで駆けて行った。
「フラット、ボール……!!」
俺は思わず声を上げていた。相手プレイヤーはなんとか打ち返したようだが、裁ききれずに明らかにアウトになる高さで打ち上げた。俺はゆっくりと飛んでいくそれを目で追い、アウトになる様を見送った。
「アウト」
凄い。素直にそう思う。ほとんど力加減もしていなかっただろう、明らかな強打。相手プレイヤーも意表を突かれたのか、悔しそうな顔をしてガットをいじっていた。
「どうだまっちゃん。すげえカッコイイだろ」
「あ、ああ……!!」
俺も心なしか興奮していた。敵から受けることはあっても、自分たちから打とうとは決してしなかった打球。それが慎二から決まり、俺は嬉しかった。
「さて、次頼んだぜ」
俺はレシーブの位置につく。まだあの光景が眼球に張り付いて離れない。綺麗に決まったフラットのストレート。そう、確かに綺麗だった。俺にとっては、どんなロマンチックで目を奪われる光景よりも綺麗だったのだ。
そこで気付いた。
――これか、この感情が『楽しい』ってやつなのか。
心臓が高鳴っていた。さっきの試合のものとは全く違う。早くこい、早くこいと急かすように鼓動を刻んでいる。自然を足は小さなジャンプを踏み、タッタッタとリズムを作っていた。
後衛がサーブの位置に入り、審判の合図を待つ。俺は何度か素振りを行うと、出きるだけバックハンドに来ないように左側に寄った。
「ゼロ、一」
来る……。
さっき見たものと同等のサービスが俺の内側に入り込んでくる。だが、関係のないことだ。
「ハドウ……ボール!!」
そう自分の中だけで叫んで、思いっきり腕を振りぬいた。
そしてもう一度気付いた。
ああ、これは確かに『魔球』だと。
どうも、蜻蛉です。
久々の執筆で、果たしてスランプから抜け出せているか不安ですが、どうだったでしょうか。今回は自身のテニスの体験を生かして、ということだったんですが、昔のことなのでテニスのルール間違っているかもしれません。多分、多分合っていると思うんですが。あと、硬式と軟式はルールが違いますので、そこの部分はミスとか思わないで下し。
今回は「知識のフル活用したらどうなるのか」ということで、ぶっちゃけ説明描写が多かったかもしれません。無駄とは思ってませんが、くどかったかも。まあ、それも一つの味ってことで一つ。
スポコンがやりたかった。でも、なんかちがう。