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旧作・駄作・ほぼ没

覚え書き・罪とは何か

作者: 住友


「罪の継続それ自体が新しく犯された罪である。

罪を反省しない各瞬間そのものが

新たな罪である。

大抵人は個々の罪状だけを勘定に入れるが、

実際は罪のうちに留まっていることこそが

最も悪しき罪であり

罪人的破滅への歩みの

原動力に他ならない。」

(キルケゴール『死に至る病』)


大悪党と

たまにちょっと悪いことを

しでかすだけの凡人の違いは

『罪の連続性』の有無です。


凡庸な人には良くも悪くも

行動や意識に連続性、統一、一貫性がない。

日々の生活の中で不安がったり

虚しさを覚えたり、

かと思えば運や気まぐれや何かのきっかけ次第で

幸せになる。

ある時は善行を働き

また別のふとした瞬間には

間違ったことをしでかす。

こうした普通の人の間では

個々の事態、個々の善、

個々の罪だけが問題にされます。


「昨日10万円盗んで

今日は100万円盗んだ」

それはもちろん罪だが

厳密にはあくまで罪が表面化したもの、

罪の表現の一つでしかない。

本質としての罪そのものではない。

本質の罪とは連続性としての罪、

精神の規定としての罪、

すなわち

罪を悔い改めようとしない態度そのもの

のことです。


罪の連続性はそのまま

絶望の深度であり

絶望の深度はその人間に

魅力的な陰影をもたらす場合があるが

審美眼と救済はあくまで別物だ、と

キルケゴールは説きます。

大罪人に連続性があり

凡人にはないからと言って

罪の連続性は

いかなる優位性をももたらすものではないし、

誇るものでもないということです。


「俺は反社会的人間かもしれない」(戸惑い)

       ↓

「俺は恐らく反社会的人間だ」(予感)

       ↓

「俺は反社会的人間に違いない」(確信)

       ↓

「俺は反社会的人間だ」(決定)

       ↓

「俺は反社会的人間でしかない」(限定)

       ↓

「俺は反社会的人間であるべきだ」(使命感、

                 法律用語における『確信』)


と、まあこんな具合に

「絶望的に自己自身であろうと」していく過程が

罪を重ねる過程と同期、シンクロしていく訳ですね。

キルケゴールが最大の罪だと言っているのは

この絶望的な転落そのもののことです。

人は特殊な環境や状況において絶望や罪に陥るのではなくて、

人生そのものが絶望のプロセスであり罪を犯すプロセスなのです。


「絶望とは罪である。」(『死に至る病』第二編)


人生において「この道しかない」

「この道を行くべきだ」と思うのは

絶望の始まりであり

政治において「この道しかない」

「この道を行くべきだ」という言論は

煽動、デマゴーグ、衆愚政治、恐怖政治の始まりです。

(似てるようで違うナポレオンとヒトラーの差異が

この点にあると思う。)

新興宗教なんかでもこういうの常とう句ですよね。

皆さんも気を付けましょう。

(結局、キルケゴールのキリスト教礼賛もカミュに言わせれば

『飛躍』、新興宗教と大差ないんだよなあ)



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